ペットのお葬式

実家にいる愛猫が亡くなった。16歳だった。

出会いは先に飼っていた犬を父が散歩中、小雨の降る道の端っこに、大人の拳大くらいの黒い固まりが落ちていた。それを犬がしつこく嗅ごうとするので、よく見ると子猫だった。
生きてはいるが、このままでは危ない。周りを見回るが他の子猫や親らしき猫はいない。カラスにつままれて来たんだろうか?

父はまだ未使用だった犬のうんちバッグにそっと子猫を入れ、連れて帰ってきた。犬は大喜びの大興奮。母は「うちでは飼えないよ…」と里親が見つかるまでのお世話だと言った。私のその時の感情はあまり覚えていない。ただ弱々しかったので元気になってほしい、と思っていた。

翌日は平日で、学校から帰ると子猫は「しずく」と名付けられていた。当時中二病真っ盛りの私は毎晩ジブリの『耳をすませば』をフルで観て泣いていた。怖い。主人公の名前からとって、「将来自分の子どもにはしずくと名付ける」などほざいていた。それからとって、母は子猫に「しずく」と名付けた。なんで?

そしてなんとなくあった予想通り、しずくはそのままうちの子になった。先住犬がいる間は、しずくは主張が弱めで大人しい性格だと思っていたが、3年前に犬が亡くなってからは、めちゃくちゃ甘える子になった。歳をとったことで少しわがままになったのもあるかもしれないが、ずっと我慢してきた部分があるのかもな、と家族で話していた。

もともと肝臓の値が悪く、若い時にもしばらく飲み食いできず激痩せしたこともあったが、奇跡の復活を果たしてきた。
しかしもう立派なおばあちゃん。寝ていることが増え、去年の秋にも久しぶりに飲み食いできず弱ったときがあった。私は結婚後もちょこちょこしずくに会いに帰省していたが、このときは夫の転勤で遠方に引っ越していた。が、最期かもしれない、と思い帰った。弱ってはいたが少し回復傾向にあり、私の膝の上にも自ら乗りニャンモナイト姿ですうすう寝てくれた。後ろ髪を引かれつつ帰ったが、その後全快したとのことでほっとした。

お正月は夫と一緒に帰った。元気だが小さく小さくなっていて、ほとんど寝ていた。こたつに入って香箱座りをするしずくに、本当にこれが最期かもしれないと思いつつ、頭を撫でて「帰るね、バイバイ」と言った。

それから約2週間後、母に見守られながら亡くなった。一人の時でなくて本当に良かった。もともとその前日から体調が悪く、母は仕事を休んでいて、父は早退きしてきたが30分間に合わなかった。
高齢だから体のあちこちが衰えていたし、痛むところもあったかもしれないが、最後まで毛艶はよくさらさらのふわふわで、すごく苦しんだりすることなく逝った。犬は最後の半年間、立ちたいのに立てなくなり、認知症の傾向もあり、犬本人も、介護する人間も辛かった。特に母が苦しんでいた。当時の家庭はなかなか混沌としていた。
苦しむことがだめなことでは決してない。けれど、やはり本人が辛そうなのは少ない方が良い。その点で、良かった、と思った。

翌日の昼過ぎにペット霊園で火葬の予定だったので、昼に着くよう家を出た。よりによってべちゃべちゃタイプの吹雪。まだ雪国素人の私は雪を吸水するタイプのコートを着てきてしまい凍えた。駅までのバスも大渋滞だったが、なんとか発車1分前に乗車できた。

到着駅まで車で迎えに来てもらい、そのあしで霊園へ。後部座席の右側には硬くなったしずく。ピンクのお花に囲まれ、しずくが気に入ってしまったからあげた私のひざ掛けに包まれていた。涙が止まらない。
苦しまなくて良かった、長生きもしてくれて良かった、本当にそう思うが、同時にどうしても寂しい、悲しい。両親とともに鼻をすすりながら霊園に到着した。少し早かったので買ってきてくれていたお茶とおにぎりを駐車場の車中で食べた。ふわふわの可愛い子を撫でながら。

時間が来て、丁寧に案内された。悲しみに暮れながらも、ペットの葬儀は人間とはまた違う配慮が必要なんだろうな、と担当してくれた女性スタッフさんを見ていた。
真っ白な部屋の中で、火葬用の箱に移動させて、お花を綺麗に並べて、最後のお別れ。この姿が見られなくなるのが本当に辛い。信じられない。でもこのまま置いておく方が現実的じゃないしかわいそう。しずくのために、ちゃんとお別れをしてあげないといけない。そんなことを考えていたと思う。ありがとう、と何度も言った。

火葬中は待合室に案内された。そこは待合室兼納骨堂になっていて、壁一面のたくさんのショーケースの中にそれぞれお骨と写真、おやつ、お花、おもちゃ等々、ラブリーに飾られたペット達が眠っている。大きいケースには数頭一緒に入っているところもあって、代々ここに納骨されているようだった。みんなメッセージには「○○ちゃん、ありがとう」と書かれている。やっぱり一番はありがとうと思うよね。
展示されている骨壷と骨壷カバーも決め、他の子たちの写真等も見せてもらい、置いてある新聞を読んでいる間に、スタッフさんが来て精算、後にまた案内されてお骨拾いへ。

猫の額は小さいというが、体が小柄な割には広かった。何度も何度も撫でたおでこ。おでこを撫でられるのが好きな子だった。気持ちよさそうにマズルを膨らませる顔が思い出される。また号泣しながら、小さな骨壷に納まった。
悲しいけど、お骨になったのを見てなんだかほっとした気持ちもあった。寂しいけれど、ちゃんと見送れた。これで魂はずっとそばにある、となんだか文字にするとスピなことを自然と感じていた。

うちは納骨せず、私がだっこしながら実家へ連れ帰った。リビングの一角にある犬の骨壷とちょこんと並ぶ。犬の時のお葬式のことも思い出す。
ああ、家族が亡くなるのは本当に辛い。でもみんなあの納骨堂のショーケースのように、または自宅で、あるいは心の中で、それぞれの方法で乗り越えて生きている。なんて辛い。そしてなんて愛おしい、動物。

家族には違いないけれど、ペットが死ぬことはやっぱり人間とは違う気がする。長く一緒にいると通じると感じるけれど、言葉が違うから「こう思ってるかな?」とパターンからの予想、あるいは何パーセントかは人間の希望も含めて関わるしかない。
けれど、言葉が違うからこそ、複雑なやり取りがなくストレートに付き合える。好きなものは好き、嫌なものは嫌。今は嫌。今がいい。そういうストレートさが人間が動物から受け取る癒しなのかもしれない。

約3年前、私が結婚して実家を出ていく前夜、しずくが私が寝ている布団に入ってきた。それは珍しいことではなかったけれど、その日はなんと自ら腕枕されていた。いつもは横腹や足元にひっついて丸まっていたが、私の脇に入りこみ、ツチノコのように体を伸ばし、顎を私の肩に乗せていた。可愛すぎて、ごめんねと言いながら暗闇の中写真を撮りまくった。フラッシュに眩しそうにしながらも逃げず、その夜は顔を突き合わせながら寝た。
前々から「この日に引っ越すね」「またすぐ会いに来るからね」と言い聞かせてはいた。翌朝私が出て行く時、親にだっこされ無理やり手を振らされていたしずく。朝日が眩しいのか口は真一文字で目付きが悪かったが、なんだかわかっているような顔だった、気がする。

以降ちょこちょこ帰ってくる私に会う度、静かにびっくりしたり、また来たかと一瞥したり、色んな顔で出迎えてくれた。ありがとうしずく。また会おう。

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