推しを、追う。✿第41回|実咲
三条天皇と道長との溝は、ますます深くなるばかりです。
政治の主導権を手にしたい三条天皇は、道長の娘妍子を中宮にしようと言い出しました。
もちろん喜ぶ道長ですが、同時に三条天皇は「娍子を皇后にする」とのこと。
一条天皇の皇后定子と中宮彰子の時にできたのだから、二后並立は可能だろうというのが三条天皇の言い分ですが(第27回参照)、道長は難色を示します。
しかし、彰子立后の際に無理を通したことを逆手に取られ、「お前もやったことだろう」と言外に詰められます。
娍子を皇后にしなければ、妍子のところには訪れないと脅します。これは、つまり皇子が産まれる可能性がなくなるぞ、と言っているに等しく、道長は三条天皇の要求を呑むしかありませんでした。
この娍子というのは、三条天皇が皇太子時代からの妃で、藤原済時の娘。
三条天皇とは非常に仲もよく、作中にも登場する敦明親王をはじめ四男二女をもうけた糟糠の妻といったところ。
すでに済時は亡くなっていますが、大納言で没したため、娍子を皇后にするには少々位が足りません。皇后の父は、大臣が相当であるとされていました。
そのため三条天皇は、済時に右大臣を追贈(死後に位を贈ること)し、娍子を皇后にします。
もちろん皇后になる際には、そのための儀式を行うことになります。
なんと道長は、まさに儀式を行う当日に妍子が内裏に戻る日をぶつけようとするのです。
これを進言したのは作中では斉信。行成は「さすがにそれはやりすぎでは……」と渋い顔。
公卿たちは、三条天皇と道長のどちらにつくか決断を迫られた形になりました。
さて、娍子立后の当日。
儀式にまず集まったのは藤原通任、藤原隆家、藤原懐平の三人。
いや、少なっ!!!!みんな日和すぎでしょ!!!!
藤原通任はこの日の主役娍子の弟、隆家は中関白家の生き残り、懐平は三条天皇の皇太子時代の春宮権大夫(東宮の世話をする役職の長官代理)です。
それなりに理由がある人物しか集まらなかったことになり、公卿たちは道長を選んだことになります。
さて、ここで問題発生。儀式の上卿ができる人物がいないのです。
上卿とは、儀式を取り仕切る筆頭の公卿を指しますが、この場に公卿はいなかったのです。
これでは娍子の立后の儀式ができないということ。道長の嫌がらせ、ここに極まれり。
しかし、そこへ遅れて来た一人の男。そう、実資!!
一応は道長に慮って遅れたものの、やって来た実資は正真正銘の公卿、大納言です。
おそらく実資も内心来なかった他の公卿を心憎く思ったことでしょうが、来てしまった以上は上卿をつとめることになりました。
その日の夜、妍子は内裏に戻り、宴が行われました。
やはりこちらは多くの公卿がおしかけ、娍子のさみしい儀式の様子とは正反対です。
作中では、行成は斉信をたしなめるようなセリフもあり、やはり内心「やりすぎだ」「よくないことだ」と思っているようです。
このように、三条天皇と道長はますます溝を深めていきます。
道長の思惑は一つ。三条天皇の早急な退位、そして孫である敦成親王の即位。
三条天皇との攻防戦は、この後も続くことになるのです。
行成の日記である『権記』はこの頃と少し前の寛弘8年(1011年)12月29日の記事を最後に、まとまった記事があまり残っていません。
逸文(引用などで他の文献に残っている部分)などでは亡くなる前年まで少なくとも書き続けられていたことがわかります。
ここから先の行成の行動は、他者の記録などをたどることになります。