見出し画像

霊的開眼とは何か 第6章 藤田一照・山下良道・ネルケ無方・永井均『哲学する仏教』前編


 仏教3.0は今まさに進行中の運動であって、その総括はなされていないから、どこに落ち着くのか、それとも何でもないものだったのかはわからない。

『〈仏教3.0〉を哲学する』(春秋社)『〈仏教3.0〉を哲学するバージョンⅡ』(春秋社)の二冊が既に出版されていて、その内容は藤田一照・山下良道・永井均、による鼎談であって、それが文字起こしされ収録されている。

これとは別に、内山興正の思索をめぐって一冊が出版されている。それが『哲学する仏教』(株式会社サンガ)だ。これはこの三人にネルケ無方を含めて四人が内山興正をめぐって連続講義を行い、それを文字起こししたものであって、これもかなり後から手を入れているらしくて、詳しい内容になっている。

仏教3.0をめぐって、私に何ほどのことが言えるはずもなく、まして、この論で扱うことなどできるはずもない。ただ、途中から関心を示して、実際の鼎談と講座に足しげく通っていたので、仏教3.0に関心の中心があったことには間違いはない。

仏教の新なる刷新運動というだけではなく、再度、仏教へと目を向けるきっかけになったものだ。

何を隠そう、私は仏教学科の出身であって、若い頃、きっちりと仏教にはまっていた。それが卒業とともに仏教から離れていったというよりは、仏教の新たな展開というものが見通せなくなったのと、自分が得た仏教理解とその現実との落差というものがかなり深刻であったものだから、離脱したと言っていいようなものだった。

それが、仏教3.0に出会って、これはひょっとしたら日本仏教も新しくなるかもしれないという期待を抱かせるものだった。

それを知るきっかけは、長らくファンだった永井均の著作に登場する藤田一照、山下良道の名前を知って、その人たちを調べ始めたことに始まっている。

そして、その著作などを読み始めた。

昔、得た知識を記憶から呼び出して、読み進んでいくうちに、実際に瞑想なるものをやってみたいと考え始め、リトリートにも参加を始めた。学生の頃に何度か曹洞宗の坐禅を体験したことがあったけれど、ただ、ただ退屈であったことしか記憶にない。それが、今回初めてみると楽しくて仕方がないというより、新たな発見があって、驚きの日々だったことが思い出される。

ハイライトは、何といっても、ある関東の山上宿泊所での七日間の接心に参加した時で、四日目の夜に「本当の私」(註:現在は本来の〈私〉と言い換えている)と形容されることの意味をしっかりと掴めた。これはまさに永井哲学の〈私〉だったのだという確信と、後になってそうとわかることになるのだが、若い頃にナーガルジュナの『根本中頌』を研究していて、ふと空がわかったような気がしたときの直観と似通っていていたのだ。

およそ、宗教体験と呼んでもいいようなものが本章の核心にもなっているのだが,、前章のルネ・ドーマルをふまえるなら、詩的体験だったのかもしれない。

それを霊的開眼と言い換えているだけなのだが、決して宗教体験というような救いでもなかったし、この後にくる平安でもなく、知る喜びといったほうが近いような体験だった。

この体験をもとにして、ここまで思索を続けてきたといって良いだろう。そして、本編はあくまで、霊的開眼とは何かを問うているので、その文脈に沿って、仏教3.0に迫ってみたいと思う。そこで扱いやすい、『哲学する仏教』の中に収録されている、永井均の「内山哲学は仏教を超える」にしぼって検討していきたい。

その前に『仏教3.0を哲学するバージョンⅡ』の永井均の「鼎談の後に」を参照してみたい。そこには、これらの仏教3.0の残された課題は、①慈悲の位置づけと②他者の位置づけが問題であると出てくる。

まだ何も書き出していないのに、はなっから結論と課題を言及するようで申し訳ないが、これが最前線だということだ。慈悲の問題と他者の問題が残っているという認識なのだ。

 

慈悲の問題は、何よりも実践的な解決であるから、実践されればいいわけだけれど、位置づけが難しいという。困難な問題は他者の場合だ。

これまで、仏教への明確な〈私〉論の導入が、新たな解釈というよもりも、これまで曖昧にされてきた部分が明確に仕分けることができるということである。それは〈私〉論(=独在論的存在構造)が画期的だということだ。この論を適用することで、明確に仏教の輪郭を浮かび上がらせることができる。

どこまで、永井哲学を理解しているのか分からないけれど、私の理解した〈私〉論でやっていくしかないだろう。永井の〈私〉論自体が、まだまだ変化しそうであるし、進化していきそうであるから。

この①②の課題に向かうヒントとして、次のような議論が提示されている。

 同じ質問者の一つ前の質問が、哲学的に見ればより重要だろう。それは、〈私〉が客観的世界やその内部にいる「私」を観察したり、(そのことによって)影響を与えたりすることが、どうして(あるいはそもそも)可能なのか、という問いであった。〈私〉が、実在世界(娑婆世間)に対する無関与(無寄与)的な存在者であるかぎり、それは不可能であるはずではないか、という疑問である。(『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ』p-280)

これに対して、〈私〉と「私」との間を実際的に存在するものとの間の普通の意味で扱うべきでないと答えておいて、それに対する二種の答えを提示している。その前に、どいう質問だったかを話しておかないとわからないだろう。質問はこうだった。

 

―今日は〈 〉と「 」の話に終始して、《 》の話が出なかったですね。一照さんや良道さんが問題にされていた、慈悲がどこから出てくるのかというのは、比類なき〈私〉が、他にありえるかもしれない比類なき《私》を想像することで出てくるのではないか思っていたのですが、永井さんはどう考えられますか。(『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ』p-261)

 

このような質問だった。それに、その場ではなくのちの「鼎談の後に」で次のように述べている。それは問題なく可能であるとするが、じつのところそれは、〈私〉という事実に気づいた「私」が、気づいたその事実を利用して、それとは無関係に実在している自分の心の内容をそういうものとして観察する、という心理的事実であるとした。もう一つ考えられるのは、そうではなく、じつのところはもともと(=普段でも)〈私〉だけが、この世界の外からこの世界を観察しそこに影響与えうる唯一の存在なのだが、瞑想的実践においては、通常はそこに躔わる夾雑物がすべて削ぎ落され、その事実そのものが剥き出しで明るみに出されるのだ、というのだとする。というものである。

これはいったい何を言っているのであろうか? 

これは〈私〉と「私」は二重化されているので、どちが起こっているのかは誰にもわからないのだとしている。確かにどこからどこまでが〈私〉であってどこからどこまでが「私」なのかは判然としない。ただ概念的に分けてみる事はできるが、明確に線引きされているわけではないことがわかるし、そもそもこの二つの位相が違うというか、そこを支配しているルールが違うわけで、明確に分別できはしないのではないか。しかし、〈私〉が外部世界に影響を与えるそれこそ唯一の存在なのだということは、確認できる。「私」の理屈つけはやはり後付けなのだろう。

 

この議論に哲学的にもっとふかく立ち向かうような能力は無いので、他者といったときの〈私〉にとっての他者は何者なのかということを示唆するような絵本を紹介してみたい。

これもブログにしているのでそれを引用してみよう。

 

 

『他者とは誰か ある絵本をめぐって』

 

note.comで「霊的開眼への前哨」や「仏教に〈私〉論を導入する」でのべた、〈私〉という存在について考えていたおり、ある絵本に出会って、これで少しは説明することができるかもしれないと考えたことがあったので、ブログにしてみた。

 

それは、京極夏彦作・町田尚子絵・東雅夫編『いるの いないの』(岩崎書店)である。「怪談えほん」と題するシリーズで、そのうちの一冊ということである。もうすこし説明すると、編者東雅夫は「幼いころから怪談に親しむことによって、子どもたちは豊かな想像力を養い、想定外の事態に直面しても平静さを保てる強い心を育み、さらに命の尊さや他者を傷つけることの恐ろしさといった、人として大切なことのイロハを自然に身につけていくのです」と述べている。

 

ここで、試みようとするのはもちろん怪談ではないのだが、〈私〉なるものが、実在はしないけれど存在するのでので、ある意味幽霊のようなものであるので、そこは通底するかもしれない。もちろんうがった見方だけれども。

 

内容は、おばあちゃんの住む田舎の大きな家にしばらく暮らすことになった「ぼく」が家の暗がりが気になってしかたがないという物語だ。

その家はとても古い家で、天井は高くて、ふとい梁が走っている。そして暗い、昔の電球電燈がさがっていて、明かり窓もあるので、下は明るいけれど、天井はうんと暗い。

「ぼく」はうえの方が気になってしかたがない。ある日「ぼく」が梁のうえをみていたら、そこに「おこった おとこの かおがあった」こわい顔だ。じっと下をみている。

「ぼく」はおばあちゃんにきく「あそこの てんじょうの はりのところに だれかいるよ」

「みたのかい じゃあいるんだね」

「あれはだれ?」

「さあ しらないよ」

相手にしてもらえなかった。

「うえを みなければ こわくないよ」

「みなければ いなくなるの?」

「さあ みないから いるか いないのか わからないよ」

「なにも しないの」

「しないよ。 だって あんなに たかいしね。みなければ いないのと おんなじだ」

でも、いるかもしれない、いないかもしれないとおびえている。

やたらとネコの多い家だった。

 

この絵本、普通は「ぼく」=「私」が田舎の家にやってきて、その異和感から、何かが天井にいるという思いから「おとこのかお」をみたという怪談話となるのだろう。まさしく怪談の絵本として紹介されている。でもオドロオドロしい怪物や幽霊が登場するわけではない。「ぼく」が心の中でつくりあげた「こわいかお」がみえるというものだ。

ぼく=「私」という作り上げてきた私が、何かわからない他者を発見するということでもある。この他者を〈私〉の発見と考えれば、それは「みたのかい。 じゃあ いるんだね」ということで、みてしまったために〈私〉を発見したともとれるし、逆に全くの他者=自分ではない存在、を見つけたのかもしれない。でも「みなければ いないと おんなじだ」によって、知ろうとしなければ、〈私〉などに気づきはしない。おばあちゃんは「みないから いるか いないか わからないよ」と答えている。「ぼく」だけが気づいたのだろうか。

そんな怪談だとしたら、これは巷にある怪談話であることにちがいない。この娑婆世間の感覚で、田舎の家にやってきた(おそらく都会っ子)「ぼく」が異界に接して、本当にいるかもしれない幽霊ないし怪異に出会う恐ろしさを描いているというものだろう。

 

しかし、この構図を逆転してこの「ぼく」=「私」を〈私〉だと置き換えてみたらどうだろうか。そもそも、「ぼく」は〈私〉のことだったとすればどうだろうか。

 

たしかに、「おとこ」は天井にいるのかどうかわからないが、居るらしい。そうすると、これは〈私〉論における他者ではないだろうかという設問になる。

「他人」なら私たちはよく知っている。この娑婆世間で鍛えられたカテゴリーでとらえている。あいつは本当はそうじゃないかもしれないが、こういう男だとよく知っている。こういう女だと知っている。ああいうやつは気をつけろ。反対にあいつは良い奴だ。しかし、〈私〉からみれば、よく知っている男は女は、本当のところはまったく知らない。そもそもそんな他者がいるの? いないの? ということだろう。〈私〉にとっては〈私〉しか居ないのであるから。

 

〈私〉だとわかるのは、絵本の出だしからして、暗いし、おばあちゃんが素気ない。こわがらなくてもいいよとも言ってくれない。「私」の世界ではなさそうだ。なんだか存在感が薄い。そして、やたらとネコが多い。

怪談・怪異のでる世界は「私」だけではいられない。そもそも何がたしかなものかがぐらつくからだ。それは心象風景として、自分でつくりだしている半面、身体は忠実にそれにしたがってくれる。にげだせば、逃げ出してくれるし、体の震もやってくる。また、「私」の気をひくように、寒気さえ起こさせてくれる。また、何かが自分の知っている世界とは違う世界があると垣間みさせてくれる。

他者とは、そういうものではないのではないだろうか。居ると思えばいるし、居ないと思えばいない。しかし、おそらくいるのだろうということだ。

エマニュエル・レヴィナス流に言うならば、〈私〉の存在とともに他者は同時に存在しているということだろうか。つまり〈私〉と他者はセットになっているというか、すでに存在は前提になっているということではないか。レヴィナスの場合は実在する私と他者だったけれど、〈私〉においても、〈私〉に気づいた時にはすでに他者も同在しているのだろう。

 

そんな風に読み返してみると、気になるのがネコたちだ。

あまりに、そこここに多くいる。7~8匹ないし10匹近くが出てくるのではないか。〈私〉論におけるネコとは何だろうか。そして、おばあちゃんは誰?

ここしばらく、永井均・森岡正博『〈私〉をめぐる対決』(明石書店)に接して、永井が昔の著作はどうでもいい、近著『世界の独在論的存在構造』を読んでくれと言っているので、読み返してみた。読めば読むほど朦朧としてきて、とらえたかなと思うと、〈私〉論が手からこぼれていくようなので、ともかく私(佐藤守徳)のとらえた〈私〉なるものから考えるななら、このように読解できたということだ。

 冒頭にもどって、東雅夫の言うように怪談ではなく、〈私〉を知ることによって、想定外の事態に直面しても平静を保てる心をはぐくむことができるかどうかわからないけれど、たしかにその効果はありそうな気がする。日頃あくせくしている「私」ではない〈私〉がいるのだというのは救いになる。


京極夏彦作町田尚子絵東雅夫編『いるの いないの』(岩崎書店)

 

 

こういう、ブログであったが、要は「私」を〈私〉と入れ替えてみたら、どう読めるかということだった。そこにいる他者は、「いる」とも「いない」とも言えないもので、どうもいるらしいということで、〈私〉の発現と同時にセットされている。でも本当のところはわからない。

その他者への慈悲は可能か? と問われれば基本は〈私〉→「私」への慈悲であり、〈私〉→他者への慈悲なのだろう。逆転して、「私」から〈私〉への慈悲もありうるが、それを慈悲と呼べるかどうかはわからない。

気がついたらそこにいたという生(なま)の私=〈私〉は決して身体だけではないし、またそののち周りにたくさんいる私の中の一人としての私でもない。そこはやはり判別がつきにくいといえる。「ぼく」だって〈私〉でもあり「私」でもあったのだ。

ともかく、そんな私論の導入がこそがカギだと見る筆者からは、仏教の展開もそこがカギだったのではないかと見ている。すなわちそのまま霊的開眼のことにも関係しているのだ。

 

そのような視点から、永井均の「内山哲学は仏教を超える」を見ていきたい。

本論は次のような議論から成り立っている。

①   私秘性と独在論とは似ているようで違うということ。

②   完全平板化(無になること)と完全突出化(全になること)の二種類が考えられる。

③   (妄想―現実)解釈と(娑婆―涅槃)解釈。

④   第四図と第五図は完全に同じであるとする4.5図の提示。

⑤   没入から見物人(超自然的問題、つまり科学では説明がつかないということ)

⑥   世界を理解していくことが、言語的世界把握の仕組みをつかっているのだとするカントの超越論的存在論ではなく、「〈私〉は言語によって与えられたカテゴリーを使って、世界を理解していくのだろうと思います」( 276ページ)と述べていること

⑦   道徳は執着するものではないという認識の文言に触れて終わる。

 

まず、①の私秘性と独在論の違いから入っていこう。この二つの概念の理解がまず先決であって、この概念がわからないと先へ進めない。

私秘性というのは次のように語られている。私秘性というのは、要するに、他人の感じていることは感じられないということだ。他人の思っていることがわからない、というのも入れてもいいけれど、厳密に言うと、それは少し違うという。自分独自の感覚は言語でもってしても伝わらないし、極端な話、私の神経を他者の神経と繋いでも伝わる事は無いのだ。禅家特有の剛直な例えとして、「屛いっぱつでさえも貸し借りはできない」と表現されている事態のことを指している。やりとりできないだけではなく、およそ伝えることはできないという意味を含んでいる。このことは逆に思考や思想は言語によって伝えることができるという事であるが、感覚は言語では伝えられないのだということを意味している。

これに対して独在論というのは、私秘性と似ているようだが全く違う話だという。ポイントは、私一人しか識別できなくて、他人相互の事は全くわからないし、そういう仕方で識別される私というものが、今は存在しているということなのだ。ここが一番わかりにくいところかもしれないが、(A)私を見間違うことがないのが私であり、(B)今ということが入ってくる。今ここで、意識している私のことだ。その独在性というのは、その私が世界を開いているのであり、その独在的存在がなくなっても、私秘性が残るということで、ここでも分かりづらいかもしれない。

また、それは超自然的な事実だという。それは科学的には説明のつく問題では無いからだ。脳がどうの、神経がどうのと議論しても、全く説明がつかない。

こういった独特のあり方をしていることが独在性という問題だとする。

この概念の言っていることが、ぴんとくるかというか、腑に落ちるというか、そういう直感がないといつまでもわからないだろうということは容易に想像がつく。現に同じことを方向を変え、また哲学的な位置づけとして思考し、同じことを言い続けているのが、〈私〉論だといっても良いのだ。このことに関しては何度も立ち帰ることになるが、ここはともかく私秘性と独在性の概念は違うのだということを押さえておこう。

 

そして、内山興正は、行き詰まったのではなく、二つをごっちゃにしてしまったために、行き詰まったと錯覚したのだというのが、永井均の見立てだった。決して内山興正は間違ってはいなかったとする。

 

次に②完全平板化(無になること)と完全突出化(全になること)へと入っていこう。

内山興正の『進みとやすらい』という本の中で登場してくる図がある。その第四章「自己の構造」と題する章の中で登場する。第一図から第六図まであって、第四図は二枚ある。元は第一図から説明の地の文を挟んで示されていく。そして第六図で終わりとなるのだが、この図は禅家特有のもので、『十牛図』などと同じように解脱への道筋を描いた一方通行のすごろくのようにも思える。仏教特有のシェーマだけど、これを永井は再配置して、いちページに収め、時計回りと反対方向に組み直して、あたかも、第一図に戻っていくかのように配置している。


藤田一照・山下良道・ネルケ無方・永井均『哲学する仏教』サンガ、2019 p-246

 

この図、そもそもの大意は、第一図から、個人はそれぞれ、私秘性の中に閉じ込められており、お互いにやり取りできない状態に置かれている。しかし、その個々の頭は言葉によって通じ合えると(第二図)、言葉によって通じ合える世界が広がる(第三図)、しかし頭が展開した世界は逃げたり追ったり、グループ(呆け)に分かれて争ったりすると、(第四図)。しかしそこで頭が展開する世界の根本には「わが生命があったのだ」と自覚することによって(第五図)ナマの生命体験をさせる世界が開けてくる(第六図)。それを解脱という

その解脱の過程を説明したはずであるとされるが、この第一図は私秘性のことであり、第六図というのは独在性のことだというのだ。この独在性が実はこの「現在」という時点における話であって、過去にも未来にもない。今、ここで突出して独在していると言う。現在において突出しているのだ。

そして〈私〉というのは、このことをもって、完全平板化と完全突出化という二つの解脱への経路が語られた。

完全平板化(無になる)とは、この〈私〉が消えていくことだった。〈私〉が消えていくには、死ぬかそれとも他の人々と同じようになるということだった。現在において文字通り〈私〉が消えていくという無我だった、と言っている。無我の概念は扱い方が乱暴で、我がないというように捉えているのだ。ここは後ほど述べてみる。また、ただ私が〈私〉が消えるというのは生きている限り不可能だろう。しかし、原理的には考えられる。まったくの痴呆症になるとか、痴呆なって〈私〉はいなくなるかどうかはわからないが、哲学的ゾンビのことを考えればあるのかもしれない。*

 

*最近、熊野宏昭『瞑想と意識の探求』を読んでいて、「言語と意識の深層」と題する柴田保之との対談で、重症心身障害者といわれる方たちも豊かな言語活動をしているという文章にせっして、発話できないからと言って何も考えてない、〈私〉はないとすることはできないということを思い知らされた。

 

 

また、それは忘我の状態というシャーマンのエクスタシーの状態は〈私〉を消失しているのでないではないか。いや、憑依して別のものになっているだけで、〈私〉は消失していないとするのかは、判然としない。

これと反対に、完全突出化は、宇宙大に拡大していき、〈私〉が宇宙そのものと一致するということだった。全てが〈私〉になるということで、この体験は一章で話した、ダンテス・ダイジも霊線となってサハスラーラから地球を超えて銀河系へと出て行くとしているから宇宙へと拡大していく体験に入るのだろう。

そこまで行かなくても、宇宙全体に広がり、支配し、そのものとなっているという感覚は私もつかんだことがある。これは作品「デカルトのなまこあるいは器官なき身体」*で描いたことがある。よく了解している。

 

*拙著『〈気づき〉への驚きを伝える短編集』所収。

 

しかし、私の考えではそれは二つのいずれかではなく、第五図で宇宙大に拡大した〈私〉がナマの生命を生きるということに留まらずに、やはり消えていくものだと思える。それは無我ではなく、実は空なのだということが私の考えだ。(これとは逆に、地球に戻ってくるしかないという論も提出しているが、それは「私」の関与なしには考えられない。)

その議論はともかくも、この完全平板化と完全突出化があるといっているのだが、次の「妄想―現実」と「娑婆―涅槃」の解釈へと問題を引き継ぐために、先の第四図の(a)(b)の解釈を、考察している。そうすると演劇の舞台の中で演劇そのものの世界に入り込んでしまうのは完全平板化であって、そこでは〈私〉は消えている。舞台の世界がそのまま現実となってしまうのだ。そこでは、あり方そのものを外部から反省的に見る視点は欠落しており、演技そのものが現実となってしまう。そのように生きている人も結構いるけれど、役者は、自分が演じているのは〈私〉ではなく、あくまで演技だと知っていることによって、作品世界を演じている外の視点を持っている事は明らかだろう。そうだとすると役者は演技をやりながら演技と見ている視点を持っているという事だ。これは、「やりながら常に見てもいなければならない、これってマインドフルネスということではないんでしょうか」と述べているにまさにそうだと言えるだろう。

第五図は、第四図の世界を演じながらも外から見ている視点だということになりはしないかということだ。演劇の中に並存的世界に没入しているありかたを完全突出した独在論的視点から眺めている、というふうに、と結んこの節を終わっている。

そうだとすると〈私〉はすべての世界であって、その〈私〉からはじまる世界という意識からこの娑婆世界を見ている視点だということになる。この視点は超越的なのだろう。当然のことながら、二分化というか、二つの位相に分かれていることは想像可能になるだろう。

 

 

そこで、③「妄想―現実」解釈と「娑婆―涅槃」解釈に入っていく。ここでの問題点はすでに確認したことに加えて、演劇的解釈である正気に戻るということが、いちばん仏教的と言っていいと思いますが、どうしてそんなふうに言えるのかはやはり問題でしょうと述べている点だ。おそらくそこには涅槃という意味の持っている期待の違いであるがのように考えられるが、そこは明示されていない。ただこの二つの関係は、つまり娑婆―涅槃解釈は、ナーガルジュナの、世俗諦と勝義諦というように二分割して考えているという枠組みに、やはり一致しているのであろうと考えられる。世俗諦と、勝義諦が「私」と〈私〉の関係に一致しているとは言い難いが、スキームとしては近いのではないだろうか。つまり勝義諦=〈私〉論のへの導入として眺めるならば、内山流では「拈自己」になり道元の「仏道をならふといふは、自己をならふ也」にもなるだろう。こう考えればすっきりと理解できる。

そして④に入って、第四図と第五図の間の四・五図が成立するという問題に入っていく。この説は、「第四図と第五図は完全に同じである」と題されているが、完全に同じであるというのは誤解を招く表現で、これは、第四図の中の1人の図が第五図だとするとこうなるとして四・五図を提案している。

 

同書p-271

 

ただし、これは、左の人もその隣の人もその隣の人にも通用するのではないかということも注意しよう。なぜなら、この図は一人だからだ。この一人を独在化して、あなたも一人あなたも一人と次々に適用して図示すれば、それはもう第五図ではなくなってしまうからだ。

なぜなら、第五図は〈私〉だったから、この〈私〉しかいないのであるから、ひとりひとりには適用できない。

もう一つ、完全に同じの意味は、この娑婆世間(第四図)と涅槃(第五図)が同じだということを意味している。引用されている言葉によれば「衆生本来仏になり」ということになる。

 

この読解の延長上に、⑤はあって、没入している人から見物人にかわる。または、覚醒するということを意味するという。確かに、まず霊的開眼とは覚醒のことであったし、娑婆世界に蠢く自己を見つめて、それを見物する次元へと移るということを意味していた。それを超自然的存在に戻るということだと言っているが、それはある意味誤解していたものが元に戻ることであって、そう解釈するなら、宗教上のあらゆる箴言が、本来の自己に戻るというか、覚醒しろとか目を覚ませとかいう語りは了解できるだろう。

そうとわかれば、この視点から特定の人物としてのこいつを眺めることができるようになる。

その眺めた世界がどうなっているのかというと、⑥になるというのだ。

 

それは、コトバによって作り出すと内山は考えたが、それぞれの単語のことではなく、言語的世界把握の仕組みの問題だったという。端的にはカテゴリー化して捉えていくわけで、カントやその系譜の哲学者は、超自然的な私が世界を構成するのだと考えたがそうではなく、実はカテゴリー化して捉えていく中で、おのれ自らもカテゴリー中に入れて、私という、どこにでもいる私のひとりとして捉えていくということになるのだという。このことは、カテゴリーとして捉えたことによって、自分の内部も同じようにカテゴリーとして構成され、私が誕生して〈私〉は失われていく。しかし「私」ととらえることによって、人間としての共通の世界に組み込むことができた。

この仕組みは、お金にも当てはまるといったのはマルクスだったが、言語と貨幣が共通しているとの指摘は、別のルートから知識によって知っていた。これが娑婆世間の成り立ちだけれども、ニーチェの言葉を借りて、⑦「道徳は執着すべきものではない」という説で結ばれている。

 

これは節の冒頭に述べられているように、「娑婆世間に存在する限りでの、在り方の統制的規制として利用すべきもので、あまり執着すべきものではない」と結論づけて終わる。それはニーチェが、道徳を崇めるのも没入するのも病気だといって抉り出しているとしている。永井均には『これがニーチェだ』(講談社現代新書)もあるので、しっかり抉り出しているのだろう。ただし、むやみにどうでもいいという態度をとってとると、不道徳呼ばわりされるので、そういった統制の中で生きているのだという事さえ押さえておけば良いのだろう。

 

以上、このように見てきたのだけれど、重要な点を言い残している。

それはひとつ前の節、「点線はいつも働いている」という節の中にある。それは次のような文章だ

 

ここに戻ることの、何がすごいのかというと、いかなる比較も成り立たない、ということです。ただこれがあるだけ、これが始まりで、これで終わりです。現実に、本当にそうなんですよ。これは単純に本当のことなんです。信仰でもなければ境地でもなくて、単なる事実です。普段は忘却されているその単なる事実に、自覚的になることができるのです。(『哲学する仏教』p-279)


 

ここに戻るというのは、第五図と第六図を解釈するということだ。
それが「これが始まりで、これで終わりだ」と言うことなのだ。このことは第四図的世界の言語に言い換えれば、「ただ生きて死ぬだけ」ということではないか。そもそも生きも死も関係ないので、生きて死ぬだけだというニヒリスティックな言葉を投げかける必要などなくて、不思議でもなんでもなくて、単純な事実なのだということだ。

 

しかし、人はそのことを簡単に承認できないし、納得もできない。了解は可能だとしても、私が生きていることに、何の意味もないし価値がないとはどうしても心につっかえる。

どの宗教も生きていることに価値があって、生の賛歌を解いているじゃないか。宗教だから救済なのであって、死んだほうがいいとは言えない。あの内山興正だって、『拈自己』の巻末で、せっかく人間として生まれて来、生存本能をもって生きている限りは、いかに老いても病んでも、あるいは囚われていても、今日を生きる証(あかし)として、この「生(なま)のいのち」に対し、あたかも右手に左手を合わせて拝むように、今ここ「拝むという生(なま)のいのち」を持ち出して「拝み」、ここに「拝む、拝まれる」が「一つである生(なま)のいのち現成」を覚触しながら生きていきたいと述べているので、生きていることに感謝する、ないしありがたいという感情はそう簡単にはすてきれない。

 

拈自己だから、私のことに特化されるが生に価値を見出している。それは当然そうなのだろうしそれに異存は無い。しかしそれにも増して、本当は、そのものにすら、意味もなければ、価値もないのだという事は、うすうすわかっている。「これが始まりであり、これで終わり」なんだから。確かにそうなんだと直観的にはうなずいている。

そしてこれこそが霊的開眼だった。

この本の中で、そこをさらりと言ってのけている。

仏と言われているのは、「第五図、第六図で描かれている、独在者としての〈私〉と異なるものではないと私は思っています」

仏=〈私〉だったのだ。

そうだとすると、まずは〈私〉を自覚すること、それが修道だということになる。

でも、その先に、生きていることに何の意味も価値もないという事実を突きつけられて、ニヒリズムに陥らないのだろうか? 虚しいという気持ちを抑えられないのではないかという疑問が湧く。湧くというよりも耐え切れないのではないだろうか。

 

永井均は、それに対応して「自分とは何かー存在の孤独な祝祭」という短いエッセイを書いていて、これは『知のスクランブル』という日本大学文理学部が編集したちくま新書の一冊中のエッセイだけど、〈私〉の発見について述べ、存在の孤独な祝祭なのだと述べた。

気がついたときには、もうすでに〈私〉がいて、〈私〉の知らないままに私は終わる。私に気づいたとき宇宙は開闢して、数十年後には消滅する。しかし、その間の期間は祝祭だ、祭りなのだというのだ。

 

「存在の祝祭」と呼ぶと、宗教的なもののように感じる人がいるかもしれないが、そうではない。その証拠に、神様でさえ図1の世界と図2の世界の識別はできない。神様はすべての人間の心の中をお見通しだが、だれが黒塗りであるか、そのいちばん肝心なことだけは知ることができない。つまり、神様にはだれがあなたであるかを識別する能力はない。その能力はあなた一人だけにあるのだ。だから、あなたは神の創造物ではない。識別できないものは創造できないからだ。つまり、この「存在の祝祭」は、他人たちはもちろん神様さえ知ることのできない、孤独な祝祭なのである、という。

 


日本大学文理学部『知のスクランブル』ちくま新書、2017 P-29


 

□、●、△、◇、▽さんといるけれど、なぜか●さんだけが、特殊なあり方をしている。そして●さんだけが自分だと知っている。世界はこんなあり方をしている。もし、そのあり方が、図2のように変化したとしても誰も気づかない。神様だって気づかない。確かに人間に心をあたえたことを神様は知っているだろうけれど、●さんだけが特殊のあり方をしているという事は気づかないと言っているのだ。

ただ「祝祭と言われても… .」と言い篭るもあることは間違いないだろう。俗に腑に落ちるということがあるけれど、その反対にどうしても食道につっかえる。このことは先の課題として残しておこう。また先送りしておこう。なぜそうなのかを探究したい。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?