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テヘランのカフェ文化

(1) 親密なパブリック・スペース

 2004年の夏、私はテヘランの語学学校に短期留学していた。学校の昼休みは家に戻って昼寝ができるほど長かった。このため授業が午前と午後にまたがる日は、クラスメートたちと一緒に昼食を食べ、公園で雑談をしたり、近場に観光に行ったりして過ごしていた。ある時、学校の近くにカフェがあるから行ってみよう、ということになった。
 私はふだん紅茶よりコーヒーを飲むほうだが、イランに来てからはずっと紅茶を飲んでいた。外食しても、コーヒーを出す店が見当たらないのである。滞在先のイラン人の友人が気を遣ってコーヒーを買ってきてくれたが、インスタントだった。それも当時の物価でかなり高かったと記憶している。そんな訳で、コーヒーが飲めるカフェが学校の近くにあるというのは大変うれしい知らせだった。
 カフェは地下にあり、通りからはそれとは分からないような場所にあった。昼下がりの日差しは入ってこず、店内の様子は薄明りの照明でぼんやりとしか見えなかった。店員の他には誰もいない店で、私たちはそれぞれコーヒーやカプチーノを頼んだ。年々高騰するテヘランの物価を考慮に入れず、わずかな滞在費しか持って来なかった私には、そのコーヒー代は痛い支出だった。正確な値段は忘れたが、その日の昼食として食べたハンバーガーセットよりはるかに高かった。薄暗くタバコの匂いがするその店内で、私たちは何を話したのか、音楽がかかっていたのかどうかも思い出せない。ただ、ふだんは通りの喧騒の中で一緒におしゃべりに興じてきたクラスメートたちが、何か隠れ家に逃げ込んだ共犯者のように思えたのを憶えている。
 その値段の高さと雰囲気から、当時のテヘランのカフェは私にとって気軽に足を運べるようなものではなかった。コーヒーが飲みたいからといって、カフェに行く気にはなれなかった。当時テヘラン大学の学生だった友人によれば、大学の近くにはいくつかカフェがあったが、私と同じような理由で頻繁には利用していなかったという。

 2014年にテヘランを再訪して、通りを歩いているといくつかのカフェを見つけた。路面から中が見える明るい店もあれば、10年前に訪れたのと同じような奥まった場所にある店もある。独りで店に入り、コーヒーを飲みながら周囲の様子を見ていると、店にはそれぞれ特徴を持つ常連客がいるのが見て取れた。ある店は演劇関係者が多く、フライヤーが置かれている。別の店は近くの芸術系の大学生が集まる場だった。カフェは不特定の人が出入りする場所だが、それぞれの店に集まる客層はだいたい決まっており、その中で交わされる話題や振る舞いもまた一定の雰囲気を持っていた。お客として来た人たちがそこで親しくなることもある。
 「テイスト」を同じくする人がカフェのような場で互いに知り合うということは、少なくとも10年前には大っぴらには行われていなかった。とりわけ男女の出会いや交際にかんしては風紀的な取締りも行われ、未婚の男女ふたりが出かけられる場も多くはなかった。当時は、口コミで広まった特定の場所に車で出かけていき、車越しに連絡先を交換するという現象も見られたほどである。2000年代末より若者の様々な不満が表明されるようになり、現在は風紀的な取締りも緩和の傾向にある。先述の友人は、「今の若い人は恐れがない」という。30代後半になった彼女より若い世代は、男女の交際だけでなく社会問題についても、公に行動し意見を表明するようになったというのである。

 私はその後も調査のため、2016年から2019年の間は毎年テヘランを訪問した。その間街中にカフェが見られるようになった。カフェという場所が増えただけではない。地下鉄の構内にコーヒースタンドができるなど、コーヒーを飲む機会が増えていった。
(つづく)



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