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直系家族を50%以下に―エマニュエル・トッド『我々はどこからきて、今どこにいるのか?』上下巻

この大著を読み終わって、強く感じることは、やはり日本の未来だろうか?
エマニエルドットはかなり以前からウォッチしているので、その主張は概ね心得ているつもりだ。この著書が、これまでの集大成のような気がするだけでなく、人類の未来を大きな人類学的視点より情況を描いてみせたものとなっている。

これに先立って、この著書を見つけたときの感想をアメーバブログに載せている。それは昨年2022年12月7日付になっている。
その引用からはじめよう。
 

コロナ禍まえだから、三年以上前だろうか、堀茂樹先生がトッドの新著を翻訳しているとおっしゃっていた。
それが、行き詰まって難航しているといううわさがあって、いらいコロナの為に「オイコスの会」もなくなってしまい、お会いすることもなくなってしまった。
今日書店で発見して、いや刊行されたんだと飛びついた。
奥付を見ると初刷りは10月30日とあるので、一か月以上も前のことだったのだとわかった。
うかつと言えば迂闊だけれど、どこにも情報が引っかかってこなかったというのが、逆に不安だ。
原書は2017年の発行とあるので、5年も前のものである。
そこで、「日本の読者へ」から読み始めたけれど、やはり聞きたいのはウクライナ戦争に関する見解だろうか。この戦争の根底に、共同体家族の価値観と核家族の価値観の対立があるとする見解は、まさにエマニュエル・トッドらしいと考えた。単に生産型か消費型かかといった経済構造による違いというよりも下意識ないし無意識なところでの対立になっているというのは、なるほどと思う。政治学や経済学では解けない問題なのだろう。
もし家族構造の問題なら1000年は続く問題だということだ。
根が深い。
ロシアによる昨今のLGBTに対する歴史の方向に逆行するかに見える法案の可決をめぐっても明らかなように、それは家族形態の違いによると理解すればわかりやすいだろう。
例えば、お父さんという男性がいて、お母さんという男性がいて、子どもという養子さんがいて、共同体家族とイメージすることはむつかしくて、やはり核家族だろう。イメージできなくはないけれどイメージしにくいという事によって、LGBTは核家族型の中でしか存在しないのではないだろうか。
別に、ロシアに限らず日本にも杉田水脈みたいなやつもいるのだから、対立していることは間違いがない。
私自身は、どちらの世界に住みたいのかというと混乱があって、判断が遅いとしても、自由でありたいから、民主主義であり、平等型の核家族である方を選びたいと思う。
さて、本文には入って行く。
タイトルは『我々はどこからきて、今どこにいるのか?』だ。
どこにいるのかが重要。

この中で重要なのは、政治・経済用語では、説明しきれないことが人類学的視点を導入すると見えてくるという点だろう。それはトッドの場合は、家族システムという視点だった。明示的には見えない対立が、無意識(これは無と言っていいかどうかわからないので、あまりよくない表現だけれど)ないし、下意識の部分で人々を動かしているということだ。トッドは、そのようなものは、宗教であり、人口であり、教育水準であり、そして家族システムだと言っているのだ。この研究によるソ連の崩壊を予言した事は特に有名だけれど、それだけに止まらずに、1000年単位の人類学的視点の導入は、人類史の現在というひとつの情況論になっている。まさにタイトル通りなのだ。

トッドによる現実の現在的分析は、序章にまとめられている。本の内容紹介なら、他の書評を見ていただきたいので、簡単に触れるが、この後の展開のために必要だろうと思えるあたりを箇条書きにしてみる。
①  重要なのはGDPでは測れないということ。政治・経済だけでは実態は見えてこない。
②  意識ではなく、無意識・下意識の領域も考慮しないといけない。
③  無意識というのは、家族構造もその一端をなしている。
④  ウクライナ戦争は、核家族、共同体家族の対立なのだという事。(下巻でロシアのことを特に「特別」と表現しているが)
生産のロシアか消費の西側かとする対立の中で消費する西側が今後苦しくなっていくだろうということ。
⑤  人口減少は世界中どこでも免れることは難しいということ。
(日本政府は重い腰を上げようとしているが、小手先だけで本気に考えているのか疑問だと思う。減少してもいいんじゃないかと考えている節がある)

以上のようだけれど、本文に入ると「歴史の人類学的ビジョンを提示」という表明がある。そのポイントは、先の家族システムの分析と、その地理的エリアの間と宗教とについてだった。どの宗教かではなく、世俗化の問題、つまり、宗教離れが進んでいくという現象のことだ。個人的な宗教意識ではなく、集団化した教会や教派といった集団宗教から人々は離れていく現象のことだ。もう一つは教育というキーワードで、識字率から学歴重視といったメラトクラシー(能力主義)というワードが入ってくる。
おそらくこれぐらいのワードをメルクマールとして展開されていく。

このエッセイの目的は、やはりそんな人類学的情況の中での日本の未来ということであったから、そこで何を読み取ったのか、何を考えたのかが中心になってくるのはいうまでもない。結局この大著読んでみて、私はどう考えたのか、どう考えが変化したのかということが重要なのだ。
(日本人は、自分たちが褒められることを喜ぶ性癖がある。よって、日本人論は数多い。しかし、そんな能天気なことではなく、もっとシリアスに見つめ詰める必要があるだろう。)

結論から述べると、ちょっと唖然としているというか、それにもまして逆に新たな方向が見えてきているという、相反するような二つの情況認識があることだ。これを何と呼んでいいんだろうか、どうもわからない気分なのだ。
まず唖然としているというのは、直系家族(一般的には、子供のうち、一人普通は長男が相続者として親と同居する)システムに分類されている、日本の社会の直系家族というのが、どうも12世紀の鎌倉時代に始まって、極に達するのが明治維新以後のことであって、天皇家の男子長子相続が規定されたことに極まっているという見解で、それまでの日本人はもっと緩やかな核家族であったこと。そして、それが敗戦によって一気に制度は変換されたが、メンタリティーとしての直系家族が残っているという事だった。
現在においては、すでに実際は核家族で住んでいるのに、メンタルな部分に直系家族色が生き残っているというゾンビ直系家族なのだということだ。遺産相続も法的には子供たちは平等と決まっているので、(遺言がある場合は別)それを実行されても葬儀なのでは、「あなたが長男なんだから、喪主ね」という具合に調子の良い時だけ直系家族が現れてくるようなものだということだ。(ほかには、家を継ぐつ継がないという話が出る時も同じようなもの)。
ところが、そのような分析でいいのかというとそうではなく、直系家族を扱った、ドイツと日本を比較した章(下巻、16章)では、最後にこんな文を残している。

ここに至って、もしかすると、われわれは最終的に、日本は本当に特別な国だという考えを受け容れてよいのかもしれないという気がする

特別な国という意味は、もう一つ明確ではないんだけれど、これをこの章の冒頭にあるコンパクトな日本の状況を述べた記述にある「特殊」ということを意味しているとすると、それは結構曖昧であって「なんだかなぁ」という気がしないでもない。
日本人だって、ホモサピエンスなのだから、同じような原理に当てはまるはずなのに、当てはまっている部分もあるけれど、そうじゃないかもしれないというのがよくわからない。
ともかく少し長いけれど、その部分を引用してみる。
]

率直にいうと、西洋は、日本の異質性とはかなりよく折り合いをつけている。日本は、事の初めの要素である農業と文字を中国文明から引き継いだあと、おおむね自律性を保っている文化なので、西洋と違っているのは当たり前に見えるのだ。第一、日本自身が昔から自ら①特殊性を主張しており、グローバリゼーションに②決定的なやり方で参加していても、ヒロシマとナガサキの悲劇以来、③諸国間のパワ―ゲームに加わることを拒んでいる。日本が担う外交上の役割は取るに足らず、あの国の有するテクノロジーのパワーとはかけ離れている。それでいて、日本経済は国内総生産(GDP)で世界第三位であり、評価基準によっては、テクノロジーの面で第一位だといえる。本書の序章で述べたように、世界特許報告書によれば、二〇〇六年に登録された輸出可能な特許のうち、日本からの登録が二九・.一%を占め、直接の競争相手である米国の二二・一%、ドイツの七・四%を上回っていた。④一九八〇年代には、日本経済の擡頭が米国を多少たじろがせていたのだが、一九九〇年代に日本が慢性的不況に陥った結果、この国への敵意は決定的に失せてしまった。日本の経済的特殊性に「文化主義的」な説明を求める傾向にそこかしこで憤慨する研究者もフランスの大学にはいるようだが、その種の説明は日本人たち自身が主張しているものであるもある。ともあれ、少しばかり「異質」なこの国は、全体としては、⑤独特の文学、漫画、ロボット、料理などによる世界文化へのポジティブな貢献という点で、皆から称賛されている 
(太文字とナンバーは引用者)

このように分析されている。
特殊性という事なら、⑤の引用にあるように、文化の特殊性でもって説明されるものであるのだろうが、それは単なる自己自慢であって、説明にはなっていないだろうという気がする。自己自慢は自己満足にも通じているので、客観性は薄い。


おそらく②③④というところが、特殊なのであって、日本は先の大戦の敗戦によって諸国間のパワーゲームには参加しなくなったのであり、エビのように前に進むのではなくバックしたのだった。バックするだけなら、諸国家の餌食になるので、経済力をつけ、軍事力もそれなりに持っている。しかし、実際上は④にあるように、トップにおどり出た途端、ストップして、そこからさらに上を目指そうとはしなかった。うしろに引いたのだった。停滞という形で。
それは10年になり、20年になり、30年に及ぼうとしている。
かつて私はこの停滞をナンバーワンになると、さてどうしていいか分からなて、戸惑っているのだと理解していた。そこには政治哲学がなく、人類の未来を切り開くビジョンもないというのが、その原因だったろうと思っていた。そこには思想がないと。
しかし、今考えるとそうではなく、単に撤退した衰退した、国ということではなく、②③④という道を選択したのかもしれないと思える。
トッドは記している。

あの国は今日おそらく、世界を征服することよりも、世界から身を引くことを願望しているからだ。(下巻の191ページ)

このような意味で「特別」なのかもしれない。
これを個人に落とし込んでみると、現役のサラリーマンとしては、出世は望まず、だからといって馬鹿にされたくないので、その職にある時だけは立派にこなそうとして頑張る。でも後の事は考えていない。社長だって官僚だってその職責にある時だけ立派な業績を残し、またうまくこなして過ぎてしまえばどうでもいいという無責任な態度となって現れているのだということだ。
このように考えるとよく情況の説明がつくではないか。
しかし、すでに現在となっては停滞はゆるされない。どうにかしないといけないという情況に追い込まれている。いよいよのとこに来ているのだ。これはウクライナの戦争に発する、周辺国のきな臭さから、いずれはやってくると考えられる人口減少のスピードと相まっていることから歪みが拡大している。本当に岐路に日本がやってきていて、どうにかしなければいけない情況に迫られているのだ。

そう考えると、トッドのこの本でじゃあどうするのかというヒントはあるのだろうかという事が問題になる。そこで探してみた。
そうすると上巻の248ページの中に次のような文章があった。

直系家族はダイナミズムを生むのか、それとも社会的硬直性の原因なのかを見分ける際の困難も遠のくだろう。直系家族率が四〇%ないし五〇%であれば、社会はダイナミックに機能するが、それが七五%に達したり、それ以上になったりすると硬直する

この文章に先立つ文章の主語は「直系家族に関するジレンマ」だった。
現在の日本の家族型の状況はどうなのだろうか? おそらく直系家族は50%を少し超えたあたりではなのではないかと思える。それは国政選挙の結果から類推しているのだけれど、その直系家族の中身はおそらくゾンビなのだ。そうだとすると、少し認識を新たにする政策が導入されたら50%を切るのではないだろうか。例えばベーシックインカムとか同性婚を認めるとか少子化対策なのでは。
直系家族が50%をきれば、日本はダイナミックに動き出すはずだということになる。ただし、ゼロになれば良いかというと、そういうわけでもなく、トッドは次のようにも言っているからだ。

直系家族は父系制レベル1であり、過剰な完璧さを持って規範に適合した人類学的典型となってしまわない限り、成長を加速させる力を持っている。(下巻351ページ)

もともと直系家族は伝達・継承のために作られたとされているので、ゼロにする必要は無い。もう少しだけその比率を下げて、核家族でもいいんだとするホモサピエンス本来のスタイルに戻せばいいだけのことだ。
いよいよ先延ばしにしてきた日本の諸問題に結論を出さなければならない情況になってきた時、これはひとつのヒントになるだろう。

しかし、これだけではダメなのであって、トッドが下意識の領域を扱ったように、ホモサピエンスのもつ、もう一つの思考である、身体技法を取り入れる、必要があるのではないかというのが、最近の私の提案だ。これも、下意識と言えば下意識であって、明示された意識上にはなかなか上ってこない。

思考は何も言語思考(シンキング)だけではない。それ以外の直観もあれば、もっとつかみどころのないスピリチュアルな発想ということもある。すべてを混同するわけではないけれど、何らかの身体技法を導入することによって、言語思考によって束縛された停滞から一歩踏み出すことができるかもしれないのだ。

先に1990年代の後退は、日本に思想がなかったからだと書いた。それを乗り切るには、外国には良いものがあって、それを輸入すればいいという考え方の限界なのだと強く感じていた。そして自分たちで考えなければいけないのだということだった。そこで導入しようとしたのが瞑想であり、ヨーガであり、坐禅だったのだが、どうもその停滞はトッドの解釈によると、諸国間のパワーゲームに参加したくないという判断なのだと分析されていた。そうだとすると、この想念も日本人の下意識を作動させるものだろう。そこでの下意識は瞑想の時とよく似ている。この身体的な思考の導入は必要ではないだろうか。トッドは学者だから言葉であるから、言語化しようとして、また言語化しないことには話にならないが、自らの方法を述べた『エマニエル・トッドの思考地図』(筑摩書房)では、その発想法を語っていて、その中であのソ連崩壊の着想のアイデアが、安定した生活の時ではなく、のっぴきならない、恋愛中の時だったことを告白している。恋愛中の時は、心は不安定であって、揺れていたから、思わぬ発想が生まれるのだと、思考の生理について語っていた。この方法もまた、言語思想だけではない思考の示唆となっているだろう。そのような方法を導入しないといけないと考えたのだった。
でも、このことは研究者にはほとんど相手にしてもらえない。でも、本人たちは本人たちなりにそんな特別な技法を隠し持っていて、言語思想にたけた人ほどスピリチュアルであるのだが、決して公言はしない。学者生命にかかわるから。しかし、身体技法の導入は必要であると考えているのだ。

ところで最後にエマニエル・トッドは知る人ぞ知る、日本に核保有を薦める核保有論者だ。先日、日本に来日した時(2022年10月)TV番組に呼ばれて、日本の核保有について言及した途端、あの橋下徹でさえ、うろたえてそそくさと番組を終了させてしまったとある経済アナリストの先生からお聞きした。私自身はその番組を見ていたわけでは無いのだけれど、それほどまでにまだまだ日本中には核アレルギーが充満しているのだ。充満というよりマスコミ自体が一般世間ではそうでもないのにタブー視しているんだとも言える。
そんなトッドの核保有のすすめという主張はすでに古くから、私自身は知っていて、初めて聞いた時はぎょっとしたのだけれど、今ではそうだ、その通りだと考えるようになった。言い出したのは『帝国以後』(藤原書店)の発表前後ではないかと思うが、何度かその主張は聞いている。親日家にして知日家のトッドの見解は、悪意のあるものではなく、本当に日本のことを心配してくれている発言なんだということがわかる。

近著である『老人支配国家 日本の危機』(文春新書2021)にも2018年7月「文藝春秋」に発表した「日本は核を持つべきだ」を収録している。わかりやすく、そして簡潔に述べられている。
それによるといくつかの論点があるが、重要な点は日本は米国の核の傘の下にあるというのは、幻想で核兵器というのは、通常の兵器とは違い、自国を防衛するためにだけ使われるものであって、日本が攻撃されても米国は使わないということだ。そしてもう一つは核保有は、あらゆる戦争の終了を意味するということだろう。核兵器は使えないという事だ。

核保有の提案をした当時を振り返って、トッドは、当時の日本の反応は「『日本も核を持ってもいい』などと発言するとは、なかなか感じの良い西洋人だなあ。しかし、現実には日本の核保有などあり得ない! 問題外だ!」(58ページ)というものでしたという感想を書き残している。おそらく現在でも大方は違わないだろうし、マスコミはこれ一辺倒であり、発言するとアレルギー反応が起こってくる。
しかし、専守防衛というのならこれが1番早くて安くつく。現在議論され始めようとしている、敵地攻撃能力の保有よりも、そもそも攻撃されないのであるから安全だし、安くつく。そう考えるのだけれど、先に述べたような反応はまだまだある。

一方日本は核兵器禁止条約には不参加するものの、核兵器廃絶の決議案を国連会議に提出していて採択されている。その共同提案国に米国も含まれているので、核保有国も入っているのだ。紛らわしいけれど、核兵器の禁止条約には入らないが、核廃絶を願っているというのが、日本の現在政府のスタンスだろう。おそらく国民の意識も同じようなものだろう。

そうすると核廃絶と核保有は矛盾するんじゃないかという批判が出てくる。そのジレンマにあるわけだ。しかし、日本人としての本音を言わせてもらえば、どちらかの主張に傾くかというより、むしろ、両方欲しいんだと言えるのではないだろうか。
正直に言うと核保有して安全を保ち、それから核廃絶を願うというのがあってもいいんじゃないか? と言うことだ。すでに米国だって表面上はその姿勢なのだから。(実現されるかどうかは別だけど。)
自立して核保有すべきだと考えている。
(むろん、集団安全保障がネックになるだろうし、なによりも米国が承認しないと現状ではいささかも進めないのだけれど)

これほどの思考へのダイナミックに立ち入ることができれば、日本は再生するだろう。言語思想的論理に囚われず、本質をつかむことだろう。

核兵器保有はともかく、日本の未来の処方箋は直系家族を少なくとも50パーセン以下にすることだと思う。その正体はゾンビなのであるから。

追記
先日、岸田首相が国会での同性婚の問題を問われて、同性婚をみとめたら「家族観や価値観、社会が変わってしまう」と発言した。
おそらく、自民党内の右派への配慮なのだろうが、ここにゾンビ直系家族の最後のあがきを見るのは私だけだろうか。

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