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南極物語と動物愛護とルッキズムと

 南極物語という映画を見た。荻野目景子がやたら可憐でした。そして高倉のケンさんがゲキ渋。が、結論から言えば僕は視聴を途中で中断してしまった。
 南極の捜索隊が犬ぞり犬10数頭を南極に置き去りにしてきたことで世間から非難轟々浴びることになる話。犬達は日本各地から集めてきた(多分主に樺太犬のような寒さに強い犬種)ようで、南極研究者のケンさんは引き揚げ後に犬の里親達に謝罪をして回ることになる。その一つの家の少女(荻野目景子)が「うちの犬もう帰ってこない。代わりの犬なんていりません!」と謝罪するケンさんを突っぱねるシーンがある。通常の人間にとってこれは涙腺崩壊、感動必死のシーンなのだろうが、僕にとってはとても支離滅裂で狂気じみたシーンであるように感じられた。「でも、君は哺乳類のお肉を食べるし、フェルトは着るし、哺乳類を虐げて作った洗剤を使うんだろう」と、そんな容赦のない疑問が頭を席巻していたからだ。
 過剰に動物愛(一方通行)に溢れた映画や動画を見るたびにこの疑問がよぎる。もう散々使い古された疑問なのだろうが、こうマジマジと原型のような動物愛を見せつけられるとやはりそのぎこちなさに気持ち悪さを感じてしまうのだ。制作者及びその動物愛を享受できる人は人類が動物を搾取し、その利益を享受しているという事実を知らない(知ろうとしない)のかもしれない。
 少し前に劣悪な環境の犬繁殖場の実体が暴かれ、雌犬が無理やり性交を強制されている事実に杉本彩が「ゾッとします。人間に置き換えればどれだけ残酷なことなのかがわかるでしょう。非道極まりない」とコメントしていた。彼女は動物性生産品についてはどう考えているんだろうか?強制的に妊娠させられた挙句子牛を取り上げられた牝牛から取られる牛乳は?麻酔なしで去勢される羊から取られるフェルトは?くちばしを切られ狭いケージで飼育される鶏肉は?それらを人間に置き換えたことがありますか?
 もちろん杉本彩やそれに無自覚な人間に罪があると言いたいわけではない。この臭い物に蓋をする社会でそういう意識を持つ方が難しいだろう。ただどうしてその動物愛を他の、犬猫以外の哺乳類に向けることができないのかいつも疑問に思う。

 どうして人間は犬猫をはじめとする愛玩動物に異常な親しみを抱いてしまうのだろうか?
答えはきっと「可愛いくて無害従順」だからだと思う。なんということだろう。奇遇にも世が貶してやまない弱者男性の理想相手と条件を同じくしている。それはつまり可哀想で可愛いらしい対象を保護することで庇護欲求を満たしたいというエゴ(父性母性)なのではなかろうか。

 全ての人間は哺乳動物を区別している。食用動物の基準はうまいかまずいか、愛玩動物の基準は可愛いか醜いか。その他生産品。といった具合だろうか。何かこの区別は人間社会にも通じている気がする。生産性のあるもの達が会社組織では生き残り、美形及び珍奇な容姿が芸能の世界ではもてはやされる。まるで人間以上の何かがその生産性を基準に人間を選別しているようにすら思えてくる。

 こんな偉そうに文句を連ねる僕も肉を食い続けるし、化学薬品を購入することで動物実験に投資をし続けるだろう。
 つまり言いたいことは、自分が犠牲にしている命を顧みず、庇護欲を満たすためだけに動物愛護という一方通行の感情が利用されているのではないかということだ。

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