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妊活は社会人として無責任!?

先日の国際女性デーにちなんで、「職場でのジェンダーギャップのモヤモヤ体験」を募集するアンケートに回答しました。
このお題で咄嗟に思い出したのが、「妊活は社会人として無責任」というお叱りをうけた出来事です。

私は当時、大学の非常勤講師で、次年度の科目を通年で共同担当することが決まった状態で妊活をしていました。
うまくいけばちょうど夏休みに出産できるようスケジュールを計算し、凍結受精卵を子宮に戻す計画を立てていたのです。

妊活は緻密に計画したからといって、必ず妊娠できるわけではありません。
でも、このトライでもし、めでたく妊娠が成立してしまったら?

たとえばツワリや切迫流早産など、妊娠出産には不測の事態がつきものです。
授業を続けられない事態になったときに、代講の先生が見つからなかったら?

私は自分の職務遂行上のリスクを事前に上司に報告していなかったことで、人事担当の上司や共担の先生、さらには学生さんに多大な迷惑をかける可能性がありました。
「そんなことにならないように、そもそも授業を引き受ける際には、妊活の意向を事前に上司に報告し、担当講師を選ぶ過程で考慮できるようにしておくべきである」というのがお叱りの主旨でした。

たしかに、私の職場でのコミュニケーションと、妊活のための根回しは、不十分だったかもしれない。
責任ある社会人としては、妊活を計画した時点で上司に報告しておくべきでした。

……と一瞬反省しかけましたが、でもよく考えたらちょっと変です。

「妊活しています」とか、「避妊せずに関係を築く男性パートナーがいます」とか、生殖という最もプライベートな事柄について、職場で開示する義務があるとしたら、そんな職場は嫌すぎます。
妊娠しない男性はこの義務を負わないだろうから、これこそジェンダーギャップです。

そもそも、妊活を正直に報告していたらその時点でリスク管理の観点から科目担当から外されていただろうと思うと、ますます嫌になりました。

先方も私の無責任さが嫌だったと思いますが、私もここには居場所がないなと結論づけて、人間関係に大きな傷を残しながらそのまま辞職しました。

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私は仕事と妊活を天秤にかけて妊活を選んだのだけど、もしかしたら、叱られながらも図太く居座って、「妊活がつらい」と学生相手にボヤいたり、ツワリで弱った姿を学生に見せたりしたほうが、教育上は良かったのでは?とも思います。

妊娠する不安定な女体を教壇から追放して、教員は妊娠しないのがあたりまえの大学になってしまったら、学生の世界観が歪みかねません。

私が反省すべきだったのは、妊活を隠したことではないのかもしれない。
むしろ、それでちょっと叱られたくらいで心が折れて、不安定さを抱える生身の身体を教壇から排除することに加担してしまったことのほうであるようにも思えてきました。

昨今の大学教育の現場は、授業時間数などの縛りも厳しく、教員に昔のようなゆとりはありません。
そんな中で、妊娠が周りの迷惑に直結してしまうような、人間の生理的な営みすら排除しないと回っていかないシステムは、黙ってそこに適応することで社会人としての責任を示すのではなく、修正していく努力を諦めないことこそ必要なはずなのです。

妊娠や病気や、育児や介護などによって、その重荷を背負っていないかのような安定したパフォーマンスを発揮できない人は、たくさんいます。
その人たちを包摂する仕組みが不十分だと、「安定して働けない人」と「その人が放り出した業務を肩代わりさせられて疲弊する人」の対立構造が生まれがちです。

そんな対立構造を、どうにか超えていきたい。そのために知恵を絞りたい。
安定して働けない側として、この対立を解体するために何ができるのかを、工夫し続けていきたい。

常に強靭でありつづけることができない人にも、居場所があるように。

どんな人も、弱さ抱え、弱いまま、生きていける社会へ。




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