推し、いずこ。✿第35回|実咲
寛弘5年(1008年)9月11日、一条天皇の中宮彰子は第二皇子敦成親王を出産しました。
道長にとって、待望の孫であり、これでようやく将来の天皇の外戚の地位を手に入れることができました。
とんだサバイバルな道のりであった、前回の金峰山寺への参詣は無駄ではなかったということです。
「光る君へ」の作中でも描かれていましたが、この彰子の出産は大変詳しい記録が残されています。
これまでもたびたび登場した日記だけでなく、紫式部の『紫式部日記』でもその様子が現在に伝えられているのです。
この日記は公式の記録と併せて、紫式部が道長にこの一大事の記録をつけるよう命じられ書き始められたもの。
彰子の出産は大変な難産で、産気づいてから30時間ほどかかったようです。
紫式部は彰子の身近で接した女房であるため、産まれるまで続く祈祷や出産に苦しむ彰子、そして娘を気遣う倫子の姿など、遠巻きにせざるを得ない男性貴族には伺い知れない詳しい様子が描かれています。
さて、なんとか待望の孫である敦成親王が産まれると、道長の喜びはひとしおでした。
父親である一条天皇も道長に劣らない喜びようで、彰子が里帰りから戻るのが11月の予定だと聞けば、待ちきれずに10月には土御門殿へ行幸(天皇の外出)をおこないます。
11月1日には誕生から50日を祝う五十日の儀が行われました。
これは現代でいう所のお食い初めで、子供の唇に餅をすりつぶしたものを匙などでつけ健康に育つことを祈るものでした。
このおめでたい日には、道長も「無礼講だ」と盛大な宴会が開かれました。
皆とんでもなく羽目を外していたようで、それを紫式部は克明に記録し後世に残してくれました。
右大臣顕光は几帳(部屋を区切るパーテーションのようなもの)の布の切れ目を引きちぎったり。
実資は女房たちの重ねている十二単の袖口の色や数を数えてなにやらぶつぶつ。酔っ払いって数を数えられなくなりますよね……。
公任は「このあたりに若紫はおいででしょうか」と紫式部に声を掛けますが、「光源氏のような殿方はいないのに、若紫はいませんよ」とバッサリ一刀両断されてしまいます。
この公任の「若紫はおいででしょうか」というのが、『源氏物語』が実際に貴族社会で読まれていたことが分かる最初の記録とされています。
2012年(平成24年)には、五十日の儀のおこなわれた11月1日を「古典の日」として記念日に制定されました。
つまり、公任のこのセクハラのような発言は、一千年の時を超えて記念日を生んでしまったということです。
先日私が訪れた紫式部の屋敷跡に建つ蘆山寺では、鎌倉時代に描かれた『紫式部日記絵詞』の五十日の儀の場面の複製が展示されていました。
さて、このどんちゃん騒ぎの五十日の儀ですが、作中では宴会の片隅にいたはずの行成。
じつは、『御堂関白記』や『小右記』、『紫式部日記』の文献上はこの日どこを探しても見当たらないのです。
それどころか、前後の日にちはきちんと残っている『権記』でさえ、この11月1日だけは欠けており、当日行成がどこでなにをしていたのか全く不明。
それより以前の五夜や七夜、九夜の産立ちの祝いの日には参加したり、后が産んだ皇子を親王とする先例を調べて道長に伝えたことを『権記』に書き残しています。
じつは行成の妻も9月25日、26日にかけて双子の男児を出産しました。
産まれるまで2日を要し、胞衣(胎盤、臍帯、卵膜)がなかなか出てこなかったようです。
しかし、なんとか生まれた双子は、誕生からまもなく二人とも亡くなってしまいます。
難産を越えて近い日付でうまれた同じ子供でも、敦成親王は五十日を迎え、行成の子供はそれを迎えられずに亡くなってしまったのです。
悲しい出来事があったからか、行成は12月8日に、亡くなった双子の兄と姉にあたる子供のために仏事を催します。
今いる子たちは、どうか健康に育ってほしいという父親としての祈りがこもってたいたことでしょう。
12月20日に行われた敦成親王の誕生100日を祝う百日の儀では、行成の姿もありました。
この場で道長に命じられ、行成はその日に詠む和歌の題を書くことになりました。
「お題はこちら」というフリップを書く役目といったところでしょうか。
早速行成が紙と硯と筆を用意して準備をする間、突然伊周が進み出て和歌の題を書いてしまいました。さすがにお題の紙は二つもいらないので、行成は実際に皆が詠んだ和歌の方を書いたとのこと。
この時の伊周の行動を皆がいぶかし気に感じていた様子が『御堂関白記』や『小右記』に書かれています。
当代随一の書家である行成を差し置いてお題を書く、というのはなんとも気まずい雰囲気になっていたのでしょうか。
「光る君へ」では伊周は敦成親王の誕生に際して呪詛を行っていましたし、道長の金峰山への参詣では暗殺を計画しています。
もしかして、そのような後ろ暗さが顔や行動に出ていたのかもしれません。
「ひょっとすると、何か企んでいるのでは」と周囲に感じさせる雰囲気でもありそうです。
果たして、この後伊周の運命はどうなってゆくのか、今後の展開が待たれます。
(文中の写真はすべて筆者撮影)