心配すんなな。

祖父が余命宣告された。

長年、農家としてお米やさくらんぼを作ってきた祖父は、今月90歳を迎える。
2020年夏、熱中症で入院してから、急激に認知症が進んでしまい、祖母が待つ自宅に戻ることができずに施設に入居した。

この間、祖父にようやく息子と娘を会わせることができた。12歳以下は施設内に入ることができないため、窓越しだったが、祖父が生きている間に会えてよかった。
3年7ヶ月振りの祖父は、とても年をとっていた。

畑仕事で日に焼けて、笑うと抜けた前歯がある意味チャームポイントで、美味しそうにビールを飲んで、バリバリの方言で話す祖父はもういなかった。
余命宣告されていること、気分が乗らないと発語がないことを、母から聞いて知っていたけど、私はショックだった。

山形新幹線が新庄まで伸びたときには、小学生だった私と弟を新幹線に乗せて、新庄までつれていってくれた。新庄駅でカツ丼を食べて、次の上り新幹線に乗って祖父の家に帰った。本当に、新幹線に乗ることが目的の数時間の遠足だった。
毎年、さくらんぼの時期になると、さくらんぼを好きに採らせてくれて、手伝ってくれてありがとうとお小遣いをくれた。
大学生の頃、私が免許を取ったときには、祖父のマニュアル車で運転の練習をさせてくれた。祖父が助手席に乗って、「ここで3速!クラッチ踏んで!」とめちゃくちゃスパルタだった。
私の結婚が決まった頃、祖父が癌で入院した。術後お見舞いに行くと、祖父はベッドに横になっていた。
私に気が付くと起き上がって「心配すんなな」と祖父は言っていた。
この「心配すんなな」には、また元気になるから大丈夫、結婚式に参列できるよ、お祝いもするからねといった様々な意味が込められていた。
ちなみに、結婚式は、東京駅からアクセスの良い会場を選び、式場には祖父に車椅子を用意してもらった。

これまでの祖父とのたくさんの想い出が、思い出されて、面会中、私はほとんど何も話すことができなかった。
口を開いたら泣いてしまいそうだった。

窓越しの面会は、夏の暑さもあって、10分程度で終わってしまった。「また来るね!おじいちゃんまたね!」と言って、東京に戻ってきた。

また、祖父の「心配すんなな」が聞きたいから、近いうちに地元に帰ろうと思う。

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