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推しと、去る人。✿第28回|実咲

皇后さだが世を去ったのは、長保2年(1000年)12月16日のことでした。
それは、世の人にとって一つの時代の終わりを感じさせる出来事だったのかもしれません。
定子のサロンは、「光る君へ」でも描かれていたように多くの貴公子たちが出入りしていた華やかなものでした。
清少納言も、定子の出家に伴って宮中を去っているようです。(諸説あります)

定子が亡くなって数日後、行成ゆきなり内裏だいりから帰るときのことでした。
行成と同じ牛車に乗って内裏を退出した藤原成房なりふさは、この世の中の無常についてこぼしたのです。
権門けんもんが儚くも失われることに、やるせなさを感じたのかもしれません。
この成房は、かんの変(第9回参照)で花山天皇の退位の際に、自身が失脚することが分かったために出家した藤原義懐よしちか(行成の叔父)の、その息子です。
つまり、行成とは従兄弟にあたり親しい仲でした。
彼もまた、定子のサロンにもよく出入りをしていた一人です。

この時代、貴族がやるせない…と無常観を強く感じたら、志は一つです。
そう、出家。俗世からのドロップアウト。

成房は出家を胸に決め、父義懐が出家して住んでいた比叡山の飯室いいむろを訪れるのです。
現在でも比叡山延暦寺五大堂の一つ、飯室谷不動堂として信仰を集めている場所です。
義懐は、自分が生きている間には出家を思いとどまるように訴えます。
そして友人である行成、源成信なりのぶの説得もあり、成房は年が明けた長保3年(1001年)1月7日に行成に連れられ帰京しました。
ただし、成房は約一年後の翌長保4年(1002年)2月に本当に出家をしてしまうのです。

しかし、ここで行成と一緒に成房に比叡山まで赴き出家を思い度止まるように説得していた源成信。
彼もまた、胸の内に無常観を抱えていたのでしょうか。
もしかすると、出家を思い悩む友人の姿に、自分を重ねてしまっていたのかもしれません。
そんな彼自身が、なんと2月4日に別の友人藤原重家しげいえと一緒に三井寺で出家をしてしまうのです。
この数日前、じつは行成は成信が出家をする夢を見たのです。
それを本人に告げると、彼は「それは正夢だ」と答えたそうなのです。
その時すでに、出家をする決意を固めていたのでしょう。

親しい友人が出家をしてしまったこの頃。
行成は先の一帝二后の働きなどもあり、宮中でますます重用されてゆきます。
有能すぎるあまり、仕事と責務がどんどん増してゆくのでしょう。
いるよね、こういう人。

長保3年(1001年)2月4日、行成は、参議昇進を希望して蔵人頭くろうどのとうの辞任を申し出ます。
しかし、行成の有能さ、勤勉さを一条天皇はよく知っています。
蔵人頭は日常的に天皇に会うことのできる立ち位置ですが、参議はそうではありません。
「気持ちは分かるけれど、まだ蔵人頭を頑張ってほしい」
と、身近から手放す気がないようです。
そして、それに加えてもう一つ。
「その申請書は、写して奉るように」
行成の美しい筆跡、またしても欲されてる!!
なお、この「蔵人頭辞めさせて」「できません」のやり取りは、この前後にも複数回行われています。

一条天皇の信任が厚い行成は、この頃定子が遺した敦康あつやす親王家の別当べっとうになります。
この職は、敦康親王の家政機関の長官にあたるもので、現代であれば宮家の侍従長といったところでしょう。
一条天皇が、大事な第一皇子である敦康親王を任せる相手として行成を選んだあたりに、どれほど信頼していたのかが伺えます。
行成は、この後末永く敦康親王に親身に仕えることになるのです。

結局行成が参議になるのは、長保3年(1001年)8月のことです。
通常の倍近く、約6年にもなる蔵人頭を勤め上げてついに行成は議政官、公卿になるのです。 (当時の位階については第18回参照)
また、「光る君へ」でも描かれていたように、この年の12月22日に一条天皇の母あきが亡くなります。
実はこの時、詮子は行成の邸に身を移し療養中で、そのまま亡くなっています。
皇后定子そして詮子が1年のうちに相次いで亡くなるという、時代が移り変わる真っ只中にいた行成。
親しい人も出家という形で宮中から去り、行成の胸の内にはどんな寂寥せきりょう感が去来したのでしょうか。

書いた人:実咲
某大学文学部史学科で日本史を専攻したアラサー社会人。
平安時代が人生最長の推しジャンル。
推しが千年前に亡くなっており誕生日も不明なため、命日を記念日とするしかないタイプのオタク。