推しと、祈り。✿第34回|実咲
華やかな平安絵巻かと思いきや、唐突にサバイバル番組のような様相になった「光る君へ」第35話。
道長が目指した吉野の金峰山寺というのは、役行者がひらいたとされ、平安時代には信仰を集め参詣が盛んでしたが、お寺に至るまでの道のりは険しいものでした。
現在では吉野ロープウェイでひとっとびですが、つまりロープウェイで登るレベルの登山ということ。
ロッククライミングのごとく、危ない山道を登っていく一行の様子が描かれていました。
なお、この吉野ロープウェイは現役で働いている日本最古のロープウェイ。
昭和4年(1929年)から稼働を開始したもので、なかなかレトロな趣です。
道長は寛弘4年(1007年)8月に金峰山へ息子の頼通などと共に向かいます。
すでに20歳になっていた娘彰子が、一条天皇の皇子を懐妊することを祈願するためでした。
そして、「大日本国左大臣正二位藤原朝臣道長」と刻んだ金を塗った経筒に、自ら書き写したお経を収めて埋納しています。
この京都から金峰山への道のりは、道長本人が『御堂関白記』に克明に記しています。
なんとこの経筒も、経典も現存するのです!「光る君へ」でも作中にちらちらと映っていて、もはや主役と言っても過言ではありません。
エビデンスから現物まで全て揃っている、なんともありがたいというかすさまじい逸品です。
この経筒は江戸時代の元禄4年(1691年)に出土していました。
ただし、中身の経典は15巻あったはずなのに、一部が行方不明のままでした。
しかし、2015年に金峰山寺の納戸から経典が発見され、調査の結果、道長が奉納したものであることが分かりました。
この経筒は、現在では京都国立博物館で見ることができます。
現存する日本最古の経筒で、光り輝く様子と「道長」という文字がしっかりと読めるのです。
私も展示されている際に喜び勇んで見に行きました。『御堂関白記』に並ぶ、道長が触れた間違いない現物!
四角いガラスケースの周りを回遊魚のように一人でぐるぐると回って眺めておりました。
さらに時代は先になりますが、彰子が長元4年(1031年)に比叡山の横川妙法堂へ奉納した経箱「金銀鍍宝相華文経箱」も現存します。
こちらも2022年に京都国立博物館で開催された「伝教大師1200年大遠忌記念 特別展 最澄と天台宗のすべて」で展示されていた際に大喜びで見に行ったものです。
彰子はこの後、じつは大変長生きをするのです。そして、その過程で多くの人々に先立たれる人生になりますが、「光る君へ」ではどのように描かれてゆくのでしょうか。
また、この寛弘4年(1007年)12月に内大臣である藤原公季が法性寺の三眛堂を建立します。
当初掲げられていなかった額の額字を、公季は道長に頼むのですが、自分は字が下手だからと断ります。
しかし、書くことで功徳を積むことになると言われ、結局引き受けることになります。
道長は南の門、行成が西の門の額字を書き、掲げられたようです。
残念ながら、この額字は現存していませんが、当代随一の能筆家の行成と並べられるのはちょっとやりにくいですよね。
道長自身が氏の長者であると同時に、公季には日ごろから息子の頼通が世話になっており、さらにこの頃彰子の懐妊を願っていた道長にとってみれば、「功徳になる」と言われれば断ることは難しいでしょう。
1000年以上昔のことであっても、当時の人々の祈りを伝えるものは現代にも受け継がれています。
さて、この道長の願いははたして届いたのでしょうか。
それはこの後の「光る君へ」でお確かめください。
(文中の写真はすべて筆者撮影)