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「禁止カード」と「否定されること」の快楽

 Twitterや5ちゃんねる上で「禁止カード」という言葉を見たことはないだろうか。語源は「遊戯王」などのトレーディングカードゲーム上で、余りにも強すぎるカードが大会などの場で使用禁止に指定されることだが、今回指しているのはそのことではない。Twitterや5ちゃんねるなどをいかにも見てそうな人間、オタク層、所謂「陰キャ」・・・が言われてメチャクチャ嫌であろう煽りのことを、強すぎる禁止カードに喩えて呼ばれている、そのことである。本来、見て嫌なもの、言われて嫌なことは触れたくもないはずだ。ならばなぜ「禁止カード」は生まれ、拡散されるのだろうか?今回は、その心理を追っていきたい。

 最近、これは本当に所感なのだが、先述した「禁止カード」と言われるような内容のイラストやツイート・ブログなどのスクショ・・・ の投稿が増えてきているように思う。このような「禁止カード」系の投稿で最も有名になってしまったのが「顔面チーズ牛丼」だろう。筆者も昔は割と好んでこのネタを使用していたが、余りにも広まりすぎたことでむしろ嫌いになってしまった。他にも「スタバ陽キャきっしょ」「Vtuberはオタクのキャバクラ」(これはちょっと古いネタだが)など、我々が見ていて、読んでいて心が苦しくなるネタは枚挙に暇がない。

 さて、このようなイラストや文章にも必ず作成者がいる。このような「あるある」を作るのだから、きっと作成者も我々のことを熟知している人間なのだう。作成者は、悪意を持ってこのようなものを作ったのだろうか?だとしたらそれは余りにも刺々しい。中には身近にそういった人間がいて嫌悪感や軽蔑から作ったのかも知れないが、実はその大半はタダの自虐ではないだろうか?

 というのも、どの画像かは言えないが、自分も自虐のつもりでドギツいイラストをTwitterに投稿したところ、急激にリツイートされてしまったことがあるからだ。本当に身内ネタを含む自虐として描いた雑なイラストだったのだが、あれよあれよと言う間に「チー牛」「スタバ陽キャ男」の仲間入りだ。誰かを煽る目的で使われるために作ったわけではないので、該当ツイートは削除した。しかし画像は色々なアカウントに「禁止カード」として転載され、今でもたまに、作り手もわからないままネットの海を漂っているのを見かけることがある。前二つのネタと比べてそこまで流行らなかったから良かったが、我ながらとんでもない兵器を作ってしまったものだ。

 なぜそんな自虐をしたのかと言われれば、それは気持ち良いからである。自分を責める行為というのは、僕にとってとても気持ちの良いものだ。限りなく卑屈な想像に浸り、自分の欠点(周囲に指摘されたことのあるものや、内心自分が思っていることなど)を限りなく悪い言葉で並べ続ける。すると、労せず自分の本質に気づけたような気がする。最悪の想像があれば、他人を見下さない謙虚さだけはある自分に酔えるのかも知れない。あるいは「実際の自分」はこれよりかはどこかマシな気がして安心できるのかも知れない。もしくは、責める立場の自分を作ることによって、普段責められるようなことばかりしている鬱憤を晴らしたいのかも知れない。まあ兎にも角にも、自分の短所をオタクだの陰キャだのという代名詞に仮託して列挙する行為は楽しかった。Twitterのフォロワーたちも、普段女絡みがなくネットに浸っている人が多かったので、身内ネタもあり面白がってもらえるだろうというのもあり、投稿したのだ。その結果が「禁止カード」入りである。だが本当に、バズを狙ったつもりはなく、自己満足でしかなかったのだ。

 そして、それは「禁止カード」を見る人にとっても同様なのだと思う。

 さて、福本伸行先生の代表作である漫画「カイジ」に、とある有名なシーンがある。希望の船・エスポワール号で借金返済を賭けたギャンブルが行われ、主人公のカイジ含む債務者たちがこれに挑むことになった時の場面。そこに現れたのがギャンブルの主催者であり巨大企業の幹部・利根川幸雄だ。一通り限定ルール説明を終えてなお、「負けてからの処遇はどうなる」「もっと詳しく話せ」とゴネる債務者たちに対して、利根川はこう一喝した。

「ぶち○すぞ、ゴミめら・・・・!おまえたちは皆・・・・ 大きく見誤っている・・・・!この世の実体が見えていないまるで3歳か4歳の幼児のようにこの世を自分中心・・・・求めれば周りが右往左往して世話を焼いてくれる・・・・そんなふうに、まだ考えてやがるんだ、臆面もなく・・・・!甘えを捨てろ・・・・!(以下略。)」

 自堕落な債務者たちの本質を突いているようで、過激な物言いを使って債務者たちをゲームに陥れるための詭弁である。興味深いのがその後の債務者たちの反応だ。一度会っただけの人間に見透かされたように人格否定をされたら、怒るのが普通の反応だと思うだろう。しかし、参加者らはこの説教を聞くと、皆(カイジを除いて)一様に感動し、中には涙を流すものまで現れて、ギャンブルへの参加を決めるのである。

 自分も当て嵌まるくくりの人間をバカにし、否定する「禁止カード」を持ち上げるのは、これと似たようなものなのだと思う。特に僕のような人が大人になると、子供の頃親や教師が自分を叱ってくれたように、スクールカースト上位層が悪口を言ってくれたように、誰かにネガティブな形でも関わってもらえる機会がグンと減ることだろう。生徒や子供でもない、ろくでもない人間にわざわざ関わるのは時間の無駄だと大人ならわかるからだ。

 大学なんかは特に恣意的な人間関係が築けてしまう。社会に出たら職場のルールこそあれ尚更自己責任。その頃になれば、自分がダメな人間であることは理解していても、もうそれを本気で指摘したり面前で侮辱したりする人はそういない。残るのは自分自身の不安だけ。それこそ露骨な説教や罵倒は、インターネット上くらいにしか残ってないだろう。先行き不安な受験生が受サロで極端な学歴観に触れる。就活においては弱者そうな人が「Fランク大学就職チャンネル」さんなどの動画を見ていたりする。これと同じことだ。そう、少年期までに徹頭徹尾否定されることによって周囲からの存在を保っていた人にとっては、説教や罵倒、嘲笑ですら貴重な「自分の存在を承認しうるもの」であり、心安らぐものなのである。

 確かに、「チー牛」のような一部のネタがここまで有名になったのは、「これ、おもしろ〜wあいつじゃんw」と純粋にウケてしまったからなのは否めない。しかし、本来見たくもないものであろう「禁止カード」が作られ支持される原動力は、この「快楽」があるに違いないと勝手に思っている。なぜなら、これを書いている今この瞬間、とても気持ちが良いのだから・・・。

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