【5部+6部】【考察】われわれはみんな「運命の奴隷」なのか?

「ジョジョの奇妙な冒険 Part5 黄金体験」のエピローグで紹介された「運命の奴隷」という概念があります。

「人間は運命にあらがうことはできない。生まれ持った環境や宿命、すなわち運命に対してはただ奴隷のように受け入れるしかない」という意味を持つ概念です。

エピローグでは、彫刻家のスコリッピが発現させたスタンド「ローリング・ストーンズ」によって、この概念が語られました。

このスタンドは、石に彫られた人物の運命(このスタンドだと「死」という運命)が予見でき、石が対象の人物に触れることでその人物を安楽死させるというものであり、抗うことのできない予言(死の運命)に対しての救済を提示(強要)する能力です。

主人公チームのミスタ達は、このローリング・ストーンズの安易な救済を拒否することで、抗えない運命の中にあっても、「自らの意思」で苦難に立ち向かい、「意味のあることを切り開く」ことを選びました。
すなわち、「運命の奴隷」であることから逃げられずとも、目覚めることで「何か意味のあることを切り開く」、「(今は)眠れる奴隷」となることを「自らの意思」で選んだのです。

しかしここで、「自らの意思」について、一つ疑問があります。
「運命」とは、人間の意思(自らの意思、自由な意志)も含めて、形作られるのではないでしょうか。

なぜ絶対的な「運命」のシナリオに、人間の意思(自らの意思、自由な意志)だけは、「何かを変えられる」例外として残されているのでしょうか?

当の荒木先生も

運命とか宿命といったものが、簡単に人間の努力とか根性で変えられたら、そんなの最初から運命といわないし、軽々しすぎる。

と巻末コメントで述べています。

絶対に避けられないものとして決定されている運命が、人間の意思(自らの意思、自由な意志)という、運命に誤作動を起こしてしまうようなバグ要素を飲み込まないはずがないのでは? と考えてしまうのです。

「自由な意志」はあるのか

上記のように考えたのはもう少し理由があります。

私たちは何か意思を決定するとき、必ず今までの記憶と経験に照らし合わせることで決定しています。

例えば、雨が降っているのに、傘を持って行かないという意思を決定をすることは普通はありません。濡れるからな。誰だってそーする。おれもそーする。

もし、雨が降っているのに構わずに手ぶらで出ていくとしても、そこには必ず今までの記憶と経験に照らし合わせた理由があります。

そもそも傘が家にない。
体でずぶぬれになれば、風邪をひいて学校や会社を休める。
シャンプーを買う金がないから雨で済ます。
認知症になっているから、傘をもっていくということを忘れた。等々。。

決定までに至るプロセスにおける複雑さの違いはあれど、すべて例外なく、記憶と経験に意思決定は規定されています。

そして、それらの記憶と経験は、必ず人間の外から刻まれるものです。
すなわち、人間の意思は外部に規定、制御されうるのです。

規定されうるからこそ、マーケティング戦略によってまんまとモノやサービスを買ってしまうのです。
制御されうるからこそ、詐欺に引っ掛かりうるのです。

たかだか人間程度にも人間の意思をある程度決定することができるのに、「運命」が人間の意思を決定できないわけがない、と思ってしまうのです。

よく「自分の意思で考えよう」という啓発がありますが、それに昔から違和感がありました。

それは「人間の意思」が人間の内から生まれて「自由な意思」を決定しうるかのように語っている点です。

すなわち、「0から何かの意志、意思が生じている」ようにみえています。

先ほど例示したように、「人間の意思」は必ず外から何かを受け取って、それを使って「どうこう」するに過ぎません。唯物論的な考えかもしれませんが、ないものは生み出せません。

ジョジョ5部で語られた「自由な意思」の正体

ですが、その辺りシーンをよく読んでみます。

5部でローリング・ストーンズによって明かされた「運命」は、「彫られた者の直近の死」という、ある1点の結果の運命のみ論じられていました。そして、スタンドの能力である安楽死に抗うことは、より苦難の死に向かう、という事実だけが規定されていました。

ここで、その結果に至るまでの過程・シナリオは運命として決定づけられていなかったのです。

結果に至るまで、「どうこう」考えて意思を決定したりする過程はブラックボックスであり、ここに自由な意思を動かすことのできる許容領域があったです。

私が疑問に思っていた「人間の意思を内包する運命」とは、「過程・シナリオさえもひっくるめて、もう規定されていることじゃないか。そこに自由度なんかありえない!メッセージとしてどうなの!」になります。
すなわち、そもそも私のこの疑問は5部における論点ではなかったのです。

この物語は、作中でも散々示されていた通り、結果ではなく過程・シナリオこそが、黄金の精神を体現しうる、というテーマを掲げていました。

傘を差さずに外に出たら、濡れて、不快な思いをする。
単純にその事実のままぶつくさいいながら受け入れるのであれば、それは眠ったままの運命の奴隷です。

しかし1本しかなかった傘を、家族のために残しておこうと、あえて、濡れて、不快な思いをしたというような過程を踏んだのだとしたら、目覚めた奴隷なのです。

濡れるという運命は変わらないですが、後者は自らの意思をもって「何か意味のあることを切り開いた」のです。

ジョジョ5部においての決断も、安楽死と苦難の死、いずれも死という結果は同じだが、どちらがマフィアの社会、あるいは読者に希望を残したかは明白です。

なお残る、運命に関する疑問

5部が示すメッセージは、素晴らしい結果であろうが惨憺たる結果であろうが、そこに向かう過程の意思こそ、われわれが大事にすべき精神だということでした。

そのメッセージ自体は心に深く刻まれ、希望や有意義に生きる力を与えてくれるものですが、私が最初に感じた疑問は解決していません。

もし、「自由意志さえも内包した運命」が「過程・シナリオさえも規定している」としたら、どのように考えて生きればいいのか。。?

こう考えていることさえも、すでに運命によって決まっていると考えてしまうと、やはりどうも前述の精神を保つモチベーションがわいてこないのです。
何もかも最初から決まっているのであれば、単にそれを知りうる手段がないだけで、意思は「自由な意思」とはなりえないのです。

「自由な意思」で、結果を除いて「何か意味のあることを切り開く」ことができないのだとすれば、それはもう意思を持たないロボットと同じです。

6部における疑問への回答

ところがどっこい、荒木先生は、、

次の「Part6 ストーンオーシャン」でその回答を出しています。

。。。

驚いたことに「自由な意思すら内包した運命」が「過程・シナリオを規定している」世界を、作中で実現させました。
エンリコ・プッチ神父のメイドイン・ヘヴンというスタンド能力です。
このスタンドの能力は、全員が結果や過程を運命として知り得た状態で世界が再開されるというとんでもない能力です。

私の当初の疑問や懸念とは逆の発想で、結果や過程を運命として知っているならば、もう不確定な未来に不安になることはないのではないか?
不安がなくなることこそが幸福であり、それこそが真の(ローリング・ストーンズでは死を以てしか達成できなかった)救済なのでは?

というプッチ神父の思想が、スタンド能力として示されました。

そしてその解釈は、物語の最後、主人公ら皆の意思を受け継いだエンポリオという少年によって否定されます。
エンポリオ曰く、「正義の道」を歩むことこそが「運命」なのだと。

ここに6部を通した「運命」の本質に関しての荒木先生の解釈があるように見えます。

「運命」は独善的な救済ではなく、自分以外の他者からも望まれる世界(エンポリオにして、「正義の道」)として規定されなければならないということです。
(ジョジョ全体を通して、独善的な救済や思考は「吐き気を催すほどの悪」として否定されています。)

また、運命は最終的に独善的な思考より、他者からも望まれるシナリオを選ぶということです。

そして、運命に勝つとは、運命に逆らうことではなく、上記の運命の本質を理解したうえで、正しいと思える道を歩むことなのだと、私はそういう解釈として受け取りました。

改めて思うこと

ジョジョは作品を経るごとにそのメッセージが濃く、多義的で聖書のようになっており、壮大さが増しています。

ジョジョという作品自体が成長しているということなのだと思います。
そしてその事実についても、作品の内容を超えたメッセージを私たちに刻みます。

荒木先生がジョジョしか書けないと発言していましたが、それは、あらゆる哲学、思想、メッセージ、エンタメをこの一つのストーリーに詰め込みすぎているからなのでしょう。

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