世界資本主義をどうとらえるか

社会主義協会「世界経済論シンポジウム」(1997年)より

北村巌から報告

北村 2カ月ほど時間をいただいて論点を整理することから始めたのですが、今日の報告ではまだ欠けていることがあるだろうと思っています。どこがどのように意見が違っているのか私自身がよく整理できていなくて不十分な形に終わっています。なるべく今議論になっていることに焦点を合わせたいと思います。
 第一点は、世界資本主義の情勢分析をどういう立場でやっていくか。その一つの大きな論点はグローバライゼーションという言葉でいわれていることをわれわれがどう理解するのか。これについては協会の中でも幅があるし、世界中の左翼でも論争になっていることではないだろうか。私自身はきちっとした結論がないものですから、皆さんの意見を聞いて考えたことを話したいと思います。
 1990年前後に旧社会主義体制が崩壊していって、資本主義の側に飲み込まれつつあった。資本主義の側はトランジションという言葉を使っていますが、資本主義への移行過程になったんだといわれています。資本主義が本格的に地球化する、グローバライゼーションと言った時に意味していることは、一つの世界資本主義、国際問題ととらえるよりも、企業活動についても国籍を離れて純粋な利害の中でトランスナショナルになりつつある、という問題意識です。
 しかし、多国籍企業がマルティナショナルと呼ばれていた50年代後半から60年代に、アメリカ企業がヨーロッパに大量進出していった時にもそういう言い方をされました。その時期に、マルティナショナルという言葉ができたわけです。マルティを超えて、トランスナショナルだ。マルチと言っている時代は本国があってその分社がいくつかの国に散らばっていくようなイメージでとらえていたのが、マルチで国境を超えた企業の結合ができて、それぞれ大企業になっていてトランス ナショナルという言い方をされる。いまのところ、この日本語訳はない気がします。よくTNCと略されています。本当に地球企業、無国籍企業になっているのかどうかが一つの論点、――完全に無国籍になっているという主張はないと思いますが――そうなりつつあるという問題意識は出てきていると思います。
 私はトランスナショナルと言われる企業も、おおむね多国籍企業だと思うんです。必ず本国が存在していることは確認できると思うんです。本国をなくしてしまったような企業が活動していることは、見られていないのが現状だと思います。 一方で、自動車メーカーのフォードにしても、生産の比重がどうなっているかをみると中心拠点があって分社があるのでなく、生産量の拠点がヨーロッパ、アメリカ、日本とか相当の広がりをもったものになっていることがあるのも事実です。
 多国籍企業化、トランスナショナルのあり方は、産業の違いにも見られると思います。これまでの主力成長産業であった自動車産業を見れば、生産拠点、販売拠点を含めて、先進国間の乗り入れは80年代に活発だった。これはいろいろ要因があって、日本では自動車産業が当初は大きな産業であり、成長産業であったということもあった。自動車の輸入に対する制限もやっていた。トヨタやニッサンがアメリカに生産拠点をもっていく。ホンダは少し先に手をうっていた。販売先に近いからというよりも、米、欧が自動車の輸入制限をやろうとしていて、アメリカではローカルコンテンツ法、すなわち自動車自体の付加価値のうち、どれだけ地元でつくっていないと数量的に制限するということが行なわれました。国家間の台数まで決められて、日本のアメリカに対する輸出台数の目標値みたいなものまで設定されたことさえあったわけです。その中で行なわれたのが、現地生産の始まりだったと思います。
 90年代に入って、今また日本からの輸出が増えているので、アメリカからクレームが出たりしていますが、数量制限をかけようという話が出てくるほどではありません。相互乗り入れはもっと進んでしまって、情勢が変わってきていると思います。自動車産業で生産拠点の乗り入れがあったというのは、純粋に経済的理由では必ずしもなかったことが振り返れるのではないか。
 電機産業は、80年代の後半から日本企業のアジアへの生産拠点の移動、創設が活発だったと思います。90年代になると、アメリカ企業もアジアに生産拠点を持つという広がりになってくる。アジアの中進国、先進国である韓国や台湾が、マレーシアやタイに直接投資する動きが今は見られています。これに関して言えば、アジアやラテンアメリカの諸国にも、直接投資受け入れの政策変化がもちろんあります。比較的低レベルで生産できるものをアジアに移していくことによって、利潤をあげることが主な動機だったと思います。この動きは今も強く出ていることは観測されることです。
 論点として、私もなかなか結論がでないのですが、企業活動がトランスナショナルになっているのは事実だと思います。企業内取り引きが大きな比重を占めてきて、国際貿易の中での多国籍企業での取り引きが大きくなっています。日本とアジアの関係で言えば、パソコンなどの場合は、電機会社は技術の高さが必要とされるマイクロ部品、例えばハードディスクでいえば、シリンダーは日本で生産する。シリンダーがマレーシアに輸出されて、それを組み立ててハードディスクの本体にする。それを日本にもってきて、組立工場でパソコンに組み込んでいく。そういう流れができています。
 日本の直接投資の額だけを見ると、90年代に若干の停滞感があるわけですが、アロケーション、すなわち日本の企業がアジアのどこに生産拠点を持つかという中で、リアロケーションが活発に行なわれています。金が出ていかないのは、不況で原資がないということもある。生産再編成とか、合理化で言えば、すでに出ていっている中で、どこに再投資を行なっていくか。国に関しても、生産拠点を変えることが活発に行なわれています。
 一方、多国籍企業に無国籍企業はないのではないか。日本でもっとも多国籍化が進んでいるのはソニーだと思います。本社に外国人の取締役がいますし、取締役は日本人だけという現状も変わってきています。資金調達の面でも、ソニーがニューヨークに上場したのは、70年代初めだったと思います。すでに海外での資金調達が当たり前になっている企業です。米国本社も日本本社の経営戦略の中にあるが、それぞれの各国の動き自体も大きくなっている。多国籍企業のある企業を統括するようにソニーのビルはそびえている。しかし、それでもソニーは日本の企業だと思います。ソニーの技術開発の中核は日本においている。ソニーは多国籍に企業展開しているから、ソニーの企業としての利害と日本国民の利害が必ずしも一致しないことはあります。現状でははみでた部分と考えた方がいいのではないか、と思っています。
 60年代の終わりからアメリカの直接投資がヨーロッパに出ていった時に、アメリカの産業が空洞化すると言われたわけです。今、日本でも空洞化がある、その施策が大事と、通産省が言っています。私は技術的ヒアラルキーというのは大きく変わっていない点に注目したい、と思います。日本でも70年代初めから中小企業がアジアに出ていって、繊維や雑貨は生産拠点が移っていったんです。そのように技術水準の低いものが移っていくのは事実だ。アメリカと日本でも、そういうことは ある。マクロで投資需要が海外に流れる。日本企業の蓄積の再投資です。リアロケーションとして、海外にいってしまって、少しレベルダウンすることはあるが、製造業が日本からなくなってしまって、産業が空洞化するというのは、オーバーな表現ではないかと思っています。どういう投資のアロケーションをするかは日本の独占が判断して、もっとも技術水準が高いものを日本に残し、他を海外にアロケーションする。やはり、日本を中心にやっているのではないか。
 技術の話では、技術貿易額の推移がまとめられています。これを見ると、日本では70年代初め頃は、技術輸出はほとんどなくて、輸入が8倍くらいある。完全に片側だった。ところが足下はかなり変わってきていて、比率では、半分くらいの技術輸出が見られる。これは向け先としてはアジアが中心で、――ヨーロッパ、アメリカもありますが、――そういう構造に変わってきています。同時に言えるのは、輸入が減っているのでなく、増加し続けていることです。輸出が急速に増えたので、このようなバランスになってきたと思います。
 アメリカの場合は、70年代に技術輸出が技術輸入の10倍くらいあって、技術輸出国の頂点に立っていた。今は絶対的地位は下がってきていて、四倍くらいになっている。同時に輸出額を見れば、まだどんどん増えていることが言える。アメリカの絶対的地位は下がっているが、先進国間の技術の相互依存はまだまだ活発になっています。アメリカの優位も一方的なものは崩れが見られるが、最近ではコンピュータのソフトウエアのように、かなり独占的な地位を占めていることも見られるわけで、完全に崩れたというのは言い過ぎだと思います。先進国の統計から推測すると、途上国の中心国は輸入超過になっているはずです。
 グローバライゼーションのことでもう一つの論点は、地域統合をどのように考えるかだと思います。地域統合では、EU(欧州連合)の統合がありますし、アジアにおけるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の活動もあります。ラテンアメリカは相変わらずアメリカの裏庭のようになっています。グローバライゼーションをかなり強調される方は、そういうことはありつつも、現実においては資本の取り引きにおいても、貿易についても、世界全体の相互依存が強まっていると言われます。それは事実だと思います。他方、極への集中力も同時に存在していると思うんです。そこをどうとらえるかが難しい。
 現実に、一つはGATT(関税貿易一般協定)のWTO(世界貿易機関)への再編があって、WTOを中心にして世界貿易を無関税化していくことを推進する動きがあります。他方、現状の生産・流通が地域性に依存することは脱していない。ですから、地域間の経済取引の重要性、自由貿易のゾーンを模索して、WTOの先を行くような、地域での貿易体制をつくろうと動きがあります。ラテンアメリカの場合は、アメリカに対抗する動きがNAFTA(北米自由貿易協定)だと思います。 三極の地域統合の話は、必ずしも三極間での依存を抑止する、逆転させるものにはなっていなくて、先ほどのグローバライゼーションの論者のように、相互の依存関係も強まっていることも言われています。ここはなかなか難しい論点であると思っています。
 地域統合問題で残る問題は通貨です。今後成功するかどうかは別にして、ユーロが出てくる。これはユーロと書かれたマルクだという話もあります。いずれにしましても、マルクのこれまでの役割を超えた、強い、大きな経済取引を媒介するユーロが中心に生まれてくる。そうすると、ドルの世界経済における地位は下がると思います。今でもヨーロッパの通貨同盟の枠組みの中でヨーロッパ化しましたし、70年代のドルにぶら下がった形は離れていることは事実ですが、それが完全に固まるということではない、と思います。今でも東欧に行けばドルです。攻めぎあいは当然でてくる。ラテンアメリカは完全にドル圏ですし、それがすぐに変わることはありえません。
 アジアは円通貨圏ができることはあまりない、と思います。しかし、円の国際化は90年代に入って少し弱まっているが、基本的には底辺で続いていくだろう、と思います。変動相場制をどのように理解するかもあるんですが、基本的には世界の経済取引では、円は少し離れて第三位になると思います。ユーロ、円がそれなりのシェアを持っていく状況がある。その中で、変動相場制で資本移動が貿易以上に問題になります。それがうまくいくのかどうかが、大きな問題として残されています。
 もう一つの大きな論点は、世界経済を覆っている独占側の政策の基調として、新自由主義の台頭が言われている。私は、レーガン、サッチャー政権が終わった時に、少し勘違いしたところがありました。クリントン政権が生まれた時に、新自由主義路線は周期的なもので、70年代の終わりに出て、80年代いっぱいで終わると考えていました。今は、どうも簡単に終わるものでなかったという感想をもっています。一時的なものではなかった。
 このあたりを伊藤誠さんは資本主義の逆流と表現されています。国家独占資本主義というものが、ーー福祉国家から批判的な言い方ではバーバリズムと言う人もいますが――そういう方向に逆転が起きているのではないか。市場原理、資本の論理の貫徹が、一時的な政治主張として出てきたのではなく、基盤自体が回帰する方向に変わったという指摘がされているわけです。
 現象としては、レーガン、サッチャーの登場以来、経済規制の緩和、国営企業や公営企業の民営化が80年代以降全面化して、しかも今に至って変わっていない。たんに右翼的な保守党が政権を握って推進しているだけでなく、イタリアの新政権、すなわち中道左派と言われている政権も経済政策の基調は変えないし、保守政権が倒れてイギリスの労働党政権ができても、おそらくそういう基調は変えないと思います。あるいは、ポーランドで旧共産党が政権をとっても、民営化や規制緩和の政策は変わらないと見られています。私は、下部構造にそういうものがあると考えなくては、いけないのだと思います。労働者党が政権をとったら、すぐに社会主義に移行できるのでなければ、ある程度そうした事情に合わせて調整を行なわざるをえないわけで、下部構造に事情があると考えざるをえません。
 これもいくつか論点が出てくると思います。これまで自由化、工業化で成長してきた世界経済が、そういうものでない段階に入っているので、そこの変化の節目での要請があるのではないか。やられている規制緩和は自由主義、市場主義と言われているが、実態としては純粋なものとは違うのではないか。規制緩和がイデオロギーとして出てくる時は、経済規制をすべて撤廃し、市場にまかせるということで出てくるわけです。しかし、実際に行なわれている規制緩和や民営化は、今の先進国が抱えている産業構造の転換にそっていて、その中での合理化策としてどこに力点をおくのか、という問題があると思います。例えば、今の行政改革委員会の論点整理を見てみると、規制緩和はイデオロギーとしてやっているのではなく、日本経済をどう再活性化できるかの観点で必要なんだと言う。すべて自由競争推進ということでなくて、――かなり今まで経済的、社会的規制と言われるものが入っていると思いますが、――そういうものは外していく方が今はいい部門が多くてやられています。
 電気通信ははっきりしています。電気通信産業の第一種の通信網を提供する事業者として参入できるのには、規制を撤廃すると言っているが、中小、零細はそんなことはできないんです。実際には、NTTに加えてKDDがやっていくとか、ネットをもっている電力会社がやっていく。京セラなどが長距離の部分だけ自分たちで用意する。通信衛星を使って参入していく。それだけの資本力を持っていなければ参入できないし、実際にはそこに第一種の規制緩和をした意味があると思います。 第二種や第三種も規制を撤廃したということは、それにぶら下がっていくようなビジネスが、独占にとって新しい市場を生むのでやっているのが現実ではないかと思います。
 国営企業の民営化、株式会社化はしたが、本当に民間資本になっているかというと、はなはだ疑問だと思います。依然として、現実にも法的にも公共事業ですから、社会的インフラに関わる部分を供給しています。JRにしても、NTTにしても、そういうものですから、法的な規制が依然としてあるし、現実に何が行なわれたかというと、経営形態の転換です。今や経営者層への民間、日本で言えば旧官営の独占の層みたいなところからきている。そのことによって、企業の中の合理化を徹底してやれる。もう一つは、株式会社化して株を市場に放出する。新しい資金調達を可能にしたことが、主な成果ではなかったかと思います。
 福祉国家について言うと、今の財政再建論議の中でも、年金の給付開始年齢の延長とか、水準の削減が出てきているのは事実ですが、そういうものを完全になくしてしまうかというと、そうではないという議論があると思います。介護保険の例で言うと、これから社会的に必要なものにはある程度対応するところはあるし、アメリカのクリントン政権をとっても、うまくはいっていないが、医療保険を国民に開放していくという政策は国民に受けるし、政策としてあるわけです。すべてをなくして、バーバリアンな資本主義にするんだと動いているわけではない、一定範囲の調整ではないか、というのが当たっていると思います。
 先ほど言った、どういう下部構造でそういうことになったのか考えてみたいと思います。70年代に入って、それまでの重化学工業、工業生産拡大と引っ張ってこれた先進各国の成長が止まってくるということがありました。その中で、アメリカの経済的な地位の低下があって、71年のニクソン・ショックからブレトン・ウッズ体制の崩壊を受け、通貨制度が変動制へと移行するのが73年までに起きました。これはかなり世界経済に困難をもたらしましたし、彼らにとって一種のパニック、危機的状況になったのは事実だと思います。
 それ以降も変動制が続いていることをもって、世界資本主義は羅針盤なき航海にあるという言葉が資本の側から出てきましたが、そういうことが続いてるのとは違うのではないか、と思います。むしろ変動相場制の中で、どう国際金融体制をつくっていくかをずっとやってきています。特に飛躍となったのは、累積債務問題の処理だったと思います。82年のメキシコ、アルゼンチンの債務危機、これはアメリカの商業銀行の危機だった。それをどうやって乗り切るか。より強力な国際金融体制をつくっていく。片方で言っているディレギュレーションとは別に、国際金融に関して言えば、どんどんレギュレーションをつくっていった。国際的業務をやれる銀行はどういう基準がなければいけないか、とか、取引については派生商品も含めて自由な形態を認める、とかです。そこをどういう人たちが、どういう形で、どこでやれるかということに関しては、どんどんレギュレーションをつくってやっていることが、大きい現状としてあった。
 80年代までは、先進各国で基本的に長期不況と言ってきましたが、慢性的な投資需要不足があったと思います。それを補足するものとして、恐慌に陥れないものとして、金融政策を利用してやられてきた。需要の数量的な面でみると、当然その国が財政赤字を持つことで、超過需要を財政から発生させる。金融政策では、低金利政策なり、金融の自由化を通じて、消費者ローン、住宅ローンをどんどん拡充する。個々の労働者では返済していくが、マクロで言えば現実に支払われている賃金以上の――実際に超えてているかどうかは分かりませんが、――標準的な消費を超えてできるような資金を資本が仕組みをつくって与えていく。仕組みについては、国が整備してかなり安くしていく。そうした消費者金融の発達とか、残高の増加、抵当ローンの増加が、需要不足を補うものとして、数量的に恐慌を起こすことを避けるということで、何回もやられてきています。
 こうした負債がどんどん膨らんでいけば、バブル崩壊問題のように、なんか先で生産的に利用され、労働者を搾取して利潤が得られるものではないですから、国家が税で払っていくか、労働者が今後得ていく賃金で払っていくしかないわけです。それで継続的にやれるわけです。もちろん、不換通貨制度のもとで、インフレを利用して、それを緩和することはやられてきているわけです。
 しかし、なんでもそれでいけるわけではない。根本的には利潤率を、――70年代には実質的な利潤率は下がったわけですが、――回復させて、投資需要を増やす形にしないと、解決はありえないことになったと思うんです。今のアメリカはかなりそういう面で、90年代に入ってホワイトカラーの合理化が急速に進められて、そういう層の賃金も下がり、低賃金のサービス業に労働人口が移動することで、全体の賃金水準が下げられたことがありました。同時に、コンピュータ化によって利潤率の 上昇が見られると言われていますが、実際に見ますと、アメリカの製造業の収益性でかなり強調されているのは、表面上の利益、純利益の増大が強調されているのです。ROEと言われる自己資本利益率は回復、九六年でも高い水準になっています。これが80年代、70年代までさかのぼってみても、91―92年の不況回復でかなりのレベルで回復しています。
 しかし、一方では経営資本利益率を見ると、たしかに景気循環の中で回復してはいますが、80年代のレーガンの一期目を上回っているものではありません。表 の下の方の線は、実際に営業活動に投下されている資本額で営業利益を割ったものですから、営業ベースでどれだけ利潤がでているかということを示しています。自己資本利益率は、金利とか金融的な取り引きで上にいったり下にいったりしますから、金融的な取り引きは低金利になったこともあって高い。株高も含めてアメリカ経済の強さの実態はそういうものではないかと思います。本質的に経営資本利益率、本当の営業ベースの利潤率でこれまでの低迷状況を脱したという評価は、――日本と比べると高いですし、インフレを省くと少し違いますが――までできないと考えています。
 言えることとして見ていく点では、以下のようなことがあると思います。先進国間の投資の乗り入れの中で、純粋に新たに工場をつくるとか、販売拠点をつくるための投資よりも、既存の会社を傘下におさめていく形での再編が大きくなっています。特に、90年代に入ってM&Aの活性化と言われていますが、これは一つの特徴だと思います。M&Aでは、直接投資先に需要を生んだり、雇用を増やすことはないのです。既存の企業の中で、より自分の企業にやりやすいように転換を求めるために買う、あるいは部門分割して合理化する、それを切り離して売るなどが、活発にやられていると思います。
 もう一点は技術の変化の問題で、グローバライゼーションだとか、多国籍企業化の動きを見ていく時に、今のコンピュータ化などの発達が支えている側面を無視できないと思います。ここにどう議論を組み立てるかはやっていません。金融や証券とかを見ていると、かつて80年代には、海外の株の情報交換を電話とテレックスでやっていた。株価情報も、当時ようやく電子情報が提供されはじめたと頃です。国内の体制も、当時は国内の株の情報さえ短波ラジオが大きな役割を持っていて、地方支店に行くと、黒板があってチョークをもった人が短波ラジオを聞いて、どんどん書き換えていくことが見られました。
 一五年たった今は全然考えられません。ロンドンで業者間取り引きが行なわれていると、日本株の売買までが瞬時に伝えられてくる、という情報の整備が行なわれています。こういうものがかなり派生商品を増やすことを可能にしています。それは、情報通信技術の発達だとか、通信コストが安くなったことがもたらしているのです。その側面が世界化に及ぼしている影響はかなり大きい。
 特に今言われいるリエンジニアリングが、たんにそれまで使われていたリストラクチャリングと少し意味が違っています。リストラクチャリングという時には、事業部門をどのように分割するとか、管理会計をどのように使ってそれぞれの効率を高めるか、ということに力点があったと言われていますが、リエンジニアリングは、多様に使われる言葉ですが、情報通信、コンピュータ化を使って販売、企画を事業部門内に横断的に置き換えていって一体化していく、そういうものを企業内に、小会社も含めてどう構築していくかが、大きな合理化の柱になっているのではないか、と思います。
 その際に、80年代に大企業は事業部制をしいていって、管理会計をやった時に、管理会計から出てくる価格情報や事業情報はやはり加工されてしまっています。恣意的な情報です。企業にとっては、ここはいったん市場の価格情報にそってそれを利用すると、例えば、事業部門の評価、収益性の評価も市場に則して可能になります。それが情報通信技術の発達によって可能になってきた、と言えると思っています。

討論


吉田 昨日からひき続いてお話することになります。北村先生のお話は現時点の日本、世界経済をどうとらえるかという報告だったと思います。補足というより感想を述べさせていただきます。私の最近の問題意識は労働運動において敵がみえずらくなっているという視点です。そり切り口からの補足と質問のコメントをします。
昔から言われていることですが、労働者意識の右傾化、なぜ右傾化するのか。下部構造、社会的、経済的な分析がいまわれわれに足らなすぎる。それが一つの問題だろうと思います。いま北村先生が言われたように一つのターニングポイントしての自由主義、新保守主義、キーワードになったのは多国籍企業、この二点かなと聞いていて感じました。多国籍企業が一つのポイントとして私が感じているのは、どこで経営の意思決定がなされているかのとらえ方が一つあります。もう一つ加えた方がいいと思うのは、多国籍企業がどこに納税しているか。これが国籍をみつけるポイントになると感じています。日本の総合商社はほとんど日本に納税していないというのが実態だったと記憶しています。もう一つ、自由主義、新保守主義ですが、戦後50年たった国家独占資本主義の一つのターニングポイントだ。周期的な気紛れというよりこれからかなり長い間続いていくだろう。80年代に先進資本主義国でたレーガノミックスサッチャーリズム、臨調行革でいろんなイデオロギーがありますが、規制緩和、民営化、それにともなって小さな政府ですから福祉切り捨て、それともう一つは国家主義の台頭がある。その中の規制緩和は80年代に言われていたものと、昨年の経済白書の副題が規制緩和です。昨年くらいから言われている規制緩和は内容が若干違うのだろう。80年代に言われていたのはいわゆる民営化、投資対象の拡大のだめの規制緩和、今日的な規制緩和は、極論しますとだめな会社は倒産しなさいという形です。もう一つ言えるのは資本がバブル経済の崩壊以降複合不況と言われる、6~7年ありますが、この間に資本の再編成が行なわれたのではないか。一つのやり方としてでてきているのは銀行の倒産の救済をしないとか、銀行の合併、いま六大企業コンツエルンという大きな資本の枠組みが日本にもあります。内部の再編成、ないしは六つがどう動くか。持株会社が解禁される。それによってどう変わっていくのか。もう一つは戦後50年かけて株主権が剥奪されてきました。一般株主はまったく発言権がなくて、大株主の発言権も押さえられている。われわれの敵の経営者も昨年来の株主代表訴訟、資本の論理に適合しない経営者は切られていく。資本の利潤を懐に入れるような経営者は株主の権利を使いながら叩いていく。それが資本の自立、北村先生の言葉で言えば剥き出しの野蛮なバーバリアンと言いました。そういう手法に行きつつあるのだろう。いままでの敵 と言われた経営者がサラリーマン化する。いわゆる自分の懐に入れるものを極力少なくする。そうするとますます敵がみえずらい。われわれの敵が資本家階級、経営者よりも資本そのものに、制度そのものになる感じがする。そうなると労働運動がひじょうに難しい。どこをつかまえてやったらいいのかわかりづらくなる。60年代に言われた総資本と総労働の、総資本が剥き出しであらわれてくるような気がしているんです。そういうことを念頭にいれながら、いまけいざいがく中でどの分野でも議論になっているコーポレートガバナンスがあります。持株会社のコーポレートと、日本語訳は企業統治とつけられているようです。日本の論者のほとんどは企業をいかに統治するか。経営管理とか管理会計ということが本にたくさんでてきます。どうも日本で言われている理解が若干違う。英語で言うとコーポレートガバナンス、株式会社が何かを支配する。そうとらえなければいけない議論だと感じています。資本が何かを支配することが昨日から言われています。社会主義体制を支配してしまった、労働運動を支配してしまった。規制緩和の中で国家制度そのものも株式会社の手法に組み込まれていくコーポレートガハランス。こう考えると資本が剥き出しになってあらわれてくるという印象をぬぐえない。私のいま考えている点、規制緩和も投資対象を増やす。バブルをうんだものと、一昨年来言われている規制緩和の意味は若干違う。二回目の規制緩和は国家独占資本主義の大きな曲り角 に入っているととらえる視点が重要かなと思います。
大森 私は主としてアジア経済の分析をしています。吉田先生の言われるように敵がみえずらい中で、マルクス経済学は世界資本主義をどのようにとらえていくものなのか、二つの見方があると思います。世界市場をどのようにとらえていくのか。そこの論理だと思うんです。元々マルクスは世界市場を十分に解明せずに死んでしまいました。彼が描いていた世界市場は価値法則が修正されるわけですが、ひじょうに具体的で総体としての市場があったわけです。そういうマルクスから出発する 見方と、戦後の転換、レーニンですら想定していないようなものすごいレベルでの企業の国際的な進展、近年急速に増えてきている。企業自身を誰がコントロールしているのか。実は国民経済レベルでなくて世界市場そのものが企業に影響しているのではないか。市場メカニズムが世界的でなければならない事態をどうとらえていくかということです。近年国際経済に関わる学会での論争は世界市場そのもの、世界経済全体がもつ市場メカニズムというものが増えているように思います。世界市場を創設するためには単一の市場がそこにあるはずですが、経済統合がすすむだろう。先ほどのことで言えばヨーロッパはEUとしてまとまっていく。南北アメリカもそうだろう。アジアはどうなるのか。三つの極に分かれている。世界市場と統合は、世界市場の競争をそこの中で排除していくブロック化がすすんでいくのかという気がしています。なぜそれが日本でみえにくいのか。ヨーロッパと違って日本は伝統的にアジアとの結びつきで理解しているわけです。個別の論理でいきますと対アメリカ関係ということで、地域統合ということでAPACなどではアジア、太平洋となるわけです。しかしアメリカからの自立性がないと日本として困る部分は何かと言えば、日本の国家独占資本主義といえば日本の資本が日本の国家権力を利用しなければならないわけです。日本の国家権力がアメリカに従属していたらまずいわけで、一定の距離を離したい。そういう中での政策転換がさまざまあるのではな いか。
 具体的に外交レベルでは80年代後半ですが、日本がもっている環太平洋の構想以降いろんな議論がなされてきているわけです。対米協調は続いていますが、日本独自の外交をアジアに力点をおいてやっていくべきだ。例えば、昨日の新聞に載っていましたが、ODAでも歴史的には移民のこともあって中南米にもだしているわけです、これはリストラしてしまっていいんだ。もっと戦略的にアジアに投資するんだといった議論がまたでてきているわけです。世界市場という全体の規定性と、実際に進行している地域統合のからみ、そこにどんな外交策が反映しているか。ここを議論していくといいと思います。
 もう一つは円の国際化、北村先生はそれはあまり進展しないだろうと言っています。円はどうみても日本の通貨です。コントロールできる自国通貨です。ことを一定程度安定させないと、いかにアジアで企業展開してもドルに影響されてしまってはアメリカの金融政策に引きづられます。それを避けたい。円の国際化にも地道に努力しているまではないかという気がします。そのへんをどのように考えていくのか。もちろん日本だけでは支えきれませんからAPAC等々でも円とドルのお互いの安定化という議論をしているわけです。基本的には円の国際化、アジア圏内の特異性を保っていく方向を志向してるのではないか。それを明確に主張するとアメリカなどに叩かれますからしていません。円の国際化、決済通貨としての役割を高めていくと言っています。そのへんを々みていくのす。これは世界市場に関わる問題ですが、労働者の賃金の問題です。マルクスの段階では労働力の形成、世界市場があって、労働力に関しては各国につくられる市場がある、ということで国民経済の分析の意味があると言われたものです。一方で労賃に関して言えばアメリカに引きづられる形で切り下げの方向にいく。とくにアジアのNIESやアセアン等々では賃金の上昇化傾向がある。理論的に一定程度の平準化というものを考えなければいけないのではないか。たんなる各国のリストラでなく、労賃の均等性の方向性というものをどのようにみていくのかも検討すべきではないかと思います。これはそれ ぞれの歴史的背景や文化がありますが、そういう観点をもっておかないと世界市場の分析もできないのではないか。
司会 いま提起された三人の話は、われわれが『テーゼ』の改訂にあたって現代帝国主義の下部構造に関する問題については八割方でたと思います。内容に入って深めていただければありがたいと思います。独占資本の問題は伊藤さんも五月号で提起されています。東北大学の吉田震太郎さんが東北の協会の総会の時に「独占の概念じたいも使うべきではない」という意味の発言をされています。したがってこの問題は今日一日ということではありません。『テーゼ』の改訂にあたっては重要な 問題なんです。そういう点についても自分の意見をだしながらやっていただければありがたい。
伊藤 二点について意見を言いたいと思います。一つは多国籍企業についてですが、昨日「たいしたことはない」と言った意味です。これまでは日本の主たる支配層は日本独占となっていてわれわれが対峙する相手もそうだと言ってきた。それが多国籍企業化で変更を加えるところがあるのか。日本はあまりそういうことはないだろう。相変わらず主な支配層も変わらないだろうと言ったわけです。ヨーロッパについては変わりうる要素が若干あるかもしれません。それほど大きくはないので はないか。問題になるとすれば途上国の中に、主たる権力の中に多国籍企業の要素が入ってくることはありうると思います。基本的な情勢分析の上でキーワードになるというふうには思えない。それと多国籍企業と国民経済が矛盾するという言い方ですが、これはよくわからないし、にわかに賛同する気になれないところです。そのへんで説得力ある説明があれば教えていただきたい。二つ目は、福祉国家から逆流しているとか、自由放任に向かっているという点についてです。流れは誰がみてもあるとあると思うんです。一方で考えなければいけないことが他にもあると思うんです。一つはなぜこうなったのか。世界的な高度成長の時代が終わって余裕がなくなったことがひじょうに大きいのではないかということです。その意味ではこれかも長く続く傾向なのではないかと思っています。他方、政府、国家によるコントロールであるとか、経済への介入がなくなりつつあるかと言うと、強化されている部分もあるし、これからもあると思うんです。
 例えば80年代にアメリカを中心に金融的な動揺があって梃入れが日本もふくめてあったわけです。金融機関の救済はできにくくなりましたが預金を保全するということでかなり国家が介入したわけです。国家の介入は大きかったし、財政にあたえたダメージも大きかった。もう一つは国際政策協調が行なわれている。これも合理的期待論とか新古典派の言う通りだったらナンセンスのきわみになるがやらざるをえないわけです。ケインズ的な路線になるわけです。成長率が落ちて余裕がないところで、削ぎ落としたけども枠組みは残らざるをえない。国際政策協調については日銀もふくめてですが、国際決済銀行の場でドルとユーロ、円の三極の通貨を、かつての固定相場制ではないですが、目標相場圏に入れてあまり大幅な為替の変動によるデメリットをなんとかコントロールしようという検討がすすんでいることはあります。これについてはドル圏、ユーロ圏に比べて円圏ができるかというとかなり弱いと思います。日本も三極の安定化の枠組みの中に、円圏ができるかどうかは別にして、入らないと図体の大きい奴が大暴れしていたのでは世界的にみて攪乱要因ですから。それも世界的なコントロール、介入がむしろ強まる要素があるのではないかと思います。そういう中でのわれわれの戦術ですが、資金的に余裕がないですから無茶な要求はできないんです。言い換えれば、合理性や効率性を念頭におきながら政府の介入とかコントロールが必要だということを主張していくことは、一 周遅れかもしれませんが西欧社民が戦後やってきたことをもうすこし洗練された形で主張していくことが必要になってきているのではないか。
津和 レポートは二大テーマで多国籍企業と新自由主義です。伊藤さんの最初の提起がありますから私の意見を申し上げます。敵は日本独占であるのはいいと思う。多国籍企業というのは今日的な独占の形態であって、形態変化のもつ意味は重要だととらえないといけないのではないか。われわれの主要な敵は日本独占だが、国籍のない資本になったわけではないのでそれでいいが、その意味でコメントも合わせて申し上げたい。多国籍企業化と新自由主義はじつは裏腹な関係ではないか。自由 主義政策を遂行させている大きな背景に多国籍企業があるととらえないといけないのではないか。これは大森さんへの質問とも関連するんですが、ブロック化が急速にすすんでいて、大森さんはかなり強いブロック化論者だ。つめていけば帝国主義戦争の可能性についてどう考えるのか。誌上討論では「ない」と断定しているようです。背景にあるのはレーニン段階の帝国主義と現代の帝国主義の大きな違いがあって、資本形態が多国籍企業ということになっているのではないか。多国籍企業同士は、旧植民地にそれぞれ投資しあって、ある意味では共同支配、管理する格好になっている。植民地分割戦争みたいな形態はどなくなっているのではないか。最初の出発点は体制間矛盾で、社会主義世界体制が一方にあったことが大きい背景ととらえるべきではないか。『テーゼ』の基本的な立場をふまえながら連続的に分析できることではないかというふうに思っています。そういう意味では世界市場分割戦争と言う実態ではないか。お互いに自由貿易と自由生産体制を要求する。先進国同士も要求しあっていく。国内的な自由体制も、拒否するところはしていると思うが、一面そういうやりとりがありながらも大きな流れでは自由体制化をすすめていく。日本自身もすすめるから勝ち抜く体制をどうつくるか。その政策的あらわれが新自由主義になっている。それがおおかれすくなけれ政策になってきた背景にあるものではないか。そういう全体的なとらえ方をすることが必要ではないか。そうい う中で明らかに日本は軍事的に海外派兵をしたがっているし、国連常任理事国になるという線も筋書き通りにすすめそうだ。対アメリカで出たり入ったりはあるが、協調の枠はあるが独自にやろうとしている。自衛隊も出ていこうとしている。それは必要として要請している。海外に出ていく時のイデオロギーが旧態的なものではなく、国際貢献というのはそのスローガンで、天皇イデオロギー的なものは位置づけは低くなっているのではないか。そういう一連の体系的な分析につながっていくのではないか。そういう意味で、そういう主張をしているグループの提起は受けとめて、本来は労農派がそういう論理展開ができる立場にたっている感じがある。多国籍企業の問題を正面からとらえていくことが課題ではないかと思います。
松永 20年くらい前に石油ショックがあった後に、協会規制があって、『道』見直しをやって、新中期政策の議論の中で労働者自主管理研究会が「資源問題で大変」と石油が枯渇するかのように、「生活水準を大幅に引き下げなければいけない」かのようなことを言った。「社会主義は乏しさを分かち合う」とマスコミにヤユされた。「社会党が政権をとったら牛肉も食べられなくなるし、マイホームも持てなくなる」とヤユされたわけです。石油の問題は予想以上の省エネ、掘作技術の 向上、北海油田の本格的生産で86年は石油価格が暴落しているわけです。90年には26ドルくらいに戻している。じりじり上がっている。中国が輸入国に変わった。インドネシアも枯渇して輸入に転換していくだろう。アジアも経済発展で原油事情は急速に増えていくと思う。そういうことが将来どういう影響を与えるか。クリーンエネルギーの開発の速度とか省エネ技術の速度とかわかりませんが、ある途上国で民族的な革命が起こるかもしれない。不確定要素でなくて、もう少し石油問 題はもっと具体的な問題だと思いますから、そういうことからくる多国籍企業の国際的な競争の条件が、原油という問題を考えてみると予測できない事態があるのではないか。『テーゼ』に関わることですが、現在あたえられた予見のもとでの分析にもとづいて情勢分析をしなければいけませんが、いまみたいなことを考えてみますと、帝国主義戦争という形態をとるかどうかは別にして、そういう矛盾をどのようにとらえるかという問題があるのではないか。やや中長期的に考えると帝国主義戦争がなくなった、ブロック化についてあまり断定的にいうと、労働者自主管理研究会ではないが、状況が変わるのではないかという気がしているので、考え方についていろいろ教えていただきたいということです。
立松 多国籍企業について意見がでています。昨日発言できなかったことをふくめて質問をかねて申し上げたい。従来多国籍企業は60年代から問題になっていました。その時はアメリカ帝国主義の世界支配の主柱だというとらえ方をマルクス経済学の方はしていたわけです。対米従属論者はの立場はまさにそうでした。われわれもそういう面はあると思っていたわけです。70年代に入りますと日本が対外直接資本投資を始めまして、日本帝国主義が本格的に海外進出を始めたことのあらわれだとわれわれはとらえた。日本帝国主義、あるいは現代帝国主義の経済的側面として多国籍企業を位置づけてきた。われわれの伝統的な見方だったと思います。最近の状況をみると古典的な見方だけでは不十分なところがあるのではないか。先ほど伊藤さんが言われたことに重なるんですが、従来われわれはアメリカ、日本、ヨーロッパでの国際協調というのは社会主義があるから、お互いに漁夫の利をえられないように団結して発展途上国の搾取で先進国同士が手を握っていく。そういう形でみていたわけです。現在、社会主義が崩壊した中でもう一度かんがえてみるとそうではないだろう。経済じたいがかつてないほどグローバル化していますと、お互いの国の利害調整が決定的な重要性をもつわけです。これは変動相場制になってからそうなってきたし、金利にしても政策にしてもお互いに調整していかないと自分の国の都合だけでやるわけにはいかない。日本もこの80年代、90年代、一番日本経済が苦労しているもそういう政策協調、国際的な産業調整ではないかと思うんです。先ほどの多国籍企業のことも自動車産業の直接投資をみても、むしろ国際協調の立場で仕方なくでていくとい、ホンダなどは最初から積極的なところがありましたが、ニッサン、トヨタ、とくにトヨタなどは最初から消極的だった。他のケースでも産業調整の国際的な流れの中で、多国籍企業化も自らの生き残りのために選択せざるをえないという側面もあるのではないか。円高じたいも政策協調の結果うまれたもので、日本だけが貿易黒字を貯め込むというのは経済のバランスを崩すというわけです。生産拠点の海外移転ということもこういうことになっているわけです。したがって多国籍企業を積極的に推進して、その中でグローバル化がすすんでいるのではなくて、グローバル化がすすむ中で国民生活優先でなく、国益のためにお互いの国益を規制しあうことが必要になってきている。その中でもアメリカがわがままな態度を示すとか、ブロック化の中でも違った思惑があるということも経済外交の中にあるわけです。それを見落とすと世界資本主義を正しく理解できないのではないかという感じがします。多国籍企業という場合でも従来的な帝国主義の世界支配、対外進出という面だけでなく相互作用もみていかないといけない。矛盾する見方かというとそうでもないと思うんです。バランスのとれた見方が必要だという気がします。それとの関連ですが、政策協調、国際的な産業調整をやらねばなら ないことをどう考えるか。私は山形にいて、この間の円高の時に県内の中小企業のアンケートの結果をみますと親会社の生産拠点の海外移転にともなって下請けの発注がストップする動きが強まっていて、経営難に陥っていることがはっきりみられるわけです。生産拠点の海外移転は規制すべきだという意見もあります。そういう政策なり規制が客観的な国際的な産業同盟という中で正しい政策なのか。受け入れられるのか。国際的にも国内的にもです。これは見当違いの要求ではないか。日本がマレーシアに工場を移すことは現地も歓迎している。それに対して政府が行くなという規制が現実的な政策なのか。円高に対する救済としては新製品の開発、新しい市場の開拓とか、付加価値をはかることでは中小企業を支援していかなければならない。もう一つ考えなければならないのは、いま山形で中小企業が親会社が行くということもあるし、海外に生産拠点を移したい。これに対して山形も製造業が強い県ですから円高対策は金融的な支援をとっているわけです。外国に行くについては支援はしないわけです。それによって県内の雇用が奪われる。そのことを支援するのはおかしい。通産省はやっているんです。海外移転を金融的に支援する政策がありまして、山形では利用が高いという話を聞きます。そういうことをどう考えるのか。現に円高でやっていけない企業に対していろいろな方法がある。しかしなかなか解決の方法がない。生き残りのために中小企業が中国に生産拠点を移したい。あるいは部品の一部の工程を移したいということがあった時に、これはもっと支援していいと思ったわけです。多国籍企業化と日本経済の矛盾があるのではないか。すぐに政策の問題にからんできます。矛盾とみれば規制しろ、となるわけで、国際的な協調、資本主義の中での改良を考える場合にまず政策協調をわれわれとして優先すべきだということであれば、雇用への影響をなるべく緩和することを打ち出していかなければならない。そういうことを考えてかいますから皆さんの御意見をう かがいたいと思います。
山崎 僕は協会の情勢報告の一部を2~3年前から分担するようになって、その頃から興味をもちはじめました。なんで興味をもったかと言いますと、90年代の資本主義と80年代の資本主義と比べて、70年代とくらべてどこが変わりつつあるのかを考えたんです。ひじょうにはっきりみえるのはグローバルライゼイションということで自由貿易化がすすんで商品と資本の動きが激しくなった。社会主義国という邪魔ものもいなくなったわけです。そういうことがすすんで多国籍企業がいま まで以上に活動しやすくなることはたしかで、そういうことがすすんで力のあるものが総合的には勝っていくという程度のことしかわからなかったんです。その時は自国の国益との矛盾というのはあまり問題にならないのではないか、調整してやっていくので進出していく場合にも相手も力が大きいからその国の法律や国益をまもるような顔をして営業していかないと商売もうまくいかない。それほど反抗することはない。発展途上国に行った時は相手が弱いから、時には政府の意向に反することょやることもあるだろう。しかしいまはかつてのように簡単にはできない。かつて70年代にやってかなり失敗して民族解放闘争とぶつかって、その点でも慎重であると思います。それは現実の企業の動きをみてもヨーロッパに進出しているドイツのオペルという会社はゼネラルモーターが100%の出資です。これはドイツ人であればドイツの企業で、アメリカの企業とは言わないわけです。イギリスに進出したトヨタはまだ日本の企業と言われている。進出してその国の税金もそれなりに納める。財界活動にも参加すると言う一定の期間の後でその後のその国の財界での発言力もでてくるしその国の資本として活動できるというふうになっているし、日本の企業もそれをめざしてはいる。日本の国内でも経団連の役員の割り振りはだいたい納めている税金と自民党への政治献金と財界への活動の協力の度合いでバランスをとっているようです。財界での発言力はそういうことで決まっている。それを 壊すような行動をとろうという大資本はいないのではないか。そういう冒険はおかさないと思う。ヤオハンみたいなところは失敗しいるわけです。そういうことをやって多国籍企業は何が利益か。多国籍企業にしても国内で売るのと本質的違いはあるわけではないが、経営が安定するということははっはきりししているのではないか。売り上げが伸ばしやすいし、工場も適度に分散する。為替レートの変化にも適応しやすい。いまの巨大独占は安定した中で毎年10%も20%も売り上げを伸ばそうということはあまり考えていない。他の企業より多少売り上げが伸びることを維持すればいいと大枠では考えているようで、ぼろい儲けは失敗も大きいから考えていないのではないか。多国籍企業というのは大資本の場合はそういうことだと思います。それからアジアに進出しているのは日本では中小企業がほとんどで、大企業の場合はアメリカ、EUに行っているのが多い。トヨタはアジアではノックダウンの工場くらいしかつくっていないし、中国にも出遅れて行っていない。フランスにはイギリスに次いで大きな工場をつくる。先進国の市場を相手に安定的な商売を安定的にやることを大資本はめざしているのではないか。アジアは90年代に入ってからは日本とアメリカとEUが資本の投資で三分の一くらいづつで、EUの各国から比べれば日本は大きいけれどアメリカとほぼ同じ、まとめてEUと同じくらいという進出の傾向です。これでアジアが円圏になったとは考えにくい。APACの 動きでもアメリカを引き入れて、アメリカが介入してくるのを日本は賛成している。いまのところはそうことではないか。将来どうなるかというと、進出先で紛争が起きた場合に自衛隊が出るかどうかは考えておかなければならないが、いま行っているかどうかは区別しなければいけないのではないか。例えば海外派兵するには空母と海兵隊を持たないとできないわけで、されをつくるには数年かかるわけです。その空母と海兵隊はいまは持っていない。それを持つまでの間に相手の地域と戦火をまじえるような紛争を起こすかというと、それまではアメリカに頼っているわけで、将来の危険性を指摘することは必要だが、現状の政治の判断は現実に動きをみてする必要があると思う。
熊谷 五月号に伊藤さんが書かれていることですが、現代の資本主義を支配している資本はどのような特徴をもっているか。これを独占資本という概念で理解できるのだろうか、とおっしゃっています。隅谷さんは「金融資本と言っておいたらどうか」と言っていると紹介されています。金融資本について伊藤誠さんは『産業資本であっても金融形態をとるのが金融資本と考えたい。そうであれば巨大株式会社と言った方が分かりやすいのではないか」とおっしゃっています。その後の討論でも 混乱があるように思います。独占資本と株式会社と金融資本と多国籍企業とをごっちゃまぜにして議論してはいけないのではないか。独占に対するものは非独占ですし、株式会社というのは資本の調達形態で、個別企業、同族会社に対する概念です。そこをきちんと考えて独占、非独占の理解が重要ではないかと思います。金融資本については伊藤誠さんの理解に少しびっくりしています。先輩の文章にしても、資本論でいう貸し付け資本を金融資本と理解していて最近は驚いているんです。帝国主義論で書かれている金融資本という概念は独占的な産業資本と銀行資本とのいろんな結びつきがあった関係そのものを金融資本といっていると私は理解してきたんです。間違っていれは指摘してください。
 こちらがだめだからあっちという理解ではないと思います。多国籍企業という言葉については、ある意味で不用意だったんです。独占的な株式会社形態をとった海外進出している企業を多国籍企業ととらえてきた。先ほど話題になりました中小企業で海外進出しているものを多国籍企業といっていいかどうか。支配的な資本というものであれば独占的な巨大株式会社として海外進出しているものを多国籍企業という言い方をすれば混乱はないという気がします。
成清 昨日からの話をうかがっていて多少ダブルところがあると思いますが一つ私の感想として申し上げたいのは、レーニンが帝国主義論で展開した帝国主義と今日帝国主義と言われるものはかなり変わっているのではないか。レーニン時代の帝国主義はそれぞれの独占資本が国益を代表する形で資本の取り引き、植民地の支配、資源の収奪をやったと思う。それを国家が後押ししてやらせていたと思う。いまの帝国主義はまったくそういうことがなくなっているわけではない。レーニンの言っ た帝国主義よりもドライになっている。つまり国益とか地域というようなものはある程度無視しても独占の利益のために世界中を飛び歩く。飛び歩くという意味は物をつくって販売するために一番利益が上がるように一番近い資源を買うし、安い部品を買うし、安い労働力を手に入れる。そのためには生産拠点も移すというふうに従来よりもドライになってきているのではないかと私は思っています。そうなっきた原因は冷戦体制のもとから冷戦が終わってよりそこはドライになっているという感じなんです。市場経済が世界的に発展していく中でアメリカでも不平等が広がっているわけです。所得の不平等、賃金格差の広がり。昨日もサービス業のことを取り上げて賃金の低いサービス業が増えているという話があった。日本でもこれからこういう傾向がでてくるのではないかと思っているわけです。いま地球上に五六億、七億人とか言われている。比較的豊かな暮らしをしているのは北米とヨーロッパ、日本を中心にして十億人くらいだと思うんです。その他の地域はそれぞれに格差も大きいし、厳しい貧困もあるわけです。不平等もある。遅れた国ほど環境破壊がすすんでいる。すすんだ国が遅れた国に環境破壊を押しつけている面もあるわけです。森林の伐採もそうです。多国籍企業が、例えば三井金属がフィリッピンに行って銀を生産している。銀をつくることによっていろんな有害物質がでるわけです。それをフィリッピンに押しつけておいて銀だけ日本は買う。日本では銀の生産 により環境破壊は少なくなったがフィリッピンにもっていっているわけです。そういうことがたくさんあるわけです。ようするに地球規模で一方に貧困と不平等がある。グローバル経済が発展していく中で先進資本主義国の中にもだんだん広がってきているのではないかと思うんです。どうするかですが、昨日から言われているように、立松さんはイギリス労働党のようにできるだけ痛みが少ないように、というお話がありました。今日は伊藤さんが、西ヨーロッパがやったような社会民主主義的な政策を日本でも研究しなければいけないというお話があったと思うんです。 西ヨーロッパに行く前に日本は切り下げられようとしているわけです。そのへんはわれわれが努力しなければいけない目標だろうと思うんです。
 もう一つは津和さんが言ったことの関連です。日本の独占が軍事的にも進出しようとしているのではないかと言われた。それは国際貢献をイデオロギーにと津和さんは言われたように思うんです。これは私の乏しい軍事問題の知識から考えてみまして、日本が独自に自衛隊を武力行使を目的に海外派兵することはいまのところ考えられないと思います。武力行使を目的とした、武力行使が必然的にともなうような自衛隊の海外派兵はいまのところ考えられないと思います。山崎さんが言われたように自衛隊はそういう軍隊になっていないという問題もあるんですが、もっと政治的に大きな意味があると思うんです。東南アジアでなんらかのトラブルが起きたとしても日本の自衛隊が独自に出ていって何かをやることはきわめて冒険であって、マイナスが大き過ぎてそんなことはやらないと思うんです。ではその時にどうするかの問題はあります。
 大森さんの話で、アジアで円の国際化に努力しているのではないかという話がありました。おそらくそういうことを考えている人はいるが、円が国際通貨としてもっとウエイトが高まっていくためには日本自体がアジアからもっと輸入しないとならないのではないか。いまのような日本の貿易構造では円のウエイトがなかなか高まってこないと思うんです。アジアの国々の外貨準備はドルが一番多いわけです。場合によっては円よりマルクの方が多い国があります。こういう状況はアジア諸国からの輸入が少ないからではなかろうか。大森さんへま質問です。
北村 答えになるかどうか不安です。私のレポートで多国籍企業をどのようにとらえるかについていろいろ意見をいただきました。私も基本的に日本を支配しているのは日本独占資本でいいと思います。日本独占のあり方が変わってきていることは言えると思います。注目していくべき要素だと思うんです。
 津和さんが指摘された新自由主義政策が全面化したというのは、アメリカが一番早くて60年代にはアメリカの支配的な企業は多国籍化していた。そのこととの裏表ではないか。どれくらいわれわれが豊富化できるかが問題だろうと思います。市場メカニズムをいかに利用するかという問題が一つの背景ではないか。もっと具体的な民営化の事例などをみていくと、それぞれの国における独占資本がこれからの事業展開を考えていくうえで各国のどの規制が問題になったかということであって、規制緩和や民営化が行なわれてきた。概括して課題をまとめあげることが大事だと思います。国際的な産業調整ということが立松さんからだされました、トヨタの話でいやいや進出したようなところがあった。まったくその通りだと思う。
 90年代に入ってみると、初めはいやいやだったが、いまは海外に生産拠点をもって、それをどのように統括していくのかで企業の経営を考えなくてはいけなくなっている。一つの段階をこえたのではないかと思います。
 伊藤さんから多国籍企業と国民経済の矛盾と言うが何があるのかと指摘されまして。いまのところそんなに鋭い対立はないと思うんです。鋭くはないが利害が完全に一致していることはみられない。われわれが多国籍化した独占資本をみる時に、国益は独占資本の支配ですから、そのように提起すれば国益と相反することはないんでしょうが、国民経済とのバランスを保つことと独占資本の利害が一致しているかというといつも一致しているとは言えないのではないか。考えておいた方がいいと思います。現実にどうなっているか鮮明に言えないですが、基盤としては、成清さんからドライになっているという話がありました。その側面はあると考えなくてはいけない。もともと資本の本性というところはビヘイビアをとるものと考えなくてはいけないと思います。
 円の国際化について思いますのは、その体制をかなりつくろうとしていると思うんです。一昨年の80円の円高の過程は主な円需要先しアジアの銀行だったということで、必ずしもいま準備通貨として使われているということではないんですが、動きはでていると思います。日本の金融体制は、指摘されたように輸入の問題が大きいと思います。 もう一つは日本国内の金融市場の体制です。これで円市場がきちんとできるか、東京で運用できるかという、日本の円の通貨体制と金融市場の整備ができてこないとできないので、いままさにそこに独占はそこにとりかかっている。日本銀行の独立性をもっと高めるとか、ビックバンとか言われている。それじたいの合理化の側面はあるが、同時に円の国際化も射程においてやられていると思います。
大森 円の国際化と軍事的な問題がありました。円の国際化は北村さんからあった通りです。もう一つ考えているのは、吉田先生は敵があまりみえないとおっしゃいましたが、私は日本の中小企業の経営者が一番敵だと思っています。ヒヤリングにいきますと海外にかなり進出していまして、円を使って決済したいから円を国際化しろと言うんです。そのことはかなりすすんでいくだろうと思います。ドルとの関係がいつも不安定である、いつも失敗しているという反省点を彼らはもっている。 そういう意味で言うと中小企業の親父も敵だと思います。もう一つ、日本の軍事的位置づけで言いますと、海外派兵かどうかよりも帝国主義戦争ですから他の帝国主義とのバランスです。そこで喉から手がでるほど欲しいものは何か。それは核兵器です。それを手に入れる。独自核開発は失敗していますから中国との同盟です。それができればヨーロッパのフランスの関係のように、それを持てればアメリカとの交渉に強気で臨める。そういう議論が一部ですすんでいるんです。戦争するかは別で、抑止力として欲しいのは核なんです。核がないから自衛隊を強化しても関係ないんです。いま日中軍事同盟と一部で言われていますから、そういうところにいけば持てる。ヨーロッパがあれだけ強気に発言できるのもフランスが核を持っていることがある。そういうことも視野に入れておかないと誤ってしまうのではないか。核を手に入れてしまえば軍事力は順番に拡大できるわけです。そこの性格はいままさに準備中だと思います。
 

吉田 多国籍化の質問がたくさんでたので、私が答える立場ではないのかも知れませんが、私は新保守主義と裏腹の関係ででてきていると思います。具体的に言いますと、帝国主義の中で々位置づけたらいいのか。レーニンの帝国主義論で言っている五つの規定では当てはまらなくて、無理に当てはめると資本輸出くらいしかないんです。私のイメージする資本輸出は、ただ資本を海外にだしていくものがまさに多国籍業的に動くようには立てないだろう。新しい資本の形態としてとらえる。新 しい資本の形態という概念が入ってくると『テーゼ』の後半部分がテーマになるだろう。軍事に関しては核兵器が欲しいだろう。先ほど誤解を受けたので訂正しますが、資本がソ連・東欧を飲み込んでいった。それが日本でなぜコーポレートガバナンスなのかと言いました。コーポレートガバナンスという概念は独占資本の経営者が自分の懐を肥やしたり、独占資本の利潤を食い潰すような行為を正すと言う議論の中でうまれたものです。いま日本でやっている株主代表訴訟で、一株主が7000円くらいの訴訟費用を払えば経営者を裁けるということでやられている。それでいまの経営者は震えあがっている状況です。これをコーポレートガバナンスと言っています。その現状だけにとらわれないで、独占資本が株主を排除して、経営者も排除して、資本の100%の代弁者が必要だ。経営者も労働者化、サラリーマン化しつつある。独占資本と言う敵はあるんです。階級闘争として誰と闘ったらいいのか。人間対独占資本という構造はわかるんですが、労働運動で打ち出すものがなかなかみつからない。それが私の言いたかったことです。
司会 その問題については労働運動研究部会で議論して『社会主義』の1月号に提起したんです。その関連で5月号で伊藤誠さんと対談したんです。私の方から問題点だけ言っておきます。日本の階級闘争が全面的に壊滅してきた。これをどう変えるか。グローバライゼーションというのは90年以降は質を異にして激しくなってきている。労働者階級に対する攻撃は異常なくらい強化されてきている。労働市場の横断的な臨時工と縦の基幹産業の労働者とは完全に分離しています。そういうこ とで敵がみえなくなっている状況がある。派遣労働者とかが何人も入ってくるんです。そことどうったいいかと現場を歩くとよく聞きます。そういう問題を背景にして書いて考えてきたんです。なぜ90年代にこれだけ規制緩和にしても労働者攻撃にしても攻撃は激しく、質を異にしている。経過は省略しますが、とくに80年代に海外進出、80年が85億ドル、84年が100億ドル、87年がピークで670億ドルです。90年に一度下がって、九四年からまた全面的に上がっています。これが物質的な土台という考えです。多国籍企業というのは、自分は規制緩和をして、進出国の規制緩和を要求していく。アメリカから日本は攻撃されて規制緩和をせざるをえない面もある。自分が出ていくために規制緩和せざるをえない。中小企業が全面的に崩壊していくのは必然的だと思う。もう一つ、多国籍企業は、話があったように、日本が一番遅れているし、しかも全面的に進出するわけではないんです。トヨタにしてもマツダにしても自国を本拠にして労働者のリストラ、飢餓貿易、為替相場の変動によって海外に出るとか使い分けています。当然のことです。多国籍企業といっても本籍地はあるわけで、外に出る時は必ず国家権力と結合します。問題の焦点は多国籍企業と国民経済と国家権力を明確に分けて考えていく必要があるだろう。国家権力と結合しなければ海外には出られません。当然現在の体制では多国籍企業が進出してきます。国民経済との矛盾は必ずでてくる。当然の ことだと思います。具体的な問題は、規制緩和でいうならば、GDPは70年以降は停滞している。多国籍企業の巨大200社くらいの利益は上昇しています。失業者が増えてきていて現在の状況では減る見込みはないんです。こういう現象ははっきりおさえておく必要があるだろうと思います。多国籍企業のグローバライゼーションというのは全体の傾向としてすすみます。これはみておかないとまずいと思います。したがって国家権力の概念がでてきますから、多国籍企業の共同支配というのは間違いだと言っているんです。本籍地の国家権力と結合しなければ出れない。進出国に対して国家権力が圧力を加えるのは当然のことです。国家権力の概念を明確にとらえる必要があるだろう。無用なトラブルを排除するために、90年代に入ってアメリカは戦略構成の再検討をやっています。結論がでたのは九五年のナイキ報告で、承認したのが橋本の96年の声明だ。多国籍企業と明確に書いていま す。海外進出をまもっていくための軍事力ということで強化しなければならない。これに日本が入っていったわけです。現在アメリカの巨大な軍事力の傘に入っている状況で、いま話があったように核は持ちたいでしょう。しかしアメリカとぶつかる話にはならないです。帝国主義戦争の可能性は薄らいできているだろう。先のことはわからない。以前は社会主義体制があるから帝国主義戦争は起こらないと言ってきた。
 労働者階級に対する強烈な合理化攻撃がある。その現象はますます明確になってきている。ソ連・東欧がなくなったから帝国主義戦争が起こるということではないということです。規制緩和にしても2000万人合理化にしても労働者階級に対するリストラは徹底して強くなるだろう。そういう把握です。それが国民経済、農業や中小企業の崩壊につながってくるから、われわれの言ってきた反独占統一戦線は労働者階級の力を強めていけば条件は成熟している。日本労働組合はアメリカもふくめて先進国の中では最低です。どうすればいいか見込みがないくらいです。私も地べたを這うように歩き回ったり、組織したり、ストに参加したりしていますがきわめて困難です。こういう状況をどうかちあげるかという問題意識があります。そこが問題意識の中心なんです。火のないところに煙はたたない。労働者階級が立ち上がらないかぎりはどのうな攻撃を受けても国家は衰退していきます。資本主義の自己崩壊はありえないです。サローというマサチューセッチュ州の経済部長が「日本は階級闘争もやめたし、規制緩和も満足にやらないからつぶれていく」と言っている。いま日本はアメリカの10年遅れですべてを踏襲しています。文化、教育、労働組合もです。一方で二重の労働市場ができていきます。地域紛争は帝国主義戦争ではなくて、強力な軍事力をもったアメリカが軍事同盟をやって発展途上国が文句をいったら武力でやっつけるという問題です。それは当然ありうる。多国籍企業が 進出できないくらいに混乱しているアフリカの南部に対しては、NAFTAやアセアンは強化されるでしょう。アメリカに対してアセアンは当然団結します。そういう観点はある。多国籍企業のアメリカの資本と矛盾するものではない。アメリカは包み込んで中に入っていく。ブロックがいくらできても自由に走り回っています。貿易に対しては関税とかやるが、多国籍企業はどうぞおいでください、ということなんです。私が強調するのは、第二次世界大戦の直前のようにブロックの対立が生じているというのは間違っている。問題としては労働者階級に対する合理化、世界の労働者に対する福祉合理化の全面的な攻撃がかかる。肝にすえて階級闘争の配置、労働者階級をどうするか。全生活がしめあげられてきています。
津和 私の提起に対して立松さんが言われました。グローバル化に対して調整がある。私は調整機構をもっていると規定してはいけないと思う。グローバル化をすすめたのも多国籍企業であるし、調整を必要としているのも多国籍企業だ。WTOというのは全体として自由体制をどうつくりあげていくかということだと思う。
 二つ目に、軍事的な海外進出の問題で提起があった。武力行使でずくにどんぱちと申し上げたわけではない。現段階における軍事的な目標、展開をどうしようとしているか。それは綿密に分析しておかないといけない。はっきりしていることはPKOで派遣したことは事実だし、安保再定義で後方支援については踏み込むことをやりはじめた。理論としては小沢調査会以来国連軍として参加することについては憲法違反にはならないという解釈をだして、それとセットで常任理事国化をめざしているわけで、それはアジアの軍事的プレゼンスをどうアメリカとの提携の中ですすめていく道は着々とすすんでいる。それは現代帝国主義の軍事のあり方だとみれると思います。単純にどんぱちやるという気はさらさらないんです。しかし明らかに自衛隊は巨大化して海外に展開していることはまぎれもない事実で、その関連を全体の中でどうおさえるかが大切ではないか。多国籍企業と国民経済の矛盾は規制緩和じたいが大きな矛盾をうみだしている。広い意味でとらえる必要があるのではないかと感じました。
柴戸 80年代から90年代に入る頃に日本の場合は東アジアに経済圏をつくろうという構想がでてきた。それに対してアメリカが激しく叩いてAPACにもっていったという経過があった。同じ時期に軍事的に世界に展開できるものをつくろうという動きが小沢答申もふくめてあって、アメリカが叩いて中で新防衛大綱と日米共同宣言になった。新防衛大綱は日米共同宣言を先取りして、アメリカを補完する形で地域紛争に出ていくことを明言している。それなりの衝動はあったが、日本とアメリカの経済的、軍事的な関係、軍事的にいえば核を持っているかいないかは決定的な問題だ。日本は核への衝動は隠せないほどもっている。いずれにしてもそれはできないと妥協した。アメリカとの妥協の姿がきわめて包括的な議論がさまざまなレベルで日米間で行なわれて、それが日本の国連の常任理事国について動きをあたえたと、私は大枠でそうとしか理解できない。 したがって、昨年来膠着したかにみえますが、アメリカのすごい後押しで国連事務総長も更迭している。この3月から国連常任理事国入りの形がでてくると思います。日本の外向的な展開でいうと、国連の五つの常任理事国の賛同をえないかぎり常任理事国になれないんです。対立をしながらも中国なりロシアなりに日本的な政治姿勢、経済的なものもふくめて抑制しながら行動していると理解している。思惑通りに常任理事国、来年2~3月が最終的なメドにしていますし、批准という問題がある。それが成立した後は露 骨な政治的、経済的な意志が表面化するだろうと理解しています。
杉田 昨日ヨーロッパで社会民主党が活躍していることをお話しました。新自由主義の中で社会民主党が政権をとっても規制緩和という政策は変化しないだろうという報告がされました。それは産業構造変化の要請があるかという指摘だったと思います。問題はそうにあるのでなく、一歩突っ込んで、ヨーロッパの社民が東ヨーロッパをみていると苦しんでいる。財政、金融、物価問題です。失業問題なり、社会保障削減についてどうするかと苦しんでいるわけです。ある意味で社会主義の遺産を継承して社民的な政策をどうその中に反映するかやっているわけです。今度フランスで選挙があります。フランスでどういう政策を提起するか。そういう苦しみの中で具体的に民営化なり規制緩和なりを社民がどうしようとしているかがあると思うんです。方向はその方にあると思うがかなり社民の内実が違う。そのところにもっと切り込んでいくべきではないか。
 もう一つは世界資本主義の中で、例えば中国にしてもベトナムにしても社会主義的な市場経済化と言っています。しかし東ヨーロッパの経験をみますと経済的には同じような現象なんです。財政問題、金融問題、物価問題、とくに失業問題が発生しているし、社会保障をどうするかという同じような現象がでてきていて、一方では東ヨーロッパでは社民政党、中国、ベトナムは本当に社会主義なのか。共産党が政権をとっていて、調査してみると社会主義の姿をとっていないうな気がするんです。例えば民営化でもホーチミン市今年50社、来年は100社を株式会社にします。国営企業の株式会社化というのはどういう内容なのか。スロバキアは従業員の持株なんです。そういう形の民主主義的な措置をとる。うまくいかないんです。チェコの場合はクーポン制をとります。ハンガリーの場合は民営化のテンポがひじょうに遅いです。いろいろ事情があるわけです。社会民主党的な政策と言って も、傾向的にはそうかもしれないが、もっと切り込んで社会主義的な市場経済化も視野に入れながら新自由主義の下の社民党のあるべき役割についてもっと細かな調査、研究をすべきではないかと思います。
司会 8月23~24日に吉田さんの問題提起でやりますので、ここに集まっている方が全部集まってくれることを期待しています。この討論は『社会主義』の増刊号に載せます。支部で『社会主義』を使って学習会をしていたたき、意見をあげていただきたいと思います。理論部会の方々は率先して県支部、支部の学習会、討論会に参加していただければありがたい。それを集約としたいと思います。

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