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推し、つぶさに。✿第27回|実咲

「お上、どうかお覚悟をお決めくださいませ」

一代の天皇に、二人のきさきが並び立つ。つまり、せいが二人。
そんな一帝二后という前代未聞の出来事は、行成ゆきなりがいなければ起こり得なかったのかもしれません。

一条天皇には、愛する中宮であるさだがいました。しかし彼女は、先の長徳の変(第19回参照)で出家をしています。
そこへ、道長の娘あき入内じゅだいし、女御にょうごとなっていました。
ただし、彰子はまだ12歳で、定子のように子を産むのはもっと後になるでしょう。
彰子の後宮の地位を確かなものにするのと同時に、定子が一度出家してしまっている以上、当代の天皇に実質的には正妃が不在であるというイレギュラーな状況を解消する必要がありました。
道長の権力を固めるという事情と、国家の安寧のために必要なプロジェクトでもあったといえるでしょう。

長保元年(999年)の12月頃から、この一帝二后についての交渉ははじまっていました。
「光る君へ」でも描かれていたように、一条天皇の母あきの書状を持って行ったのはまさしく行成で、これは12月7日のことでした。
書状を受け取った一条天皇は、「このことはどうすればいいだろうか」と行成に問いかけます。
行成は「道長様が次に内裏だいりに来た際にお話しされるのがよいのではないでしょうか」と答えました。
何を、というのはもちろん彰子立后りっこうのこと。
一条天皇も、定子のことは気がかりでも、道長との円滑な関係を維持するためには、彰子の立后はやむをえないのだとは分かっていたのでしょう。
これで内意を得たと判断した行成は、道長へ報告へと向かいます。
道長は、それを聞いて「いつとはまだ決まっていなくても、これは行成のおかげだ。これまでも行成は自分を助けてくれた。行成の行き先や、その息子たちの行く末は何も心配することはない。自分やその息子たちがずっと面倒を見よう」と告げ非常に感謝するのです。
作中でもこの言葉は、セリフとして描写がされていました。

しかし、年の瀬も押し詰まった12月29日、一条天皇は「立后はしばらく公表しないように」と行成に命じます。
いまだ一条天皇の心中は揺れ動き、先例のないことをすること、そして定子のことに迷いがあったのでしょう。
これを聞き知った道長は、年が明けた1月10日には、立后が本決まりになったから安倍晴明に日取りを占わせたという『堂関白どうかんぱく』の記述を自ら墨塗りにして抹消するのです。
ちょっと浮足だち先走ってしまったことを、後から誰かに読まれるのはまずいと思ったのでしょうか。
これもやっぱり、作中に墨塗りをする道長が描かれていました。

一条天皇の心は、この時はまだ揺れていたのでしょう。
分かってはいてもままならないもの、それが人の心というもの。
この揺れる心を、最終的に後押ししたのがほかならぬ行成でした。

大原おおはら社(大原野神社/京都市西京区)の祭祀は代々、藤原よりいでたる皇后が神事を勤める習わしにございます。
されど、中宮様がご出家なさって以来神事をお勤めになるお后がおられませぬ。
なすべき神事がなされぬは、神への非礼。
このところの大水、地震などの怪異は神のたたりではないかと私は考えまする。
左大臣様もそのことを憂えて姫様をたてまつったのだと存じます。
ここは一刻も早く女御彰子様を中宮様となし奉り、神事を第一にすべきでございます。
それがならなければ世はますます荒れ果てましょう。何もかも分かっておいででございましょう。

「光る君へ」第28回 「一帝二后」より

実際にはもっと長く、事細かに論立てて行成は一条天皇を説得しています。
天皇の立場には、神事を執り行うことのできる后が必要であること。
后には国がもちろん歳費を支出をしていますが、それは神事を執り行うこととセットであるということなどなど。
つまり、義務と権利はセットであると説き伏せているのです。
きっと、行成のこれまでの真心をつくした仕事ぶりや人柄もあって、一条天皇もかたくなにならず耳を傾けたのではないでしょうか。
結局、この日に一条天皇は覚悟を決めたのか、「良い日を定めて申せ」と命じるのです。
長保2年(1000年)1月28日のことでした。そして、この後2月25日に、彰子は立后し中宮となるのです。

この、千年以上前のことがどうしてこれほどまでに一日単位で事細かに分かるのでしょうか。
それは、ほかならぬ行成本人が『ごん』にこれでもか!!というほど緻密に書き記しているからです。
この一帝二后は公になるまで露見せず、静かに水面下で進行していました。
それは行成が、道長や一条天皇、詮子のところを走り回って根回しを重ねていたからこそなし得たことだったのでしょう。
だからこそ、この長保2年の1月、行成はせいぜい数日程度しか仕事のない日がなく、労働基準法も真っ青の過重労働でした。
さらには宿直とのいという夜勤のような泊り業務も時折あり、よく倒れないな……と思うほどです。
「光る君へ」では道長が病に倒れましたが、行成も過労死ラインをとっくに越えています。

そして、この第28話では哀しい別れがありました。
定子は第三子である媄子よしこ内親王の出産に際して亡くなってしまいました。
そのしらせを聞いた一条天皇は、行成に「甚だ悲し」とこぼしたことを『権記』に残しています。
ずっと近くで一条天皇を支えてきた行成は、その気持ちが痛いほどわかったに違いありません。
のこされた三人の子供たちを、一条天皇はどんな思いで見つめていたのでしょうか。
この子供たちの運命には、今後も行成は大きく関わることになるのです。

書いた人:実咲
某大学文学部史学科で日本史を専攻したアラサー社会人。
平安時代が人生最長の推しジャンル。
推しが千年前に亡くなっており誕生日も不明なため、命日を記念日とするしかないタイプのオタク。