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断片だよ、断片だったんだよ! 頭木弘樹『カフカ断片集』(新潮文庫)

かつて、「断片小説論」を書いた人間としては、断片に注目してもらえることは大変うれしい。

かつ、頭木弘樹さんは、その処女作においてなんとなく関心を持っていたカフカにあらたな視線を与えてくれた恩人であり、また私がカフカ本を出版するまでに繋がっていった人だつた。


その覚醒させてくれた本というのは、『「逮捕+終り」ー『訴訟』より』(創樹社)という真っ黒い表紙に赤い文字の小さな本だった。私の持っているのは、1999年10月25日2刷だから、25年前になる。
内容は、『訴訟』の第一章と最終章を訳出して、そのあとに半分くらいの頁をつかった解説と評論から成っている。
特に目をひらかされたのが、「カフカの弱さと強さ」と題される節で、これまでのカフカのイメージを一新された。

以後も、カフカ本は世界中でどしどし生産され、まだまだ生産され続けている。かくいう私もその一人なのだけれど、忸怩たるものがある。それはこの本に「小説は説明を必要とはしないし、説明することもできない。 作品がすべてであり、それだけを純粋に読むことこそ求められる。だから、読んだほうがいい批評や評論や解説というのはありえない」と冒頭にあって、まさに「そうだ!」とうなずいている自分がいるからだ。
しかし、人というのは悲しいもので、モヤモヤしていることをはっきり言ってほしいという欲求を押さえられない。

まさに、同じことが、この本でも生じている。そうさ、断片こそがカフカなのだと。

カフカには、マックス・ブロードが編集したものだけれど「アフォリズム集成」というのがあって、こちらは「罪、苦悩、希望、真実の道についての考察」(マックス・ブロードがつけたタイトル)とあるように、いわゆる箴言集であって、ここで言う断片とは違っている。それは額面通りの文字の指し示す意味の言葉であって、なにかの断片ということではない。
むしろ、言語思考による論理があって、なんとか解明しようとしているが、解明できていない。論理のはずが、道をそれたり、袋小路に迷い込んだりしている。そして、結論は「ただ待っているのだ」に終わっている。

そうじゃない。
断片とは、文字ずらを額面道理に受け取るだけのものでもないことを描き出そうとする行為なのだ。そこに物語の整合性としての構成はいらない。頭木さんも書いている。

「完成させようとすると、つじつまが合うように考えなくてはならない。そこで失われるものもある」

「完成させなければというのは、ひとつの縛りでもあり、完成を目指すことをやめてしまえば、大きな可能性が広がることも、またたしかなのだ」

自らを完成するという形を追求することによって、不自由になるというのだ。

しかし、現在はこのタイプのものばかりだ。また完成形は、どうすれば感動を呼ぶのか、どうすれば衆目を引くのかに悪戦苦闘するポピュリズムに陥っている。
エンターテインメントというやつだ。
しかし、そんなことと文学は無関係である。
それは、単なる商品にすぎない。

一方この断片という形式の似ているのは何だろうと探すと、俳句・短歌とかに似ているという。松尾芭蕉を引き合いに出しながら「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」と引用している。
イメージを書き留めておくにはこの断片は適しているというのだ。

この断片集のなかには、本当に断片的断片もあるけれど、おなじみの短編も入っている。『法の前に』『橋』『夢』そして私のお気に入りの『日々くりかえされるできごと』などなどだ。

『法の前に』はかつては『掟の門』と表題されていたものだ。あまりに有名で、多くの人が自分流に解釈して使っている。内容は、ある男が田舎からやってきて掟の門の中へ入れてくれと頼むが、門番は断る。なんとかなだめようと手を尽くすが入れてもらえない。男は生涯をかけて門のまえで待つことをつづけたが、年老いてしまい、死に際に門番から、この門はお前のための門だったとつげられ、門を閉ざしてしまう。
そのような内容だった。その門を何と解釈するかによって、多数の解釈がある。
原題は「Vor dem Gesetz」でこの「Gesetz」の意味だという。「国などが定めた法律という意味もあれば、もっと一般的な世の中の法、宗教的な戒律、集団の掟、自然科学の法則(重力の法則とか)などの意味がある」としているので、特定はできないとしながらも「法」と訳したとある。

『橋』はオマージュをこめて、パスティーシュを書いたことがある。どこまでも、パロディではない。むしろ翻案だ。

ホームページ

私はホームページだった。
誰も訪れることのないひっそりとアップされたホームページだった。ヤフーやグーグルにも登録していなかったし、プロバイダーにも登録していなかった。 
そんなホームページに訪問者がやってきた。一瞬にはちがいないが、立ち寄ってすぐに帰っていってしまった。それから何年が過ぎただろう。検索エンジンを使った訪問者があらわれた。彼はくまなくホームページの内容を探索し、それは詳細をきわめた。このホームページはコンテンツのよさ、そして整備された情報をなぞってくれた。もちろん都合のいいことだけで、よくないこと、かっこ悪いことなど載せていない。しかしそれでも少し古典的ではあるが、けっこう品にいい優れたものに仕上がっていると思っていた。すっきりしたモノクロを基調としたデザインで統一されていた。インターネットの核心は「文字だ」という信念につらめかれていた。思わせぶりやこけおどしではない個人と個人をつなぐツールとしてのパーソナルコンピュータの初期理念を体現しているはずであった。それでも、いやそれゆえに訪れる人は少なかったのである。
この訪問者が、別れぎわにメールを残していった。
それに気づくのが遅かったというか、それをチェックしたとたんあの格調高かったはずのホームページが見るも無残なレインボーカラーに変色してしまった。そして文字化け、そして内容を誇っていたコンテンツも偽りが混じりはじめた。時限爆弾のように刻一刻プログラムは作動している。あれっ、と思った瞬間うかつにも電源を切ってしまった。すべては消え失せそして跡かたも残らずに終ってしまった。
再開されたホームページはかってのものとは似てもにつかぬグロテスクなものになってしまった。
今はその身をさらしている。

自著作品「ホームページ」

 カフカの『橋』が「たしかめたくて、わたしはふりかえった」と体をひるがえす身体感覚を導入してイメージさせているのにくらべ、単にいたずらされたという悪意に落としている点で、劣るのは明白だった。

『夢』はあまりに有名すぎるのと夢らしい夢である。夢は夢を見た人には鮮烈でリアリティがあるけれど、それを聞いた人にはそれほどでもないというものだ。また、夢は所詮夢であってそれ以上でもそれ以下でもないと気が付いた時点で、詮索しても仕方がないという気がしている。面白いけれど。

『日々くり返されるできごと』はお気に入りで、世の中こんなもんさと実感したことがある。とくにかつてのサラリーマン時代営業職をしているときだった。
同じような感覚を抱いたものに、池内紀の『カフカのかなたへ』(講談社学術文庫)で紹介された『隣人』がある。

ある男が、二間の事務所で、女子事務員を二人雇うだけで、電話で仕事を受けることとを業としている。隣の空き部屋に若い男が入ったようだ。しかしその男は何をしているのかもわからない。その男はハラスというだけだ。どうも同業者らしい。しかしろくに顔をあわせたこともないし、階段で出くわすと、そばを駆け上がっていきネズミが逃げ込むように尻尾がチラッと見えるのとそっくりだった。隣との境の壁は大変薄い、それなのにその壁に電話はついている。盗み聞きされているんじゃないかと気が気じゃない。電話がかかってきても、それとなく肝心のことは話さないようにしている。話の途中で、男が飛び出していくのがわかって気が気じゃない。仕事を横取りされていいるんじゃないかと疑っている。

そういう話だ。
普通これは疑心暗鬼というけれど、しばしば起こり得ることだ。単にこの男の妄想であり、考えすぎなのだけれど、そういう錯覚はおきるものだ。この『日々くり返されるできごと』も、いつもなら10分で行けるところを10時間もかかったというのは、錯覚というよりほかのことをかんがえていたのだし、道に迷っていたのかもしれない。同じところをぐるぐる回っていたのかもしれない。それが整合性が取れないとして、なんとか言いくるめようとすると、このリアリティがつたわらなくなるのだ。時間はいつも等間隔では進行しない。早くなったり遅くなったりするのが、人間の時間感覚なのだから。

これらのように、ある程度まとまった断片より、もうひとつよくわからない断片のなかで面白いとおもった作品がある。『告白と嘘』(p-125)と『ホテル・エトホーファー』(p-42)だろうか。

『告白と嘘』は「告白と嘘はおなじものだ」ではじまる7行ほどの小品で「合唱のなかにようやく、なんらかの真実がみいだされるのかもしれない」で終わるが、なぜ合唱なんだろうとよくわからなかった。つまりは、相思相愛で、お互いに告白しあうということなのだろうか。嘘の重なり合いが真実になると?

『ホテル・エトホーファ―』は『訴訟』の断片を思わせるような、これも錯覚だけれど、1922年8月とあるので、『訴訟』より7年後ぐらいの断片である。ただ救いは「こんな居心地のいい場所を見つけ出せたことを、しみじみ幸運に思った」と結んでいるので、『訴訟』を書いた時よりは、解放されているのかもしれない。

結論
断片に整合性をもとめてはいけない。きれいにまとめようとしてもいけない。断片は断片として味わうしかなく、そこにとどまっている。それも、あまりに拡散しているので、本にはならない。商品にもなりにくい。カフカのような有名人ならともかく、無名人には不可能に近いような話だろう。どのメデアがとり上げてくれるというのか? そんな、編集者はこの現代の日本にはいないからだ。それを考えるなら、よくぞ新潮社は決断したものと思う。


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