推しと、猛きもの。✿第32回|実咲
まひろ(紫式部)が一条天皇の中宮彰子のもとへ出仕をはじめた頃から年が明け、寛弘3年(1006年)の正月除目、地方官など諸官任命の日のこと。
平維衡の伊勢守任官をめぐり議論が紛糾します。
道長は維衡の伊勢守任官には反対の姿勢をあらわしています。
どうやら血縁の平致頼と合戦を繰り広げたことを問題視したようです。
作中で道長は、
「どの国の国守もやがては武力にものを言わせようといたします」
「全ては些細なことからはじまるのだ」
「今は寺や神社すらも武具を蓄え、武力で土地を取り合う世となりつつあるのでございます。
加えてこの先国司となるような者たちが弓矢を専らとするようになればいかが相成りましょうか。
やがては、朝廷をないがしろにする者が出てまいらぬとも限りませぬ。
そうなれば、血で血を洗う世となりましょう」
と口にしています。
結局、維衡は伊勢守に任官されますが、二か月でその任を解かれてしまいます。
しかし、維衡はやがて伊勢に土着し、武家のさきがけとなるのです。
まさに道長が危惧した通り、自らの土地や利権を守るため、武力をもって行使する武家の時代の足音が近づいてきています。
この維衡の子孫があの伊勢平氏となり、平清盛を輩出し武家政権のはじまりに繋がります。
当時、朝廷は武力というものを持っていませんでした。
作中ではこの件を隆家が言及していましたが、のちに彼もまた「武力」によることで歴史の大きな事件に携わることになりますが、果たして「光る君へ」で描かれることになるのでしょうか?
この頃から、貴族や朝廷は武力を行使する局面では武士を頼ることになります。
というより、武力を持っていない以上頼らざるを得ないのです。
第33話の最後には、奈良の興福寺の僧たちが強訴 (寺社などが仏神の権威をかさに朝廷や幕府に訴えること)にやって来ます。
彼らこそ、道長が「寺や神社すらも武力を蓄え」と言っていたそのものです。
このように、寺社が武装してゆく末に僧兵が生まれるのです。
平安時代の終わりにかけてこの強訴は数を増し、朝廷や貴族は彼ら僧兵を追い払うのに、武士の力を必要とせざるを得なくなるのです。
源義経の郎党として有名な武蔵坊弁慶は、興福寺と並び南都北嶺として大きな勢力を誇った比叡山延暦寺で武術を鍛えた僧兵であったと言われています。
今回の興福寺の僧たちは大和守源頼親の解任を求めてやって来たのですが、要求が通らなければ道長の屋敷を取り囲み焼き払うと言います。
この時道長は要求を強固にはねのけることになりますが、なぜ奈良の寺、興福寺の僧たちはこんなにも大それたことを言えたのでしょうか。
それは、この興福寺という寺の来歴に理由の一つがあります。
世界遺産としても有名な興福寺。
元々は藤原氏の始祖である藤原(中臣)鎌足の妻鏡王女が創建した山階寺が起源です。
和銅3年(710年)の平城京への遷都の際に現在の位置に移転し、興福寺となった藤原氏の氏寺でした。
なお、延暦13年(794年)の平安遷都では、仏教勢力の拡大を未然に阻止する目的もあったため、奈良の寺が平安京に移転はしていません。
つまり、道長にいたる藤原氏にとってみれば、興福寺は先祖代々受け継いできた菩提寺のような存在です。
この興福寺が言ってきたことには、道長は氏の長者としては話を聞かざるをえないというわけです。
また同じく奈良にある世界遺産春日大社は、こちらは藤原氏の氏神を祀る神社です。
春日神とは、四柱の神々の総称ですが、そのうち天児屋根命と比売神は藤原氏の始神とされています。
興福寺と併せて、藤原氏にとっては大事な場所でした。
興福寺は当時、春日大社の実権をにぎっていたとされ、このあたりにも興福寺が強硬手段を取る一因がありそうです(ちなみに当時は、寺と神社は今のように別々ではないのがあたりまえでした)。
「光る君へ」紀行の第13回でも紹介されていましたが、一条天皇は即位後の永祚元年(989年)に春日大社を参詣しています。
この時興福寺の東表大門を経ているので、一条天皇は葱花輦(天皇が乗る輿)から初代の五重塔を見ていたかもしれません。
永祚元年の行幸(天皇の外出)は『小右記』に実資が詳しく書き記しています。彼は、この春日行きに同行していたようです。
道長や行成も後に春日大社へ足を運んでいる様子が『御堂関白記』や『権記』に記されています。