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「あいだラジオ」『自分疲れ』編:書店員さんからのお便り

シリーズ「あいだで考える」(創元社) の関連企画「あいだラジオ」に、頭木弘樹さん著『自分疲れ――ココロとカラダのあいだ』の感想文をお寄せくださった3人の本屋さん。本記事では、その全文をご紹介いたします。これら3つのご感想文は、あいだラジオ『自分疲れ』編の第3回で紹介されています。

感想文をお寄せくださったのは
坂上友紀さん(本は人生のおやつです!!/兵庫)
鳥居貴彦さん(待賢ブックセンター開風社/京都)
モリテツヤさん(汽水空港/鳥取)
です。

どれも超がつくほどユニークな視点から『自分疲れ』を読んでくださっています。ご自身の読みを広げるガイドとして、どうぞお楽しみください。

「あいだラジオ」再生リストはこちらから↓
https://youtube.com/playlist?list=PLCWmaCrQbukb6JfLRSMvSbBHUsvT4f0cZ

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坂上友紀さん(本は人生のおやつです‼︎/兵庫)

 だいぶうろ覚えながら、ごく小さな頃に読んだ少女マンガ(かつ忍者マンガ)に、「自分を傷つけ、相手も傷つけるのは下忍。自分は傷つかず、相手を傷つけるのは中忍。自分も傷つかず、相手も傷つけないのが上忍!」のようなことが書いてあって、目から鱗が落ちました。それまでは「勝つのがよい」と中忍のような考えかたをしていたところに、どうしたって勝って相手を傷つけるよりさらによいように思える「どちらも傷つかない」という上忍の技を知ったために、幼いながらに世界が広がったような気がしたからです。
 それは、わたしが未だに覚えている本で知った初めての「あいだ(勝たず、負けず)」だったのかもしれず、久々にその話を思い出したのは、本書を読んだことがきっかけでした。

「はじめに」のなかで、

とりあえず、この体、これは自分だ。
そして、この心、これも自分だ。
では、心と体が自分なのか。
自分とは、ココロと体なのか。

……と問いかける著者の頭木さんは、20歳のときに難病を発症したことで、「〈自分〉とは〈ココロとカラダのあいだ〉である」と考えるようになりました。加えて「カラダ」や「ココロ」にもたくさんの種類があって、そういう数え切れないココロとカラダのあいだであるところの、「時々に変化する自分」が在ると気づいた経緯を、実体験をまじえながら本書で伝えてくれています。

 この「〈自分〉とは〈ココロとカラダのあいだ〉である」という思考はとても納得のいくものなので、異を唱える人のほうが少なそうですが、仮に、「自分」、「ココロ」、「カラダ」を、「書物」、「著者」、「読者」と置き換えてみても、腑に落ちることが多々でした。
 というのも、「書物」であるからには伝えたいことがあるはずで、それは著者それぞれによって違い、伝える方法も違い、またその受け取り方も今度は読者それぞれによって異なるからです。
 著者のみで成り立つ書物などなければ読者のみで成り立つ書物もなく、著者がいなければ書物は世の中に生まれることすらないのだけれど、読者のいない書物に一体なんの意味があるというのか、それはそもそも「書物」であるといえるのか、というような話にもなっていきます。それは、本書に記された、

体の変化によって感情が生まれるのであれば、体がないと感情もないことになる。
感情のない心など、ありえないだろう。感情まで含んだものが心だ。
とすると、心にとって体は欠かせないもの、ということになる。
(第3章より)

という感覚にも通じます。

 ところで「書物」、「著者」、「読者」と置き換えるとき、「色々な著者と色々な読者のあいだ」であるところの「書物」をつくる役目を果たすものこそ、「編集者」(含む、装丁家やデザイナー、イラストレーターなど)であるともいえそうです。
 ……と、急にこんなことを語り出したのは、『自分疲れ』を皮切りに刊行がはじまった「あいだで考える」シリーズが、「この本好きだなー」と思ったことのある数々の本を世に送り出してきた編集者さんが別の編集者さんとタッグを組んで創刊している叢書だからなのです! また、シリーズ全体の装丁を担うのは、「この装丁、好きだなー」と思ったことのある数々の本を世に送り出してきた装丁家・矢萩多聞さん(そして本ごとに装画担当のかたが異なる)、とくれば、これはもう「読まねば!」です。「創刊のことば」にもジンときました。

 シリーズ全体のおすすめポイントはそのようなところなのですが、本書におけるポイントの一つは、ココロ「も」カラダ「も」、というところです。
「あいだ」というからには何かと何かがなければ生じないのですが、それでも「自分」ってなんなのか、がテーマの本となると、著者の言うように「ココロ」に重きを置くものが多いイメージがあったので、「どちらも」なのが印象的でした。
 それに、「どちらも」であることの説明の仕方が難病に伴う実体験とともに、レオナルド・ダヴィンチや楳図かずお等々の、多岐にわたるココロとカラダに関する本からの引用に依るところも興味深かったです。病気になったことで、より「色々なココロ」、「色々なカラダ」がわかるようになった著者ならではの視点で、「あいだである自分」が捉えられています。
 また、章ごとのトビラに記された文言が抜群に面白いなぁと思っていたら、それはなんと頭木さんが書かれたもの(初読時は、本文に出てくるたくさんの本の、いずれかから引用された文だと思っていた!)だそうで、こういう文章を書くかたがこれまでに一体どんな本を読んでこられたのかにも興味津々なのでした。ゆえに、巻末に収録されている引用文の出典一覧「ココロとカラダのあいだを考えるための作品案内」も嬉しい特典でした☆

 さておき、「ココロとカラダ」に限らず、「あいだ」というものは離れているものと離れているものであればあるほど多様性をもつものであり、多様であればあるほど、たくさんのものに寄り添うことが可能です。そして、そもそもからして多様であることは生物が生き残っていくための必須条件だ!

 というわけで、本シリーズで考えていく「あいだ」というものが、物の見かたを少し広げてくれたり、それが結果として誰かにとっての優しい道しるべとなるようなものであればよいなと思います。
 冒頭にあげた「上忍」のように、自分も傷つかず、相手も傷つけないような、世界にとっての優しき「あいだ」がたくさん見つかりますように☆★☆


鳥居貴彦さん(待賢ブックセンター、開風社/京都)

 本屋をやっていると、いろんな人がお店に来ます。本を買うひともそうでないひとも。本を買うひとはお客さんですが、ただ店にきて帰っていくだけのひとはお客さんなのでしょうか。店に入ってきた瞬間にはそのひとが「お客さん」なのか「ただ覗いただけのひと」なのか全くわかりません。わからないけどとりあえず「いらっしゃい」と言っています。

 そんなふうに人と人の区別もよくつかないまま受け入れて曖昧なままぼんやりと暮らしていると、自分の心と体の様子をじっくり観察してみることもできなくなっているように思います。知り合いの本屋にも腰を痛めていても無理して重たい本を運んだり、寝る間を惜しんで本を読んだり映画を見たり、歯が抜けてもそのままにしたりと、寿命の短そうな書店員が何人かいます。本屋をやっていると「曖昧さ耐性」が高くなるのでしょうか。果たしてそれがいいことなのか悪いことなのか、よくわかりませんが。

 この本で取り上げられるたくさんの作品や文献を通して、自分やその周りをじっくり観察して言葉にできるひとたちのことを作家と呼ぶのかなと思いました。

 たとえば香山哲さんや多聞さんは、絵を描いて暮らしていらっしゃると思いますが、描けるとき、描けないときの体や心の状態を言葉にすることはできますか?言葉にするかわりに絵を描くのでしょうか?また絵に描けるものと描きにくいなというものはありますか?そのさかいめはどこにあると思われますか?


モリテツヤさん(汽水空港/鳥取)

 自分という存在を「心」に限定するでもなく、「体」に限定するでもなく、心と体のあいだを行き来している存在だとする言説は、読み手の想像に余白を与えてくれるようで、これから様々な読者がこの余白の中を自由に遊ぶことだろうと思いました。僕もその一人です。楽しく読ませて頂きました。

 僕は鳥取県で「汽水空港」という名の本屋を運営しています。店名の頭につけた「汽水」というのは、海水と淡水の混ざった水のことです。店の目の前にある湖(東郷湖)の水質が汽水なので、汽水という言葉をもらいました。この言葉に込めた意味は、まさしく「あいだ」や「曖昧な領域」や「混ざり合う」というようなことです。
 東郷湖の水は濁っていて、あまり綺麗な水とは言いづらいのですが「水清ければ魚棲まず」ということわざがあるように、様々なものが混ざり合うこの汽水域には、濁っているからこそ多種多様な生き物が存在しています。

 最近、スピノザという哲学者の解説本『はじめてのスピノザ』を読んだのですが、その中で物事は組み合わせ次第であるというようなことが書かれていました。スピノザは音楽を例にこのように語っていました。

「音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない」

 つまり、すべては組み合わせ次第であり、そのもの自体に善悪はない。その視点から善悪を再定義すると、その人の活動能力を増大させるものが善であり、減少させるものが悪だというわけです。この組み合わせがうまいこと働いている状態であれば、東郷湖は様々な生物を内包する場で在り続けられるのだろうなと思います。
 ただ、一方でこうした「曖昧さ」を標榜する店名で本屋を運営していて、時々「あれもいいね、これもいいね、全部いいね。組み合わせ次第だね。」というような傍観者的なスタイルに陥らないようにしなければとも考えています。例えば、海に水銀を流してしまえば悲劇が起きるので、そうした物事に対しては異を唱えていかなければと思います(水銀と海水も組み合わせと言われればそうですが)。これを人の暮らす社会に置き換えると、戦争へと人を駆り立てるような言説や差別を助長するような言説になるのかもしれません。ですが、最近は異を唱えようとする自分の足場を俯瞰した時、右足で人を踏みつけながら、左足は人を救おうとしているかのような居心地の悪さを感じています。
 濁りを認めながらも、同時にそれが「善い(よい)」ものであるようにと願う時、その善さとはどのようなものだろうか。普遍的な善さみたいなものがこの世界にあるとすればそれと出会ってみたいと思うようになりました。そうすると、その「普遍的な善さ」というのは人の体でもなく、心でもなく、魂の領域に最も関連がありそうな気がしてきて、最近はスピリチュアリティについての関心が高まってきました。「おてんとさまが見てるから盗みを働かない」というような心理を持つ人は現代でも恐らく多くいると思いますが、その「おてんとさま」はスピリチュアリティの領域にあると仮定しているわけです。そして、この探究の道も、やがては狭量で、人を断罪するかのような道に繋がっているような気も同時にしてくるのです。僕はこうしていつも、曖昧さと普遍的な善さを求める気持ちのあいだをぐるぐるし、居心地悪く滞在しています。

 頭木さんは、このような「普遍的な善さ」を求める気持ちはありますか?あるとしたらどのような領域にそれを見出そうとしていますか?もしくはそのような「普遍的な善さ」に捕らわれない為に文学というものがあるのでしょうか?
 あと、こんな僕にオススメの文学作品を教えて頂けたら幸いです。長くなってしまいました。

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