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どうして音楽の歌詞には「君」が居るのか

一体君というのは誰なんだ。俺はそんな奴知らない。世界には「俺」しか居なかったはずではなかったのか。

私は自殺に関する曲が好きだ。神聖かまってちゃんの「るるちゃんの自発配信」、カンザキイオリの「あの夏が飽和する」、中島美嘉の「僕が死のうと思ったのは」などである。

自殺というのはこの世で最も「自己的」な行為である。絶対的な決定権は自分にあり、誰にも干渉されることのない最も自由な行動である。故にこの神聖な行為が他者によって遮断されることを私は快く思わない。

中島美嘉の「僕が死のうと思ったのは」は、とても希死念慮に深く向き合っている。「僕が死のうと思ったのは」という枕詞と共に、自殺願望を持ってしまった様々なきっかけを上げ連ねる。身近なこと、小さなこと、他愛もないことに自らの死の理由を見出す。それは死にかけた感性の最後の叫びである。

しかしこの曲は最後に「僕が死のうと思ったのは、まだ貴方に出会ってなかったから」と言い出す!!

私はとても腹立たしくなった。神聖な希死念慮を他者に侵害された気がした。私は裏切られた。どうして歌の歌詞には「君」が現れて「私」を変えてしまうのか?

どうして社会は「私」が「私一人」であり続ける権利を奪うのか?!?!?!?



というわけで、「君」が登場しない、「私」だけの話をする音楽を募集します。Twitterのリプにでもどうぞ。

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