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【時事解説】ブリティッシュ・ワールドの申し子としての、イギリス新首相リシ・スナク|本田毅彦

イギリス初のアジア系首相として日本でも話題となったインド系イギリス人、リシ・スナク。彼はいったいどんな背景を持つ人物なのか。『インド植民地官僚 ―大英帝国の超エリートたち』(講談社)などの著書があり、大英帝国史の専門家でもある京都女子大学文学部教授の本田毅彦氏に、スナクについての解説をご寄稿頂きました。


ブリティッシュ・ワールドとは?

近年、イギリス史研究者の間で注目をされている概念として、「ブリティッシュ・ワールド」がある。イギリス帝国あるいはイギリス連邦などの名で示されてきた地域とほぼ重なるが、帝国、連邦と称する場合、政治、軍事、経済など、ハードな印象を与える傾向がある。これに対して、近現代においてイギリス社会が密接な関わりを持った諸地域の間での多角的な関係のありようを、より文化史的に考察するために提起されたのがブリティッシュ・ワールド概念だ、と考えてよいだろう。

2022年10月にイギリス首相となったリシ・スナクは、そうしたブリティッシュ・ワールドの申し子、とでも評するべき人物と思われる。スナクはインド系イギリス人であるため、ディズレイリ以来の非白人、そしてアジア系のイギリス首相の誕生として、多くの人々から関心を集めている。ブリティッシュ・ワールドの指導者になることを早い時期から目指していたようであり、そのキャリアの形成の仕方は、以下で見るように、見事に計画的である。

スナクの家系的背景

イギリス帝国の基軸は、イギリスとインドを結ぶ、いわゆるエンパイア・ルートだった。イギリス帝国が提供した、地理的/社会的な移動の可能性を活用し、成功を目指して多くの人々がエンパイア・ルートを行き来した。スナクの家系的背景は、彼が、そうした人々の末裔まつえいであることをよく示している。

スナクの父方の祖父は、1930年代に英領インドのパンジャブ州から、やはりイギリスの植民地だったケニアへと渡った。祖父は事務員として同地で勤務したが、その息子(スナクの父)は医師になった。スナク家において、教育を利用する形で世代を通じて社会的上昇を図る、という戦略が立てられていたことを示している。しかしケニアの独立を受けて、スナク家はイギリスへ移動した。イギリスでも、スナクの父は国民保険サービスに属する医師としてサウサンプトンで勤務することができた。

母方の祖父も、1930年代に英領インドのパンジャブ州からタンガニーカ(現タンザニア)へと渡った。タンガニーカは当時、イギリスの委任統治領であり、祖父は同地で税務署職員として勤務した。しかし、タンガニーカ独立に伴ってイギリスへ移り(タンガニーカは、後にザンジバルと合併してタンザニアになった)、今度はイギリスの税務署職員として勤務している。1988年MBE(Member of the Order of the British Empire)勲章を授与された。スナクの母はイギリスの大学で薬学を学んで薬剤師となり、現在もサウサンプトンで薬局を経営している。

スナクの学歴

スナクの学歴は、イギリス社会の典型的なエリートのそれであり、父母の強い意志と決意を反映している。高額の費用のかかるウィンチェスター・カレッジで中等教育を受け、オックスフォード大学へ進んだ。イギリス帝国時代には、イートン・カレッジやハロー校などが、主として貴族子弟のためのパブリックスクールだったのに対して、ウィンチェスター・カレッジは、学業に熱心な上層中産階級子弟向けのパブリックスクールだった。したがって、同校を経てオックスブリッジを卒業した後には、官僚/エリート的専門職になる者たちが多かった。スナクは、同校在学中に head boy(代表生徒)に任じられるほど、成績優秀だった。

オックスフォード大学リンカーン・カレッジでは、PPE(哲学[Philosophy])・政治学[Politics]・経済学[Economics]を、3年間で学ぶコース)を履修した。卒業試験でのスナクの成績は最上級のファースト(First Class)だった。同一学年の中で数パーセントのみに与えられる成績であり、オックスフォード大学でファーストが得られれば、その人物の将来はほぼ保証される、とまで言われる。学業以外でも、自らの将来を見越したかのような活動を行っていた。投資について学ぶサークルに属し、また、保守党の本部でインターンを経験した。

新たな飛躍を求めてアメリカへ

9・11同時多発テロが起こる直前の時期に、スナクは、自らの就職先として、アメリカの投資銀行であるゴールドマン・サックスを選んでいる。この時期のオックスフォード大学の学生たちにとり、最も人気のある就職先の一つだった。しかしスナクは、投資銀行の有能な一つのコマにとどまるつもりはなかった。フルブライト奨学生に選ばれてスタンフォード大学ビジネス・スクールで学び、2006年にMBA(経営学修士号)を取得した。イギリス帝国の遺制のひとつである、ローズ奨学生制度が提供してきたものとは、逆のルートをたどったことになる。ローズ奨学生制度は、南アフリカで鉱山業に従事し、巨万の富を得たセシル・ローズの遺言に基づいて20世紀初頭に設立され、イギリス帝国各地・アメリカ合衆国・ドイツ出身の学業優秀な青年たちに奨学金を供与し、彼らがオックスフォード大学で学ぶことを可能にした。

フルブライト奨学生制度は、ローズ奨学生制度のアメリカ版だった。太平洋戦争後、日本からも、多くの優秀な若者たちがフルブライト奨学生に選ばれてアメリカの諸大学で学んできた。ローズ奨学生制度とフルブライト奨学生制度の併存は、第二次世界大戦後、ブリティッシュ・ワールドの政治的リーダーシップがアメリカ合衆国とイギリスの間で、相互補完的に担われるようになったことを示しているのかもしれない。スナクは、こうした面でも、ブリティッシュ・ワールドの申し子ということになる。

しかし、スナクのキャリアの展開において、スタンフォード大学で学んだ最大の成果は、むしろ、インフォシスの創業者の娘と出会う機会を得たことだった。

アクシャタ・ムルティとの結婚という僥倖ぎょうこう

スナクは、インドの巨大IT企業、インフォシスの創業者であるナラヤナ・ムルティの娘(アクシャタ・ムルティ)と2009年に結婚した。これにより、経済的な不安を感じることなく、政治家としての活動を始めることが可能になった。スタンフォード大学での二人の出会いは偶然だったが、積極的にアプローチしたのはスナクの方だった。

ナラヤナ・ムルティは、カルナータカ州のブラーフマン・カーストに属しており、父親は学校教師だった。インド工科大学(Indian Institute of Technology)で電子工学を学んで修士号を得、コンピューター・プログラマーになった。1970年代にはフランスで勤務していたが、その際に東欧を訪れ、社会主義に基づく政治・経済システムの限界を悟った。インドへ戻り、妻(やはり、コンピューター・エンジニアだった)や他のIT技術者たちとともに、1981年にインフォシスを創立した。インフォシスのビジネス・モデルは、インド社会の擁する、多数の、安価なIT人材を活用し、アメリカ企業のIT関連の需要に応える(アメリカ企業のアウトソーシングの受け皿になる)、というものだった。1990年代に入ってインド経済が自由化されると、インフォシスの業績は飛躍的に拡大した。ムルティは世界的な大富豪になったが、多くの教育機関/社会福祉団体の指導者としても活動している。

ムルティは、アメリカ合衆国とインドという、今後のグローバル資本主義の核となる可能性の高い二つの地域を密に結びつけることによって、ブリティッシュ・ワールドの新たな展望を開いた人物でもある。そしてムルティは、スナクこそが、そうした展望をさらに推し進めることのできる資質を有する人物だ、と判断したのであろう。そうであるからこそ、自分が娘に与えた資産を、婿むこであるスナクが政治活動の資金として活用することを認めたはずである。かくしてスナクは、2010年代初頭から、イギリス政界への進出をめざすことになる。

イギリス政界でのスナクの急速な上昇

アクシャタと共にイギリスへ戻ったスナクは、保守党系のシンクタンクに加わって活動するのと同時に、自らが立候補するための選挙区を物色し始めた。結局、ノースヨークシャーの選挙区で保守党候補者の地位を手に入れ、2015年の総選挙で当選した。ブレグジット論争(イギリスのEUからの離脱の是非を巡る論争)に際しては、一貫してブレグジットを支持した。ブリティッシュ・ワールドの経済的可能性を引き出すためには、EUという縛りからイギリスを解放することが有益だと判断していたから、と考えられる。

早くも2019年には、首相ボリス・ジョンソンにより、財務省主席政務次官(副大臣の一人)に抜擢ばってきされた。さらに、ジョンソンと対立した財務大臣サジド・ジャヴィド(やはり、南アジア系である)が2020年に辞職すると、スナクは財務大臣に昇格している。コロナ禍に際して示されたスナクの財務大臣としての手腕は、機敏で大胆な財政出動を行うなど、的確だった、と評価されている。

しかし、コロナ流行の最中にジョンソンが首相官邸で宴会を開くなどしていたことが明らかになり、首相への批判が高まると、スナクは、財務大臣のポストを辞することによってジョンソンに引導を渡し、ジョンソン辞職後の保守党党首選に参戦する。対立候補のリズ・トラスが、ロシア・ウクライナ戦争に起因するイギリス経済の悪化への対策として減税を主張したのに対して、スナクは財政規律を重視し、トラスの提案を批判した。保守党所属の国会議員の間ではスナクがより多く支持されたが、保守党の一般党員はトラスを支持し、トラスが勝利した。しかし、財政的裏付けの薄弱なトラスの減税策を市場が拒否したためにトラスは辞職に追い込まれ、42才の若さでスナクが首相の座を射止めることになった。

二人のインド系首相が、北アイルランドの将来を決める?

実際には、インド系の政治指導者は、スナク以外にも、アメリカ副大統領カマラ・ハリスをはじめとして、ブリティッシュ・ワールドのあちこちで誕生している。イギリスと海を挟んで隣り合うアイルランドでも、スナクよりも数年早く、インド系の首相が現れていた。2017年から2020年まで首相を務めた、レオ・バラッカーである。バラッカーの背景も、スナクのそれに重なる部分が多い。バラッカーの父親はムンバイ出身の医師であり、1960年代にイギリスへ渡った。アイルランド出身の女性と結婚し、一時インドへ戻ったが、やがてアイルランドに定住した。バラッカー自身はアイルランドで生まれ、名門校であるトリニティ・カレッジ・ダブリンで学び、父親と同じく医師になった。しかし在学中から政治への関心も高く、2007年に国会議員となり、弱冠38才で首相の地位にまで上り詰めた。2020年5月に行われた選挙の結果、アイルランドでは連立政権が樹立され、バラッカーは現在、その副首相だが、政権成立時の約束に基づいて、2022年12月には首相に復帰することが予定されている。

ブリティッシュ・ワールドの歴史/構造を理解する上でのアイルランドの重要さは、繰り返すまでもないだろう。アイルランドは、アメリカ合衆国に続いてイギリスによる支配からの離脱を試み、長い苦難の末にそれを達成した。しかしアイルランド島の北部が、イギリスの一部として現在もとどまっており、20世紀後半の北アイルランドでは、同地域がイギリスの一部としてあり続けることを望む人々(プロテスタント系)と、南のアイルランドと一体になるべきだと考える人々(カトリック系)の間で、暴力を伴う対立が続いた。20世紀末になってようやく、アメリカ合衆国の斡旋を受け、とりあえず北アイルランドの法的現状は維持されるが、大幅な自治が認められる、という形で合意が成立し、和平が回復した。

北アイルランドとアイルランドは、その間に国境はあるものの、経済的には密接に結びついている。イギリスとアイルランドがともにEUのメンバー国であった間は、両者の交流には問題がなかったが、ブレグジット以後、制度的な障壁が生じる可能性が生じている。北アイルランド問題の恒久的な解決を目指して、スナクとバラッカーという二人のインド系首相が交渉を行う姿を、我々は目にすることになるのではないか。