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違いを認め合うための思考

当たり前なことを主張する理由わけ

みんな違うのは当たり前。

だけど
違いを認め合う社会が必要だ。
と主張する熱は
違いを認めない思想が社会にある!
という社会に向けた怒りがあるから。

しかし実は
違いを認めない思想は
自分の信念だったりする。

その思想のせいで社会がそう見える。
そう社会認知させている。

.....どういうこと?

みんな違うのは当たり前。
わかっているけど、一方で
自分の個性に良し悪しつける。

自分をまるごと愛せない。
部分を認めて、部分をいなむ。
だから
他者との違いを認められない。

違いを認め合う社会が必要だ。
そう思いつつも
何もかも自分勝手ではいけない、
それじゃ社会が滅茶苦茶になる。
それもわかっている。

違いを認め合う社会が必要だ。
そう思いつつも
他者と同じことを喜ぶ自分もいる。

目立った個性を嘲笑あざわらう。
徒党を組んで後ろ指を指す。
徒党を組んで個性を嘲笑あざわらう。
世界はそういうものだと思ってる。

同じ基準で自分を嘲笑あざわらう。
同時に自分が嘲笑あざわらわれる。
嘲笑あざわらわれて押しつぶされる
その無力感が怒りの源

違いを認め合う社会が必要だ。
どうしてそんなに強く言う?
自分に潜む矛盾を感づいている。

その矛盾を解決できなくて無力。
どうしたらいいかわからない。
無力感は自分に向けた怒りの源。
違いを正当化したくて強く言う。

…では、どうしたらいいのか?

本当は、
違いを認め合う前にやることがある。

同じことを認め合う必要があること。
それが先。

なにが同じか?

それは
趣味とか能力とかではない。
地位とか財産でもない。
そんなチッポケな尺度で
人を測ってはいけない。

というか、そもそも
人を測ってはいけない。

では、なにが同じだと認めるのか?
それはこれ。

いま生きているけど、いずれ死ぬこと。
先人のおかげで今があること。

これだけ。
互いに認めるのはこれだけでいい。

誰もが逃れようのない現実。
その現実を共に理解していること。
同じなのは共通認識。
それに尽きます。

そのために自分に何ができるか考える。

それぞれ自分の出番を探しはじめる。
当然その出番は人それぞれ違う。
それが個性として顕現けんげんする。

目指しているものが同じという安心感。
それがあるから違いを認められる。

互いに同じだと認め合うこと

違いを認められるのは
同じ思いがあるから。

いま生きているけど、いずれ死ぬこと。
先人のおかげで今があること。

同じ思いはこれだけでいいと言ったけど、
出来れば、これも共有したい。

歴史に感謝して、後世の役に立つこと。

人類は何千年もそうしてきた。
だから今がある、と思う。

サムネ写真のように自分はどんな道具になるのかな?
楽しみだ。

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