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「犀の角のようにただ独り歩め」のインパクト―スマナサーラ『スッタニパータ「犀の経典」を読む』

遠い昔、初めて中村元訳の『ブッダのことば』(岩波文庫)で、第1章3経に出会ったときのことは忘れられない。今では赤茶けたページに書き込みがある。線が引いてある。ほとんど仏教への教養がなかった当時の私には、なんと「かったるい」議論をしているんだろうという気持ちで読み出して、この経典に出会って「犀の角のようにただ独り歩め」というリフレインが強く印象に残った。
現代詩にも通じるようなリフレインによって、次第に、高揚と立ち上っていくかのような偈の数を追いかけるうちに、そうだ、独りで前進するのだという強い気持ちにさせられたものであった。

また、その時代には、思想的に自立するのだという「自立の思想」にもはまっていて、それが妙に共鳴しあって、その印象を増幅していったのだと思う。

意味もよくわかっていないのに、ただ酔いしれていたのかもしれない。しかし、この文言の威力は強烈で、そこから自分ひとりで考えるんだという決意は、すべてのあらゆる面で苦しみを与えてきたことは間違いがない。すべて自分で判断するというのは苦しいことだ。苦しかったというより辛かったというのが本当のところだ。全てにおいて自分で考えるという事なんて、とんでもない事なのだけれど、例えば思想においても誰の思想でもなくオリジナルのものを求めているものだから、そんなものがすぐに手に入ることもなく、ただひたすら迷路に迷い込んでいたかのごとく彷徨していたと思う。

すべては、この経典のせいだったのだ。そこから抜け出してなんとなく方向が見えだしたのは30代も半ばを過ぎたあたりだったろうか。それからがまた大変で形を成すまでにそれから30年が過ぎた。それが何とか語り出せるようになるには、すでに還暦はとっくの昔に過ぎていた。本当に微々たる歩であって、情けない限りであるけれど、私はこの試みを生涯探求していくつもりだ。

そんな探求への出発点にあって、今も内容とは関係なく、心の底で響いている犀の角のように、ただ独り歩めというリフレインが、我がモットーのように脳裏から離れない。
そんな時、再生サンガ新社さんが犀の経典の本を出すというので、懐かしさもあって、早速注文しておいた。

読み始めて「あ~やっぱりか」という思いに気づいた。それは、いつも通りのステレオタイプの文言が並んでいるのだった。期待した私が軽率だったのであり、愚かであったのだ。
スマナサーラについては、本ブログでも「スマナサーラ『般若心境は間違い?』辛口の批判」で書評として揶揄している。明確に反論しているわけではないが、褒めてもいない。

https://note.com/sodou2021new/n/n58b114423e23

 そういう事情から、これは書評ではなく、反書評であるのだろう。帯にあるような宮崎哲弥氏推薦のように持ち上げる事はほとんどできない。否「犀の経典」のことではない。この本のことだ。

「犀の経典」そのものは、沙門(シュラマナ)という生き方を目指した人への忠告になっているので、出家主義ではない人には、その心は伝わらない。だから、それを世俗的に置き換えても仕方がないのであるが、平安を得たいなら出家しろというのは、世俗の世界で生きる一般人にとって説得力は無い。むしろ、宗教だからこそ、できもしないことを厳しく言ってくるのだと理解されてしまう。宗教の方法論はいつもこの手を使う。少なくとも、私ははじめて読んだときにはそう理解した。

それを経典にあるがままを、延長して、この現代に持ち込んだのでは、説得力は無い。

テーラワーダのように出家するならともかく、出家しないなら、それはいくらステレオタイプの解釈を持ち出されても説得力は無い。現代人のというより、この現在の日本人の実存に迫ることはできないだろう。そんな気楽なところに実存は無いのだ。

そんなことを言っても詮ないことだけれど、少しだけ述べておくことにしよう。

「「犀の経典」の読み方」と題する一文が冒頭にある。そのスタートは「幻覚から目覚めるー好ましいものには裏がある」だ。

幻覚から目覚めること。これが「犀の経典」の一貫したテーマです。幻覚というのは、「この世はなんとありがたいことか」「楽しみにあふれているのではないか」といった、我々がいだく実感のことです。家族がいたり、子供がいたり、友達がいたり、お金や財産があったり、美味しいご飯があったり、お金があれば世界旅行をしたり、楽しめることがたくさんあったりして、世界は好ましいものばかりである。自分にとっては、好ましいものがたくさんあるのに、なかなかすべて使うことはできないから残念、という感じで生きているのです。「お金ならいくらあってもいい」「友達ならいくらでもいい」「いくら大きな家でも大丈夫だ」「車なら何台あってもいい」「できればプライベートジェット機でも買いたい」「世界一のお金持ちになって何が悪いのか」と我々は考えています。しかし、それらは幻覚である、好ましいものには必ず裏があるのだ、ということなのです。

何の裏があるのだろう。「楽しみにあふれているのではないか」お金持ちになってはいけないのだろうか。それらは全て幻覚だというのだ。そしてそんなおいしい話には裏があると。どんな裏があると言うのだろう。幻覚を定義して「「この世はなんとありがたいことか」「楽しみにあふれているのではないか」といった、我々がいだく実感のことです」と述べている。
この実感が幻覚だというのだ。そこに宗教へ導く仕掛けがあるのだろうと考えるのは、先にも述べたように、いちばん引っかかる点だろう。それはスマナサーラもよくわかっていて、誤解するなと言う。これは一般人に向けたものではなく、修行者に向けた手本であると言い訳している。しかし、あれだけみそくそに執着するなと述べながら、言い訳するなら、どっちなんだと言いたいくらいだ。

でも、このパターンはこの本のなかではオンパレードで何度も登場してくる。この後にも、あるお金持ちが忙しくて寝る時間が1時間半もないとこぼしているというエピソードを持ち出してくる。何のために生きてるのか分からなくなってしまうと想像を働かせている。ご心配なく。この愚痴をこぼしている金持ちは、自慢しているのであって、嘆いているわけではないのだ。本心は喜々として楽しんでいるのだ。全国を飛び回ってビジネスに精を出して、充実感を味わっているのだ。そんなに働いても虚しいのでしょうかなんて事は考えてもいない。
人生は苦ではないし、生きるに値しないものでもない。人生は楽しい。チベット仏教僧ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェも言っているではないか「The Joy of Living」(邦訳『今、ここを生きる』のタイトル)って。

この種の反応は既に予想していて、「「犀の経典」を読むと、俗世間の人々が激しい拒絶反応起こす恐れもあります」とある。『スッタニパータ』は一般の経典とは違い、修行者の手本マニアルのなのだというのはここにある。おそらくそれは出家主義という生き方にあると思える。そこから犀の経典への文言が出家という前提にあるからであって、この出家主義によらない悟りないし、解脱(私の言葉で言えば、霊的開眼)の方法は無いかというのが、私のライフワークとなっていた。出家せずに解脱にいたらないと在家は救われないことになってしまう。

個人的には、救いなんてものはないと結論づけているので、そこは言い方が矛盾しているが、救われたいと思っている人に救いはないというのは酷だから、救いはあるよと言っておこう。
このことを執拗に探求してきたのだと思う。

それを私は「〈私〉の発見だ」と発見した。その発見は、何もなくて発見されるのではなくて、やはり瞑想を伴う。そこにはお釈迦様と同じ瞑想という修行と同じくするわけだけれど、出家する必要は無い。なぜなら、聖と俗は切り離されているからであり、聖なるものだけが大切なもの貴重なものではなく、俗も大切なのだ。聖も俗も大事であり、侮ってはいけないのだ。宗教の文言は、いつも俗から、聖への文言に満ちて溢れていて、その逆というものがない。聖から俗へ戻ってくるには、聖を否定するしかないので、人生は苦じゃないと言って見せたり、安寧や安らぎを与えてくれるというと、そんなものはないと言ってみせるのだ。

しかし、それもこれも言語世界のことであって、実際の事態としては、瞑想の中で言葉を超えているのであるから、体験してみないことにはわからない。しかし〈私〉をこれだと発見できれば、俗世間の事は相対化できるし、逆に聖から俗へ戻ってくることができる。その時は明らかに以前と違う対応を俗世間の中ですることになるだろう。

それにもましても、このリフレインはインパクトがあって、長らく生き続けていくだろう。でも、考えてみると自意識過剰で、モダニスト的かもしれない。
 


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