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「心地良さ」と「気持ち良さ」

俳句をしているうちに、「心地良い」句と、「気持ち良い」句、というものが生まれていることに最近気付いた。そして、こころなしか、「心地良い」句は比較的写実的なもの、「写生」を感じるような作品で、「気持ち良い」句は写実的ではないようものだとわかった。

遠山に日の当りたる枯野かな / 高浜虚子
春月の病めるが如く黄なるかな / 松本たかし
手をつけて海の冷たき桜かな / 岸本尚毅
顔痩せて次なる菊を持てりけり / 堀下翔
その裏にみづうみ澄めり盲学校 / 柳元佑太

上記の五句は、初めて見た時に「心地良いな」と感じた句である。写実的な作品の良いところはやはり、「共感」にある。読者の実体験上にあれば勿論容易に想像できるが、たとえ、なくとも、断片的な知的体験などから作者の構築した世界を容易に再現して構築できるという「共感」。「きっと、こうなんじゃないだろうか」と想像して、微笑んでしまうのはさながら初恋のような感情にも似ていると思う。虚子の句においては、「遠山」がどこであろうと、私の中でその「遠山」に「日の当りたる枯野」が再構築できる。きっと虚子と同じ郷愁感のようなものを抱けてるんじゃあないか、と思うだけで微笑むことができる。たかしの描写した「春月」の「病める」ような「黄」も、岸本さんの描いた春の「海」の冷たさ、「桜」の色も、堀下さんの描いた「次なる菊」を持っている存在の儚さも、柳元くんが描写した「盲学校」の「裏」の「みづうみ」と、それを見ることの出来ない生徒達への哀情も、理解出来た時に、どことなく、意中の人と下校する女子高生の気持ちのような照れ臭さのような嬉しさのようなものがあり、「心地良い」と感じる。きっと、それが俳句の「共感」の本質の一面なんじゃあないだろうか、と感じている。
また、別の方向として「気持ち良い」と感じる作品も往々にしてある。

雨季來りなむ斧一振りの再會 / 加藤郁乎
分けあう椎茸すごい肉厚すごいね / 田島健一
永遠を山手線でねむりこむ / 大塚凱
ゼリーは夜食で『北の国から』は不要なはずだ / 髙田獄舎
君を絵に描けなくなって蓼の花 / 丸田洋渡

上記の五句の場合は、読み切って「気持ち良い」と思えた。先述の心地よさが「叶った恋愛のような安心感」というのなら、こちらは「長編映画のあとの満足感、爽快感」というように全く別物な感覚なのだ。それが抽象的であればあるほど読み切った後の爽快感は大きく、それが主観的であればあるほど読み切った後の満足感が大きい。「共感」よりも、もはや「自己満足」の域ではあるが、その独善性が「気持ち良い」。
ここから、すこし長く語りたいと思う。加藤郁乎の句について、「雨季」、この一語が意識を一気に異国へとトリップさせる。さらに、「斧一振り」が、主体の原始的生活あるいは自給自足的生活のようなものを想像させ、「再會」一語がその期間の長さを物語る。こんなにも複雑な背景を想像させるものを読み解いていき、「自己満足」の末に構築されたストーリーを想像するだけで、「ああ、やりきった。やりきった。」と満足感が生まれる。これは田島さんの句にも言える。「なんて過日常的なんだ、これは」と思った。「分けあう椎茸」というフレーズだけで、居酒屋かどこかで、椎茸の串焼きでも頼んだのか、そしてそのサイズが結構大きいのだろうと想像させる。そして、「すごい」。読者はやはりサイズの大きさに対する想像が間違いないと思える。「肉厚すごいね」、この一言で読者の胃袋はつかまれる。抽象的な飯テロだ。読んでいて腹が減る、グルメ映画やグルメドラマ(深夜食堂、孤独のグルメなど)を見たあとのような感覚。満足感がある句だ。
ここから、ほぼ同世代の人たちの「気持ち良い」句だが、僕はこれらに爽快感を覚えた。
大塚さんのこの句、山手線が環状線で、一時間ほどかけて一周をするということは知っている。きっと、盛大に寝過ごしてしまったのだろうか、その循環していく時間を「永遠」として、「ねむりこむ」作中主体と、その周りのドラマを考えていくことと、そんなにみっともない時間を「永遠」と言い切れる作者の表現の潔さに爽快感を感じた。
獄舎さんの句は、基本すべて爽快感がある。
この句においては、たった一言に尽きる気もする。「ゼリーはすぐ食えるから『子供がまだ食ってる途中でしょうが』なんて言わなくたっていいんだよ、コノヤロウ」。ただ、これもまた、読者の「自己満足」の結果としての読みであり、「一言に尽きる気もする」という読みがすんなりできる爽快感がやはり気持ち良い。
洋渡くんの句に関しても爽快感がある。内容的にも読後感的なところからしても。
この句における「蓼の花」を、花言葉的象徴として私は捉えたい。「蓼の花」は、「健康」を表す。それだけで、君が健康上の問題で今目の前にいない、もしくは、絵を描く「自分」が健康上の問題で描けないか君を見ることが出来ない。そのうえで、蓼の花が見舞いの花かもしれなかったりする。これはあくまでも「自己満足」的な読みだが、「そうだったらすごいなぁ」と想像する自己完結の爽快感を楽しめる、というのがとても楽しい。

とまあ、こんな具合に、私は句に「心地良さ」「気持ち良さ」を求めているのかもしれない、と言いたいだけのnoteだった。個人的メモかしら。

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