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遺書

ここ数週間、死を想わない日は無い。そんな中何か書けるものがあるとすれば、遺書しかない。これは必然であって、自動的なことである。

別に自殺の算段が立ったわけではない。いつどこで死んでやろうと決めたわけでもない。ただ自分の手元にはちょうどいい長さに結ばれた綿ロープがあり、どこかの橋の欄干と自分の首に両端をひっかけて飛び降りればいつでも死ねるという状況にあるだけだ。



毎日、そんな想像をする。RPGの画面のような視界には、様々な選択肢が羅列されており、その中には必ず「死」が入っていた。特に薬が切れているときには思考が袋小路に閉じ込められ、五秒で一巡して戻ってくるようになり、その度に自殺する自分の姿を想起する。

やがて自分は遠からず死ぬという認識は確固たるものとなった。それを前提に思考し行動するようになった。橋から飛び降りるときに少しでも後ろ髪を引かれる様な思いをするのが本当に嫌だと感じるので、身の回りの物事を早く整理しておきたいと思うようになった。

借りた本を返す。貸した本を返してもらう。受けていた仕事を断る。同人関係の約束事を済ませる。人に受けた恩を返す。大学を辞める。研究室を去る。人と会う約束を消化する。死ぬ前に会っておきたい人に会っておく。死ぬ前に話しておきたいことを全部話す。そうして自分の中身を空っぽにする。後に何も残らないようにする。

死んだ後の未来のことは諦める。家の本棚にある同人誌を全部読むのは諦める。研究室の本棚にある理学書を全部読むのは諦める。素粒子論、超弦理論の進展を見届けるのは諦める。脚本屋としてお呼ばれしかけていた創作者としての道を諦める。大好きだったアニメ「電脳コイル」の監督の最新作を見るのを諦める。本格始動したV.W.Pの今後の活動を見守るのを諦める。中止となったにじさんじ4周年記念ライブの、いつあるか分からないリベンジ公演で、推しの戌亥とこさんを目にすることを諦める。

先のこと、未来のことは自分には関係がないのだという諦観は日々強まり、一方でまだ見ぬ時代を目にしたいという好奇心は次第に委縮していった。今年に入ってから、遂に前者が後者を上回ったように感じる。自分の歩む道の先の、遠からぬどこかの段階で、シャッターが閉じられて道が塞がれたことを確信した。それより先を私が見ることは無いだろう。

世界は静かだ。私以外には誰もいない。何もない。周囲の物事を感知する感性は削ぎ落された。何もしないまま、意識があるのかないのかわからぬまま平気で一日が立つようになった。今や私は表面的にのみ生きており、中を覗けば感性が、意欲が、欲求が全て活動を辞めて静止している。中身はもう何もないのだから、外側が腐るのも時間の問題だ。

私が死んだとき、なぜ私が死んだのかは以上の文章を読めば分かるだろう。故にこれは遺書である。


この文章を書くことで、また一つ身辺の整理がついた気分だ。

残りの作業も早々と済ませることにしよう。

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