見出し画像

二本の足で歩くということ

歩くというのは、二本足か四本足か、そしてむかでのようにそれ以上で進むということだ。

人は二本足で歩くようになったので、二つを互い違いに前に出さないと前へ進むことができない。人生はまさにその足で歩くがごとしと。
もちろんこのことを言うだけなら、通俗的なことだ。
人は、二本足で歩くものですから、一歩一歩踏み出していくのですとか、二本足で立つことによって、脳が大きくなって進化したなんていうもっともらしいことを言いたいんじゃない。
あくまで比喩なのであって、比喩で語ろうとするとどうしても、その逆説を狙った罠に落ち込むことがあるのだが、それを恐れずに語り出すとすると、こういうことだ。

これ一つという1本にしぼるより、二つのことをやっていたほうがいいという意味だ。
人生これ1本でやってきましたというのは、まさに真摯な態度で誇れるように見えるかもしれないが、実は停滞に陥りやすいのだ。
それは何故かというと、いつも、いつも順調にできるわけではなく、スランプの時期がやってくる。その時は思い悩んだりしているが、それがまた解消して先へ進んでいくというイメージがあるかもしれないが、実はそれは稀なことであって、大概はそこで行き詰まってしまう。行き詰まると、後はなんとか乗り切ろうと努力するか、断念するかのどちらかだ。ほとんどは断念してしまうだろう。その壁がおおきければ大きいほど、断念してしまう。そして保守化してマンネリに陥る。
それが、もし二本なら、互いに行き詰まったら切り替えていけるのではないかということだった。行き詰まった方は横においておいて、もう一方のことを始めるということだ。そしてまたしても、それに行き詰まったら元に戻ってくる。そういうストラテジー(戦略)のほうがいいんじゃないかという意味だ。

かつてやりたいことがあって、思春期から、淡い期待を持ってせっせと励んできたが、それでは食っていけないと職についた時は、やりたい事と仕事の二つに引き裂かれるような感覚があって、苦しんだものだった。
抽象的に語っていては何もわからないので、具体的に言わないといけないだろう。
恥ずかしくて言えないような若気のいたりなのだけれど、そこを思い切って恥をさらしてしまうと、かつての私は文学に魅了され、今はなき文学というものに憧れていたし、作品を作りたいと願っていた。しかし、いかんせん才能はないし、文学の思いだけでは地に足がついていなかった。そのうちに時はすぎる。生活していくためには、何か職につかなくてはいけなくなり就職した。しかし、その思いは消えず、暇を見つけ出しては読み書きしていたと思う。
でも面白くて、興に乗ってくると、仕事が忙しくなって中断を迫られる。そして仕事が一段落して、さてと戻ってみると、もうその続きが書き出せない。何を書こうとしていたのかも忘れてしまっている。そのような状況の繰り返しだった。結局何もかも先に進まなかった。仕事はサラリーマンであったから、成功するも失敗するということもなく、ただ勤めていればいいだけの事だったのだが、その具体的なタスクは失敗のリスクにもさらされていたので、どうしても二刀流は無理があった。
そんな引き裂かれるような思いが過ぎ去って、いざ余裕ができるようになると、今度は逆にまた全く思い付かないし、書けなくなってしまった。できなくなったというより、かつての文学だったものが、もうこの日本には全くなくなってしまった世界に変貌していたのだ。文学は消滅し、エンターテイメントばかりの世の中になってしまっていた。
それでもあきらめきれずに、少しずつ方途を探してもがいている。そこで感じたことのがひとつが文学という言語思考だけでは限界があって、もっと瞑想やヨーガなどの身体技法を取り込ないと脱出できないのではないかということだった。
そこで身体技法を取り入れたのであるが、それがいちから始めることなので、結構時間がかかるのと関心の向き方が言語思考とは違っているので、戸惑ってしまうこともあってうまくつかめないでいた。
それがなんとなく全体像が現れ出すと、面白くて、次に、足もみである官足法を始めたり、整体の一種である野口整体にも手を伸ばしている始末だ。かつ、行きがかり上から指導員になったりして、教えるほうにまわることになってしまった。
今回は二つに引き裂さかれるような感覚はないものの、文学の思いは、逆に変質しまっていているように感じる自分がいる。文学と思っていたものがあやふやになり、かつ、別物になり始めているのだった。
ここで、この私のたわいもない例を挙げていいたいのは、この二つの道、(道と言っていいのかどうかわからないけれども、人生の選択という意味を込めて道という言葉がよく使われるので、通俗的であるが使ってみる)がよくも悪くも前進させてきたのではないかと言うことだ。
かつて引き裂かれるような二つであったものは、対抗するものが外にあったからであって今回は自分の内にある関心で、実は相互に関係していて、引き裂かれるのではなく、前に進んでいくためのシナジーになっているんじゃないかということだった。
それなのに、またやりたいことをやってみたいと保持してきたものが、心が変化して、別に文学でなくてもいいんじゃないかという思いに変わってきたことだった。
オイオイそれじゃ文脈とづれるじゃないか?

すでに小説はもう書けなくなってしまっているし、目指すもののイメージも疑ってしまって白紙の状態にある。それが集約されて、何かにつながっていくのかという思いもつかない。どこへ行くのか、これからが楽しみだけれども、もうかつての文学へのこだわりはなく、また文学でなくても良いと考えるようになった。

ここでも、二項対立によるというようなことではなく、2つのものが別々に変化していく時代へと導かれていったものだ。あくまで別々のものが、別々のままで混じり合っているということを考えるなら、それは融通念仏で言うところの〈融通〉の概念に近いかもしれない。
あくまで別々のものだ。それが〈私〉という世界の中で混ざり合っている。

いよいよ文脈が歪んできている。
二つが可能になるという事を言いたかったのに、二つがそのものが変化していく。
これは困った。
なんとか、二本足で歩むという結論に結び付けないといけない。(焦る)

片足ではケンケン(片足跳び)で進むことはできるかもしれないけれど。二本足なら互いに出し合って進んでいける。平地ならまだ片足でも進めることは可能だろうけれども、上りの坂道になると苦しい。まして、はしごになると片足では不可能だ。互いの足を踏みしめないといけなくなる。今流行のボルダリングなら、手足4本を共に使わないといけないし、それぞれを鍛えていかないといけないものだから。

なんか無理があるなぁ。

こんなことを考えていたら、本当に好きな事なら、ときの変化と身体の変化にかかわりなくやってしまうものだという気がする。そんなとき、二本足で歩くというより、要は行きつ戻りつ、あちこちに屈折しながら進んできたのだという気がする。振り返ってみたらそういうことだったということだ。
先に何か描きたいというものがあって、それを書き下すというようなことではなくて、この先がどういう結論に行き着くかわからないけども、とりあえず心と体に任せて進んでいきたいという思いだった。

これはいわばフランツ・カフカが、かつて自作の『判決』という作品を自ら評して霧の中を船でずんずんと進んでいくように向こうから世界が展開してくるようだったと書いていることと似ているかもしれない。どうなるかわからないけども探求し続けていきたいと思うようなものなのだ。


エッセイもこんなものだろう。結論はわかっていて書き出したのだけれど、途中で脱線して、収拾がつかなくなった。
偉そうに二本足で歩けなんて、どの口が言っているんだろう。

これはかなり個人的なことであって、エッセイとして残すほどのものでは無いんだけれど、何かに参考になればと思う。昔から多くの人々が同じような結論にたっしていたと思うので、そこは私も人類の偏差の範囲内にいるということだ。ということにしておこう。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?