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第5回|長い一日

行動分析学を取り入れた「犬との暮らし方」にまつわる連載。犬と生きていくこととは、犬を飼うとはいかなることか。保護犬はると行動分析学者ボクの生活から、そのヒントをお届けします。*マガジンページはこちら

◎第5回◎
犬と一緒に暮らすために必要な物品の準備や部屋の間取り変更をすすめ、ついにその日が。「はる」はやってくるのだろうか?

 東京から東北自動車道を約2時間半。アニマルファンスィアーズクラブ(AFC)に到着すると、佐良先生、秋元先生、山本先生、杉山先生が揃って出迎えてくださった。待ちきれない想いを察して、すぐに案内してくれる。10畳ほどの部屋の奥にクレートが一つだけ置いてあり、その中に犬が寝そべっていた。何十頭もいる他の犬とは別の部屋をあてがってくれていたのだ。ボクたちが入ると立ち上がり、こちらの様子をうかがっている。写真の印象より小さく、幼く見えた。

 「ここにいてください」秋元先生に言われ、部屋の入口で中腰になって待つボクに「これあげてください」と佐良先生が何かを手渡してくれた。茹でた鶏肉だったように思うが、よく覚えていない。秋元先生がクレートの扉を開くと、犬がゆっくりボクに向かって歩いてきて、差し出した掌からそれを食べた。「魂を売った瞬間です」佐良先生が静かにつぶやいた。

 AFCでは「てんちゃん」と呼ばれていた。秋元先生らスタッフの方々が交替で丁寧にお世話をしてくださっていたことが、食事や散歩の様子が残されたB4のノートからよくわかった。AFCでは犬の食事をゼロから作っている。秋元先生からそのレシピをいただいた。色々な種類の生肉や野菜、果物など、300種類くらいの材料から作られている。ボクには到底できない調理ですと告白すると、一食ずつパックして冷凍して届けてくれるという。食事をいきなり変えるのもよくないということで、しばらくは有り難くご厚意にあずかることにした。

 その日は仔犬と飼い主のためのパピークラスという講習会が開催されていて、ボクとてんちゃんもそれに参加させていただいた。リード(紐のこと)やカラー(首輪のこと)の脱着、椅子に座ったボクの横でリードを付けたまま待機すること、部屋の中を一緒に歩いたり、リードを手放して少し離れたところから名前を呼んで呼び寄せる練習もした。一緒に歩くのにも練習が必要だし、教えてもらわないとわからないコツがあることを実感した。

 その後、かかりつけの獣医さんを訪ねて譲渡証明書を作成していただき、万が一事故や災害で迷子になっても自分の犬であることがわかるように首に埋め込むマイクロチップの手続きも完了した。

 那須塩原を出発する前に山本先生と一緒にホームセンターに立ち寄って、残された嫁入り道具を購入してから東京へ向かった。山本先生と察子さんも杉山先生が運転する愛車セバスチャン号で同行してくださった。部屋の環境を確認し、散歩の練習も指導してくださるという。

 家に着き、クレートやサークルの設置状況などを見ていただき、一息入れてから散歩の練習に出かけることになった。うちのマンションの向かいには公園があるのだが、このあたりではそこが唯一犬が入れる公園であることをこのときはまだ知らなかった。

 山本先生が察子さんを連れて、木々が生えている公園の隅っこに行き、察子さんにおしっこをさせてから、てんちゃんを誘った。てんちゃんは臭いをかぐと同じ場所でおしっこをした。すかさず褒めておやつをあげる山本先生。

 山本先生からは室内で排泄させたいか屋外で散歩するときに排泄させたいかを事前に質問されていた。両方教えることもできるけど、どちらか決めて教える飼い主さんが多いらしい。ルナのことを思い出したボクは迷わず「屋外でお願いします」と答えていた。

 「明日の朝もここに来てください」と山本先生。あちこちでおしっこをしないように(マーキングというらしい)、外に出たらいつも同じ場所でおしっこをさせ、おしっこをしたら褒めておやつをあげて、それから散歩に行くようにすると習慣化できるらしい。
 山本先生は散歩のお手本も見せてくれた。てんちゃんが左側に来る位置に立ち、声をかけながら歩きだす。そしてジャーキーを少しずつちぎって与える。いつも同じ位置にフードを差し出せば、そこを目指してついて来るようになるという。左ひざの裏側、斜め後ろくらいの位置が目安になりそうだ。てんちゃんは尻尾を振りながら、山本先生についていく。

 犬と人が一緒にうまく歩けているとリードは張らずに緩く垂れる。この理想形を「Jリード」と言うらしい。カラーから垂れたリードがアルファベットのJの字を書くように飼い主の左手に戻った状態を保つわけだ。ところがこれがなかなか難しい。山本先生に替わってリードとジャーキーを持ち、同じようにやってみると、てんちゃんはあちこち歩き回ろうとして、リードはピンと張ってしまう。これではJならぬIリードである。

 ちぎったジャーキーが大きすぎると、歩きながらだと飲み込みにくくなるのか、てんちゃんは立ち止まってしまう。ちぎるのに手間取っていると他に注意が向いてしまう。ちぎったジャーキーを渡し損ねて地面に落とすと、拾い食いしようとする。簡単そうに見えた山本先生のお手本だったが、一連の動作を間違いなく滑らかに迅速に行うには練習が必要なことがわかった。Jリードはこの後、なかなか達成しないボクの目標の一つになる。

 気づけば辺りは暗くなってきていた。そろそろ潮時かなと思ったそのときにうっかりしてリードを手放してしまった。瞬間、ものすごいスピードで走り出すてんちゃん。公園とはいえ、道路は近く、車通りも多い。「待って!」と叫んで追いかけるボクの後ろから「追いかけないでください」と山本先生。ボクはパニックでその声が聞こえていても止まれず、てんちゃんの後を追いかける。追いつきそうになるが、てんちゃんは急速にUターンして逆方向へ突っ走る。そっちは公園の出口なのに。最悪の結末が思い浮かぶ。 ところが、Uターンしたてんちゃんは山本先生のところへ直行し、ぴたっと止まった。暗くてよく見えなかったがどうやら山本先生から何かをもらって食べているようだ。「魂を売った瞬間です」という佐良先生の言葉がボクの頭の中を駆け巡った。 長い一日が終わろうとしていた。

to be countinued…

★プロフィール
島宗理(しまむね・さとる)[文]
法政大学文学部教授。専門は行動分析学。趣味は卓球。生まれはなぜか埼玉。Twitter: @simamune

たにあいこ [絵]
あってもなくても困らないものを作ったり、絵を描いたりしています。大阪生まれ、京都在住。instagram: taniaiko.doodle