見出し画像

数は”もの”というより”操作”である

突然だが、以下の等式を読者はどう理解するだろうか。

(-1)×(-1)=1
マイナス×マイナス=プラス


二年ほど前、とあるVTuberの配信を見ていた。彼女はこの式について納得していない、と主張していた。容易に想像される通り、直後のコメント欄はたいそう賑わった。あの手この手のたとえ話をする人、「そういう約束だ」と定義に訴えかける人、あるいは「そう憶えているだけだ」と諦観する人。みなさんならどう説明するか?

結局彼女は「理解はしたが、納得はしない」という状態で配信を終えた。重要なのは、彼女が「納得していない」と言っていた点だ。これは理解の問題ではない、すなわち「定義から出発して何かが演繹される」といった論理の問題ではない。それ以前の段階にある「その定義がいかにして妥当なのか」が問われているのである。

何が彼女の納得を妨げていたのか。私は長い間考えていた。リハビリのために大学院に通いながら。趣味の本を読みながら。整骨院で電流を流されながら……。この頃、当該の問題とは直接関係のない別の場面で私はいくつかの刺激を受けて、私の世界に対する見方──世界観──は様々な哲学的転回を経験していた。そうして半年ほど経ち、私は一つの結論に至った。


数は”もの”というより”操作”である

[1]
1個のものがある。2個のものがある。3個のものがある……。こうした概念に我々は慣れ親しんでいる。物の数を認識するのはとても基本的な思考であり、意識しなくとも目に入る情報を処理する過程でかなりの程度無意識に行われている。故にこの認識を解体するのにはかなりの努力、衝撃、または宗教的天啓を必要とする。私はうつ病を通してこれを解体した。

一度解体できてしまえば、「数」と「もの」が対応するのはとても限られた、特殊な場合にすぎなかったことが分かる[2]。

手始めに、数を「もの」ではなく「操作」として捉える練習をしてみよう。1という数は、どんな数に掛けても何も起こさない。2×1=2だし、100×1=100だし、0×1=0である。その意味で「×1」とは「何もしないという操作」であるといえる。
同様に-1を「-1というもの」ではなく「×(-1)という操作」として捉えてみよう。この観点で(-1)×(-1)=1という式を書き換えると、×(-1)×(-1)=×1となり、×(-1)は要するに「二度行うことが何もしないことと同じになる操作」と言える。

以上の議論は先に数学から出発し、そこから解釈を引き出したわけだが、これを私は推奨しない。本当にやってほしいことは、今言ったことの「逆」である。

つまり、「何もしない」にはいつでも1という数をあてがうことができ、「二回やることが何もしないのと同じであるような操作」にはいつでも-1をあてがうことができる、というように考えるのである。例えば「裏返すこと」や「電源ボタンを押すこと」などが「-1」に該当する。

この延長で、虚数単位 i を捉えることも可能である。i はたいてい「 i×i=-1となる数」として定義でされるが、 やはり i や -1 を「何かのもの」として捉えようとする限り、困惑が納得を上回ってしまう。だが i も「×i という操作」として捉え直せば、「二度行うことが×(-1)と同じになる操作」といえる。これをさきほどの-1の特徴づけと組み合わせれば、iは「四回やることが何もしないのと同じになる操作」であるといえる。ただこの特徴は-1にもあてはまってしまうので、区別するために「だが二回やることが何もしないことと同じにならない」という特徴も付加しておけばよいだろう。例えば「回れ右」をすることは「i」に該当する。

このように「まず操作と応答の関係が与えられていて、そこに数を名付ける」という立場が、より良い数への納得を提供してくれると私は思う。

翻って、それとは順序が逆の理解の仕方である「まず数があって、それが操作に対しこう応答する」という立場こそが、(-1)×(-1)=1の納得を妨げているのだと私は思う。こちらの立場をとっている限り、どれだけ「反対の反対は賛成だ」とか「マイナスの借金は利益だ」とか言われても、「そもそも-1ってなんだよ」という疑問が解消されないため納得は発生しない。当然である。こちらの立場では、まず-1という数が一次的に存在しており、諸々の例え話は二次的な結果の羅列に過ぎないのだから。

この認識から脱却してみよう。-1という数は初めから存在するわけではない。二回行ったら元通りになる操作に対し後付けで名付けられる名前なのだ、と。日常生活でも-1をかける操作をみなさんはたくさんしているはずで、そうした操作をした時に「今私は-1をかけたんだ」と気づけるようになれば、負の数の掛け算が少しは納得しやすくなるかもしれない。

ただ、この発想の逆転に至るには、それなりの訓練を積むか天啓を得る必要がある。その天啓は数に限らず、世界全般に対するものの見方の根本的な逆転によって初めて完成する。

「まずものがあって、」思想からの脱却

さきに-1というものは「ない」と言った。ただ、ここでの「ない」は「ある」の否定であるという点で引き続き存在の概念に依拠している。実は私はこれが不本意だ。私はここで、存在に依拠しない、より根本的な見方をしてはどうか、と提案したい:

この記事長ぇよ! という方のためにこの記事の内容を一言で表す。

ものは幻想である。

もう少し詳しく一文で表すなら

「ものがあり、それが見えている」という認識から、「見えており、そこにものを仮想する」という立場への反転

となる。この発想の転換を、殊に今の数字に関する議論に適用すると、次のようになる。

「数があり、それが関係している」という認識から、「関係しており、そこに数をあてはめる」という立場への反転。

この発想の逆転さえできれば、全ての数字は大前提として「もの」ではなく「操作」であり、-1だろうが虚数 i だろうがそれを「自然」に感じられるようになるだろう。

この発想の逆転を、チラシを裏返す例で練習しよう。皆さんは普段このように考えるはずだ。

まずチラシがある。それを裏返すとさっきとは違った面が見える。でももう一度裏返せば初めと同じ面が見える。

しかし逆転後の立場では、このように考える。

裏返した。するとさっきとは違っていた。そこでもう一度裏返した。すると元通りになった。そこであなたは、そこにチラシがあると仮想する。

あなたに先に与えられているのは、「二回裏返すという操作と、元通りになったという応答の間の関係」であり、「チラシ」はその後にあなたが与えた仮象なのである[3]。

(-1)×(-1)=1の話は、これと全くパラレルである。学校では、普通こう教えられる。

-1がある。これを2回かける。すると1になる。

しかし立場を逆転すれば次のようになる。

2回かけた。すると1になった。これを-1と呼ぼう。

後者の立場であれば、「まず-1というものがあって」「-1ってなんだよ」という議論はそもそも発生しない。2回行えば元通りになる、という「操作と応答の関係」を満たすものであれば、なんでも-1と呼んでいいのである。だから、「裏返す」という操作は「-1」なのだ。

この「ものは幻想である」というラディカルな立場に立つことで数学におけるあらゆる定義は全て自然に感じられるようになる。ただこれはある種の狂人の境地であり、この思考を極めすぎると、今自分が立っている床すら幻想に思えて足がすくむようになってしまうので注意が必要である。

まとめ

この記事では我々が「マイナス×マイナス=プラス」を納得するのを何が妨害しているのか、について考えた。その犯人は「まず数があって、」という認識なのだろうと私は推論した。そしてその認識から脱却する術を考えた。

それには認識の逆転が必要だった。数はものというより操作である。数がまずあるのではなく、操作と応答の関係から、後付けで数を名付けるのである。そしてこの思考転回の背景には、より広く世界に対する見方の逆転が潜んでいた。ものは幻想である。ものがあってそれが見えているのではなく、見えておりそこにものを仮想するのだと。

数学は人から見えた世界の体系化である。その根本にあるのは生命がこれまでに積み重ねてきた原因と結果、操作と応答のデータの効率的な整理である。その際最も役に立つのが「もの」という仮象だったため、いつしか人々は「もの」が初めからあるように感じるようになったのだ。日常生活を送る上では、それがコスパが良く、そして生物としても正しい。ただ、数学を真面目に考える際は、このバイアスを取っ払う必要がある。つまり、生き物としての生きやすさに逆行する必要があるのだ。数学が人を選ぶのはまさにこの、本能に抗う難しさがあるからだと私は思う。本能に従うことと、本能に抗うこと、どちらも生命に欠かせない要素であるから、数学を納得しやすい人と納得しづらい人のどちらが偉いみたいな話ではないということを最後の注意として、この記事を締め括らせていただく。


脚注(数学が分かる人向け)

[1]表現空間への作用の仕方で群の元を判別するという話

[2]代数と幾何の関係である単位的可換C*環とコンパクトハウスドルフ空間の同値関係は奇跡で、一般の代数を持ってくると幾何の方は非可換空間みたいな直感に反する世界になっちゃいがちという話

[3]圏論では対象よりも射が偉いよねという話


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?