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現代資本主義の金融経済(4)

1. 欧米経済とカネあまり

③ 米国の双子の赤字と貿易摩擦
 レーガノミクスは第二次オイルショックからの景気回復をもたらしたが、同時に米国経済に恒常的な大問題をもたらすこととなった。それはいわゆる「双子の赤字」問題である。国際収支の赤字と財政の赤字が同時に生まれていることを指した言葉である。減税と軍事費の拡大による需要拡大は景気という点ではプラスであったが、ドル高のもとでの需要の増加は輸入の増加にもつながった。これは日本を含め他国の景気回復には寄与したものの、米国の国際収支の悪化を招いてしまった。貿易収支でみると、1980年には194億7百万ドルの赤字だったが1987年には1516億84百万ドルの赤字にまで拡大した。輸入増加の大きな部分は日本や欧州、アジアの新興国であったが、中南米諸国からの輸入の増加にもある程度はつながり、これは中南米債務危機に対してはプラスに作用した。
 また減税で税収が減り軍事費の拡大で支出が増加したため、連邦財政も大きく悪化していった。サプライサイダーと呼ばれるレーガノミクス推進者たちは、減税すれば景気が良くなってやがて税収が増え、減税前より税収が増えるという理論を吹聴していたが、そうはならなかった。減税が累進性を緩やかにする高額所得者への減税であったので、当然減税分の可処分所得増加は、奢侈消費にある程度向かった残りは貯蓄に回った。こうしたやり方では減税分の有効需要を創出できないわけだから、まして減税分の税収減を補うような税収増には結びつかなかった。
 この結果、連邦政府の負債の増加でみると、1980年度は811億ドルであったが、1991年度には4,319億ドルにまで負債増加のペースが上昇した。連邦政府の負債総額そのものも、1979年度8,265億ドルであったが、1989年度末2兆8,574億ドルへと大きく増加した。
 一方、貿易赤字の拡大は米国の需要が大きく増加したためであったが、米国では日本やドイツをはじめとする黒字国に批判が高まった。貿易赤字の拡大は米国の雇用を奪っているという論理である。つまり、日本からの輸入品が米国の雇用減につながり、日本への輸出が少ないのでそれを補う雇用が生まれないという論理で、全米自動車労組をはじめとする労働組合や日本企業にシェアを奪われた企業が日本批判の急先鋒となった。特に自動車など米国の主力産業においては、輸入を制限しようとする動きが強まり、いわゆる「貿易摩擦」の高まりがみられた。
 この当時の日米間の貿易関係をみてみると、1985年の日米間貿易は、米国の日本からの輸入額が722億ドル(1980年比109%増)、米国の日本への輸出額が298億ドル(1980年比19%増)と、日本からの輸入だけが大きく伸びて赤字が拡大していた。日米の貿易不均衡拡大は1987年まで続いた。
 日米間では、ます日本が自動車について「対米自動車自主輸出規制」を行って摩擦を和らげようとしていたが、1985年に中曽根首相、レーガン大統領の会談による合意で、MOSS協議(市場志向型分野別協議、エレクトロニクス、電気通信、医薬品・医療機器、林産物、輸送機器)が開始された。交渉は1986年に決着したが、この間にプラザ合意による大幅な円高誘導が行われるなど日本に圧力がかけられた。また日本が内需拡大による輸入増加を図るようにも強く要求されていた。
 こうした米国の強い圧力の背景には日本が経常収支黒字を積み上げた結果、世界最大の対外純債権国になっていたという事情もある。日本は1980年末に115億ドルだった対外純資産が1985年末には1,000億ドルを超え1,298億ドルにまで増加していた。経常収支の黒字も大きくなっていたため、世界最大の債権国となった上にさらにその幅を広げているという姿となっていた。日本から外国への投資の中身は主に米国債などであり、直接投資=企業の外国進出ではなかったので、これを持って日本が世界一の帝国主義にのしあがったとするのは早計であろう。しかし、日本が相対的に地位を挙げていたのは確かであり、一方で米国は低落傾向が続いていた。米国は経常収支の巨額赤字が続いた結果、1987年には対外純負債国に転落した。純経済的な要因から言えば、こうした日本の対外純資産の積み上がりは経済的な覇権につながっていく可能性があるという意味で欧米先進国から警戒される状況があった。1986年4月7日、日本は前川レポート(「国際協調のための経済構造調整研究会」による報告書の通称で座長の前川春雄元日本銀行総裁の名前を取った)を発表し、国内経済政策を輸出志向型から内需拡大、規制緩和へカジをきることを表明した。同レポートでは「我が国の大幅な経常収支不均衡の継続は、我が国の経済運営においても、また、世界経済の調和ある発展という観点からも、危機的状況である」との認識のもとに「構造調整という画期的な施策を実施し、国際協調型経済構造への変革を図ることが急務」としていた。より具体的には「1、内需拡大 、2、国際的に調和のとれた産業構造への転換、3、市場アクセスの一層の改善と製品輸入の促進等、4、国際通貨価値の安定化と金融の自由化・国際化、5、国際協力の推進と国際的地位にふさわしい世界経済への貢献」などの項目が掲げられた。
 こうした「外圧」とそれへの対応策がでた中で、当時の中曽根政権は「規制緩和」を前面に出して、都市の再開発や建設投資による内需拡大を政策目的とし、これが日本の不動産バブルを助長する要因となった。日本が1961年以来、大きな建設投資ブームを経験しておらず、建設投資の循環という点でみても拡大局面に移るタイミングであったこともバブル的建設ブームと不動産ブームの背景として指摘できるかもしれない。



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