推し、失職す。✿第14回|実咲
いよいよ道隆の専横があからさまになって来た「光る君へ」第15話。
残念ながら行成の登場は、どこに目を凝らしてもありませんでした。
いや、オープニングの時点でもお名前がないので分かってはいたのです。
あとは何より、時代が仕方ない。
今回は登場していない行成が、どこで何をしていたのかのお話です。
作中では、正暦4年(993年)夏の出来事である、道長の妻倫子の父、源雅信の死が描かれていました。
この出来事は行成の日記『権記』に記事があり、そこには雅信が周囲の人から慕われる好人物であったことが記されています。
行成はこの頃、まだ表立っての活躍はしていません。
しかし、後に能吏と呼ばれる前日譚のような出来事が、すでにいくつも見受けられます。
同じ正暦4年(993年)の正月の出来事です。
一条天皇は朝堂院へ行幸し、大極殿で朝賀の儀を行いました(「行幸」とは天皇がお出ましになることを指します)。
本来は、もっと遠くへ出かけることを「行幸」と言っていたのですが、この頃には天皇がすっかり清涼殿(内裏の中にある日常の住まい)以外にお出ましにならなくなっていたので、それほど遠くないこの大極殿が目的地であっても「行幸」と言うようになっていました。
これは、正月に天皇が臣下一同から拝賀を受ける大事な儀式です。
大極殿の前にあるただっぴろい運動場のようなスペースに、みんなで勢ぞろいするのですから、さぞ壮観だったことでしょう。
大極殿は広場から一段高いところに建っており、臣下が下から見上げることで、天皇がより荘厳に見えるという演出効果も仕込まれていました。
朝賀の儀は唐のやり方にならった儀式で、参列者も唐風の装束を着る決まりでした。
本来は毎年やるものなのですが、当時はやることも少なくなっていたようです。
平安貴族、わりとそういうところがある。
一条天皇の前は、村上天皇の時代の天暦元年(947年)に行われたのが最後で、実に47年ぶりのことでした。
あまりやらなくなっていたこの朝賀ですが、天皇が元服した年にはやった方がいいよな……という空気だったようです。
しかし、一条天皇の元服時には行われず、道隆が関白となったこのタイミングで行われたことに意味があるようです。
この臣下勢ぞろいの朝賀という儀式に、道隆の権力のお披露目といった意味を持たせたかったのではないかと推測されています。
しかし、ここで大きな問題が生じます。
47年前の儀式など、誰もやり方が分からないのです!!
半世紀近く前のことですし、寿命も短い時代なので、儀式経験者もみな亡くなっています。
やり方は? 服装は? 人員の配置は? それはもう右往左往になってしまいました。
そこへやって来たのは、当時22歳で左兵衛権佐だった行成。
行成は恐らく『内裏式』(恒例の儀式のやり方が書いている儀式書)に記載されていたやり方を事前に確認していたのでしょう。
自分の所属する左兵衛府の官人の並び方が違うことに気が付きます。
元の正しい並び方になんとか直し、さらには幡の配置も間違っていたので、戈を立ててバランスを調整。
どうにかそれっぽく整えることに成功した模様です。
さらには、唐風の装束を着る儀式なのに、集まっている官人たちは皆、見慣れた日本スタイルばかり。
行成はきちんと唐風の装束を着て来たというのに……。
この日はあいにく、日記に何でも書く「なんでも知ってるおじさん」こと、実資は不在。
行成は若いながらも、なんとか儀式をやり遂げようと奔走した正月の出来事でした。
ただし、行成はやはりこの頃官職の面では不遇が続きます。
当時は「官位相当制」という制度があり、官位には相当の職というものがあり、この二つにあまり大きな差があってはいけないようでした。
行成は従四位下という官位になりますが、それには今の官職は低すぎるとして左兵衛権佐の任を解かれています。
一応、備後権介(備後国の副知事代理)も兼ねていましたが、実際に赴任はしていません。これは、当時はよくあることです。
つまり、都の中では、この時点で官職がない状態です。
本来名門の公達であれば、官位にそぐわないからと解任になっても、大抵次のステップに相当する官職になります。
しかし、行成にはめっきりその沙汰がありません。
たまたまタイミングが悪く欠員がなかったのかもしれませんが、都の中では職なしとはなんとも不憫です。
朝廷のシーンで、目を凝らしても行成が見つからないとお嘆きの皆さん!
いないんです!!本当にどうしたってもいないのです!!職がないから!!
しかし、行成は別に遊んでニート生活を謳歌していたわけではないようです。
連載の第6回でもお話しした、殿上賭弓の得点書記係をしたのはこの頃の話です。
また、『権記』では公事に関わる見聞や批評をよく書き記しており、とても勉強熱心です。
正月の事件も、きっとこういった勉強の成果なのかもしれません。
いつかはきっと役に立つ時が来るはず、と研鑽を積んでいた時期なのでしょう。
ほかにも行成は、道長の兄である道隆や道兼にも近づいている様子です。
道隆は、まだ若い跡取りの自分の息子である伊周の将来のブレーンとしての活躍を行成に期待していたのかもしれません。
道隆から伊周の儀式での作法について、「あれは間違っていたのではないか?」と行成に確認したこともありました。
伊周はイケメンで学才もあるという当時の評判ですが、20歳という年齢にそぐわない高い位についています。
これから朝廷で政治闘争を勝ち抜くにはまだまだ足りない部分がある、と父の道隆は感じていたのかもしれません。
また、道隆の弟で、我こそは次の関白にと思っている道兼は、行成にとってみれば立場も年齢も随分上の相手なのです。
しかし、そんな相手でも行成は黙って見過ごさない。
臆さず道兼へ、間違っているとはっきり本人へ告げていたりします。
もしかして、少々煙たいタイプの実直さだったりする可能性も無きにしも非ず……?
部下としては有能でも、身近であれば案外厄介なのかもしれません。
でもきっと、行成の真面目で実直で勉強熱心な様子を見ている人はどこかにいるのです。
友人である源俊賢は、ある日「君についてのよい夢を見たよ」と行成に告げてきます。
その夢が正夢になるのは、そう遠くないことです。