「バブル」とは何だったのか

「社会主義」1994年1月号(社会主義協会

                              北村 巌

1980年代の「バブル」現象
 1980年代の主要帝国主義の経済政策の基調を特徴づけるとすれば「新保守主義」という言葉で表現できるだろう。米国におけるレーガン政権、英国のサッチャー政権、西ドイツのコール政権などは前任のリベラル派ないし社民主義政党の政権を批判して登場した新保守主義の旗手達であった。それぞれレーガノミクス、サッチャリズムなどの言葉も生み出した。日本における中曽根政権の成立もその亜種といえるだろう。新保守主義は1970年代の資本主義体制の世界的後退と動揺に歯止めを掛け巻き返しを図るイデオロギーの総称とも言えるが、経済政策に限ってその特徴をみると、一、国営(有)企業の民営化、二、労働運動の弱体化を通じた賃金抑制によるインフレの抑制、三、累進課税の緩和、設備投資減税、四、軍事費の増額、五、一般的福祉予算の削減、六、公務員の削減、七、種々の政府規制の緩和、八、国際資本移動の自由化、などなどである。

 こうした経済政策は、1974年前後の原油価格の大幅な引き上げ(先進国産業に対する産油国支配階級による「地代」の大幅な引き上げを意味した)を契機とする深刻な不況と労働運動・社会主義勢力の伸長をなんとか抑えきった後の各帝国主義内部において、資本主義延命のために労働者階級への経済的妥協をせまられた状態からの脱却を図るものであり、各国中小ブルジョア大衆の支持を受ける内容であった。これには当然様々な理論的な装いがなされた。例えば、ニューヨークの金融街ウォールストリート生まれのサプライサイドエコノミクス、所得税の累進制の緩和による減税を正当化するためのラッファー曲線等々である。あるいは日本における行政改革の国民的合意づくりである。

 同時に注目しておかなければならないのは帝国主義各国間の闘争の要素である。新保守主義はそのイデオロギーからして、本来は緊縮的な財政政策を要求し、ケインズ的な財政支出拡大による景気対策を否定するものである。これは70年代以降、とりわけ主要な基幹的大工業が慢性的な過剰設備を抱えた状態になっていた中で、帝国主義各国間の我慢比べを意味した。オイルショック時に拡大した財政赤字を削減し実質の長期金利を低下させて民間投資が回復する、すなわち資本蓄積の条件を整えることが競争に勝つ道だったからである。逆に帝国主義間の協調という側面からみれば70年代後半に行われた機関車論(日、独の財政に世界景気の安定を求めること)が限界に達したためでもあった。第二次オイルショックを契機とした80~82年の不況が長期化した要因のひとつともいえるだろう。

 この我慢比べに勝利する方法はコンピューター技術を核とする合理化による生産性の向上であり、そのことによる世界市場における競争力の優位の確保、そして輸出をリード役とした成長の実現(マクロ経済的な国民経済のバランスの維持)ということに尽きる。このことは当時熱情を持って独占資本から語られていたことである。例えば日本は通産省と大手電機メーカーの協力で超LSI開発を官民総がかりで行った。これが今日の日本の半導体産業を形づくるうえで大きな意味があっ たことは誰も否定できないだろう。

 80~82年不況のなかで我慢比べに音を上げたのは米国であった。82年6月のメキシコ金融危機という米国の金融システムを揺るがす事態が発生したからである。不況が長期化し失業の増大など労働者階級にそのつけが回され続けられ、労働者階級の反抗が強くならなければあるいは資本に抑え込まれ続けているうちは、米国独占資本も我慢比べを続行できただろう。しかし、金融システムの破壊(=不況の金融恐慌への転化)は体制の崩壊を意味するだけに容認できないものとなる。中南米の債務危機は米国の緊縮政策によって中南米諸国からの対米輸出が伸びなくなったことが直接の原因である。しかし振り返ってみればそれ以前の米国からの貸し付けを源資とする資本財の輸入が効率の悪いものであり、これら諸国が世界市場において有効な競争力をもてなかったことが本質的な問題であった。もし競争力をもてるような投資の可能性があったのなら、米国企業による直接投資が活発であったはずだ。ということはつまり中南米諸国は70年代に単に米国の過剰な貨幣資本と過剰な資本財生産力のはけ口にされていたということなのである。これは途上国側が輸出志向でなく輸入代替志向であったために経済危機が起きたという通説だけで説明しきれないという可能性を示す。

 メキシコ金融危機はもちろん国際金融危機であるが主要にはその債務の主たる貸し手である米国の大手銀行の危機であった。そして米国の大手銀行の危機は米国の信用システム全体の崩壊につながる。あるいはそのことを通じて米国の独占資本の存立に大きな脅威をおよぼす。

 ここにおいて金融緩和は必然的となった。軍拡による需要、住宅関連の減税(別荘の取得にたいして金利の税額控除を行うなど)や投資減税(加速償却など)による財政からの刺激もあいまって米国は資産インフレをともなう景気拡大期へと突入した。米国における「バブル」現象の発生である。レーガノミクスは超ケインズ的景気拡大策に転化したと一般に揶揄される所以である。しかし、やはりレーガノミクスはレーガノミクスであって、歳出の増大は軍事費と社会保険関係のみであり、減税による財政赤字部分が超過需要を発生させ、景気を刺激したのであり、ケインズのいう公共投資を主体とした景気安定化政策とは枠組みをことにしている。増大した需要の中身にも問題は大きかった。税金逃れのための採算を度外視した商業用賃貸ビルや別荘の建設、また金持ちの耐久財消費(高級車、自家用機など)が爆発的に伸びた。米国は五%を超える実質GDP成長を実現し、輸入が急拡大し、貿易赤字も爆発的に増大することとなった。そうした経済状況に並行して全般的資産インフレが発生した。

 資産インフレの波は米国発であり、それは日本、英国に波及し、さらにフランス、ドイツへとひろがった。米国での資産インフレのひどかった時期は83年から87年である。

 資産価格は基本的には将来期待される収益(土地なら地代、株式なら配当)を割引率で現在価値に直したものの総計であると規定される。ここでいう割引率は利子率(長期の利子率が問題)とリスクプレミアム(価格変動に対する報酬=資本間の配分の仕組みと考えられる部分)から構成される。この当時の世界的な資産インフレは、金融が緩和され利子率が低下したことがひとつの要因であるが、それ以上にリスクプレミアム部分が大きく低下したという事実を観測することができる。つまり<企業収益/長期金利>で示される指数の上昇を超えて実際の資産価格は上昇した。リスクプレミアムは余剰となっている貨幣資本の量と投資機会の規模との関係で決定されてくる。つまり、リスクプレミアムの低下は貨幣資本の世界規模での相対的過剰の反映なのである。

 もちろん、こうした状況は投機的な売買を活発化させ資産価格の変動を増大させる。しかし、一般的によく言われるように「価格上昇が始まるとそのキャピタルゲイン狙いからよけいに投機的な買いを集め価格がさらに上昇した」ということだけで説明できるほど単純なものではない。それはすべての投機一般にあてはまる説明でしかない。実際、株式市場でみれば通念的に「バブル」期といわれている86~89年の四年間あいだにそうした投機が市場を支配したのは87年8月~87年10月、89年9月~12月の合計約半年の期間だけであった。先程のような説明では87年のブラックマンデーで株価が大暴落した後にもなぜふたたび継続的、全般的な株価上昇が起きたのかは説明しにくい。

 東京株式市場の株価指数であるTOPIX指数についてその利益と長期金利に比較したときの割高、割安度を図った指数(イールドレシオ)の動きをみてみよう。先に紹介した専ら投機が爆発した時期にはイールドレシオは急激に上昇して急激に下落するということが観察される。それよりもバブル期に決定的なのは85年以前と比較して86年からバブルが崩壊したと言われる現在に至るもこの指数で100程高い位置を変動が激しくなりながらも概ね維持している点である。このことはリスクプレミアム(前述)が86年に構造的に大きく低下してからそのまま低下しっぱなしということを示しているのであり、バブルが本当は終わっていない可能性を示唆しているのである。

 このように資産インフレは金融自由化そのものによってもたらされたのではなく、貨幣資本の相対的過剰の反映であった。金融自由化はいわばそうした過剰状態におちいった貨幣資本の投下先を求める資本の要求から説明されるべきであろう。その意味で、現在の資産デフレを金融自由化の矛盾として捉えようとする「複合不況論」(注1)は誤りである。そうではなくて貨幣資本の相対的な過剰の矛盾の発露とおさえられるべきだと筆者は考える。

 貨幣資本の相対的過剰は現代の独占資本主義のもとで宿命的に発生し拡大しその矛盾を発現させていく問題である。独占資本は市場の独占・寡占を通じて独占価格を実現(高い製品価格、安い労働力、原材料、部品価格)し、超過利潤を獲得する。超過利潤は売上の一部分として貨幣形態で獲得され、その大部分が蓄積されていく。景気変動によるブレはあるもののこの蓄積速度は当然のことながら実物経済における財サービスの需要の増大に必要な生産手段の蓄積の速度をおおむねつねに上回り続ける。

 この矛盾にたいする総資本の対策は最終需要の人為的拡大(投資機会の創出)=それへの信用供与による貨幣資本の金融形態での投下先の確保に帰着する。これは発展途上国への貸し込みであったり、財政赤字による需要拡大や消費者信用の拡張であったりする。すなわち自らの所有する生産手段の蓄積以外の形態で蓄積を資本に転化しようとするのである。

 簡略に数字の例で消費者信用が拡張することで過剰な貨幣資本が形成されることをとらえてみよう。生産手段の価値が1000であるとき一年間の総価値生産が500であったとする。このとき、剰余価値率は100%でしたがって賃金部分が250、剰余価値部分が250である。簡単のため剰余価値は資本家の消費には回されずすべて蓄積されるとしよう。総生産物のうち300は消費手段で200が生産手段であった。労働者の賃金では250の消費手段しか購入できないが資本が50の価値にあたる消費者信用を労働者に与えることによって労働者に300の価値のすべての消費手段を購入させたとしよう。このことは結果として労働力の再生産費未満の賃金しか支払われていなかったことを示している。資本家の蓄積250は生産手段の追加によるものが200、労働者への貸し付けによるものが50ということになる。二年目においてはどうなるか。生産手段は1200に増加し総価値生産も600に増加したとする。また剰余価値率は変化せずに賃金は300、剰余価値も300であったとする。しかし労働者は前年に資本から50の借金をしているのでその元本と利子とあわせて60を資本家に支払わなければならない。すると消費手段の賃金からの購買力は240に低下する。600の総生産物のうち360が消費手段、240が生産手段と前年と同じ割合の生産がなされ、また労働力の再生産に消費手段360が必要だから労働者は改めて資本家から120の借金(ネットでは70)をする必要がある。こうして資本家は二年目には生産手段の増加による蓄積を240、労働者への貸し付けの増大による蓄積を70実現することになる。この蓄積合計310はこの年の剰余価値額300よりも労働者からとった利子分10だけ多いことになる。

 これが実は継続的な消費者信用拡大の意味するところである。また労働者を公共財政と置き換えても同じことである。生産手段の蓄積と貨幣形態での資本の蓄積のスピードのアンバランスは階級間の貸借関係の拡大ということによって実現されるのである。貨幣資本の相対的過剰がつねに持てるものと持たざるものの両極への分離を加速させるように現象してくるのはこのためである。

 具体的に振り返ってみると70年代においては帝国主義国は主に発展途上国への貸し込み競争とそれをテコにした資本財(しばしば時代遅れの)を中心とする過剰生産物の輸出によって本国の不況を緩和するという行動をとった。これには前述の理由のほかに途上国側がそれまでに一次産品価格の大幅な引き上げを行いうる政治経済的条件が整っており、途上国への信用供与は安全であると考えられたからである。米国の主要大手銀行が中南米諸国に貸付を累増させていったのはこの時期である。しかし、このメカニズムは80~82年不況による一次産品価格の暴落とメキシコ金融危機により限界を露呈させた。

 レーガン政権のもとで次の手段となったのが財政赤字の拡大であったのである。増大する軍事予算は国内産業への影響をみれば、軍事のハイテク指向によってコンピューター産業に市場を提供するものとなり、すぐに民生には結びつかなかったがマイクロエレクトロニクス技術の進展を支えた。低金利政策は不動産投機をあおり、建設ブーム、都市再開発ブームをもたらした。米国経済はこのブームによって超過的な需要拡大により、それまで海外に蓄積した過剰な貨幣資本を再吸収し、87年には対外純資産がマイナスに転じた。これはかならずしも独占資本が過剰な貨幣資本を生産的に吸収した(生産手段に転化)ということにはならない(なぜならば、国内の財政の累積赤字と消費者信用の累増に振り替わっただけだから)が、米国国民経済としては対外債務超となり日本などの他帝国主義国の資本にその過剰な貨幣資本の投下先を提供したのである。

 米国がバブル的好況に沸いていた八七年まで他の帝国主義国は対米輸出の増大で国内経済のバランスをかろうじて保ちながら、国際競争力をいっそう強化した。とりわけ日本は対米輸出によって大幅な貿易黒字を獲得し、国内の過剰資本の投下先を米国への証券投資に振り向けた。

 しかし、85年の米国のドル安政策への転換以降、バブル的好況は他の帝国主義に「輸出」されることになったのである。86年の全般的な世界的景気停滞の後、日本と欧州にバブル的な好況が発生した。これは対米輸出で稼いだ貨幣的蓄積がドル安政策によってこれらの国の内側に向かい、ドル安によるこれらの諸国の交易条件の大幅な改善が内需型景気拡大の条件となったからである。欧州の場合は九二年市場統合への漠然として期待感も設備投資ブームに火をつけたといえるだろうし、西ドイツにおいてはドイツ統一も景気の加熱を作り出す要因となった。

 とりわけ最大の経常収支黒字国であり貨幣資本の過剰状態が極まった日本においては強烈な資産インフレが発生した。6大都市地価指数(不動産経済研究所、89年下期=100)をとると、80年上期17.4がピークの90年上期には104.5と約6倍になっている。こうした地価上昇は計数的にいって地代の上昇や長期金利の下落によってはその60%程度しか説明がつかない。これはもちろん投機の作用によるものであるが問題なのはそうした投機を生み出すメカニズムはどんなものだったのか、ということである。地価と同様の現象は株価にも現れた。興味深いことであるが、6大都市地価指数と日経平均株価は、不況期に地価が下方硬直性を示すのを除き、戦後ずっとほぼ同じ比率で上昇してきている。80年代における上昇の過程もほぼ 同じであった。すなわち、共通の投機の論理が作用していたということが推察できる。

 イールドレシオをもちいて前述したとおり株価についてみると86年の半ばからはっきりとした構造的な変化が起きていることがわかる。それまでは、一株当たりの純利益金と株価の比率はおおよそ長期金利の半分程度でこの両者の関係は72年以来安定していた。ところが86年の半ばから株価が構造的に上昇する。これを株価形成の理論からみると、リスクプレミアムの構造的な低下が起きている証左と考えることができるのである。(注2)

 こうした資産インフレがどの程度、実物の財・サービス需要を押し上げたのかは測定が難しい。しかし、資産の売買によって財・サービスの需要がどのように喚起されたのかのメカニズムをとらえることはできる。若干例をあげてみたい。

 第一の例。地上げ業者が投機的売買で儲けようとして銀行から資金を借り入れ、住宅のたっている土地を購入したとする。その時、売却した人は代金で新たに郊外に住宅を建てたとしよう。この住宅建設は直接には借入金ではなくて現金で購入されるだろう。しかし、源泉は地上げ業者の借入金でありこれが間接的に住宅建設(売却した人の)という財の需要になった。つまり過剰な貨幣資本は間接的に住宅建設を誘発したわけである。ところでもちろん、銀行からの借入金は地上げ業者の土地の在庫という形態で保存される。これは転がされても同じことである。つまり投機者の手元の資産の在庫という形態で過剰な貨幣資本が滞留するのである。

 第二の例。株式市場を考えてみよう。株式市場には信用取引という制度がある。手持ちの現金や有価証券を価格変動の担保として差し入れることにより証券会社もしくは証券金融会社から借り入れを行って担保の何倍もの株式を購入するあるいは空売りする取り引きのことである。信用の買いの取り引きはいわゆる「バブル」期に著しく増加した。こうして信用取引の買い残高が膨張してくると、次のようなことが起きる。すなわち、信用取引の買い残高に見合う部分だけそれまで通常の形態で保有されていた株式が主に資産家の個人の手から売却される。ほとんどは長期保有された売却額イコール売却利益といったようなケースである。ここで実現された売却利益は一部は個人消費(たとえば高級車)に充てられるであろう。これはすなわち、過剰な貨幣資本が株式の信用取引の買い残高に変態した副作用として個人消費を誘発したケースということになる。

 投機目的や節税のための不動産投資によってワンルームマンション建設が伸びたり、大都市の中心部が地上げされて代替住宅が需要されたという効果があったことも事実であろう。こうした需要は家計に実現されたキャピタルゲインの総額にほぼ等しいかもしれない。この総額は86~90年の五年間で20兆円は超えていると見積もられるが、その実質GNP成長率への寄与度は多めにみて1%程度のものだろう。過大評価もできないが過小評価もできないといった水準である。この点で82年以降の米国の好況がその最終需要の増大をほとんどバブル的な消費と投機的な不動産投資に負っている一方で、実質賃金が漸減傾向を続け一般大衆の消費には大きな盛り上がりはなかったのとは少し異なる部分をもっている。

 日本の場合、資産インフレという起爆剤が景気拡大の契機になったことは事実であるが、いわゆる「バブル景気」の拡大メカニズムは設備投資好況であり、第一次オイルショック以降、縮小均衡的であった設備投資が大きく拡大、加熱していったことが特徴であった。すなわち、文字どおり「合理化の結果としての好況」だった。

バブル「崩壊」(変形)の必然性
 米国におけるバブルの「崩壊」は、金融セクターの不良化の顕在が原因となった。その意味で米国における長期不況は典型的なバブル崩壊による不況である。国内においてのバブル的な消費、投資の盛り上がりは、米国の中小金融機関の不良債権の増大につながり、倒産の激増につながった。10万ドルまでの預金保険制度があるにもかかわらず、銀行預金は忌避される傾向が強まり、いわゆるクレジットクランチの発生となった。リスクの現実化である。不動産への投機や消費者信用などリスクの大きい投機的投資、すなわち潜在的には収益性の小さい分野にまで過剰な貨幣資本が振り向けられたことの必然的な結果である。米国では超金融緩和政策によって現金通貨が市中に年率10%程度の速度でばらまかれているが、預金や銀行貸し出しの増加に結びつかなくなっている。不動産は能力過剰で賃貸料は低迷し続けているため、行き場のない資金が投資信託に流れ込んで株高を支えているきたのである。これは80年代の前半にバブルの一側面として現金通貨(正確にはハイパワードマネー)の伸びを大きく上回って預金と貸し出しが伸びるという現象があったことの反動でもある。米国の最近の景気は情報関連設備投資=ホワイトカラー部門の合理化によって立ち直りつつある。銀行部門も長期の低金利政策の恩恵と銀行倒産による整理が進んだため不良債権の整理が進展し収益を回復しはじめた。クリントン政権の財政赤字削減策への期待も長期金利を大きく低下させ住宅需要などに回復の動きがでている。しかし、ここに至るにはブッシュ政権以来の長い道のりだったのである。

 日本の場合にもバブル的な投資の負の遺産は大きく、金融機関や不動産・証券業者は大きな打撃を蒙っている。しかし、いままでのところ米国型のクレジットクランチは兆候がでてきたというほどのところである。不況のメカニズムはむしろ主要には過大な設備投資ブームの後のストック調整、つまり過剰生産能力の問題なのである。(注3) 金融現象で米国と対照的なのは金利は低下しているものの現金通貨の伸びはきわめて低率で、金融政策がいままでのところ実質的には若干緩和的だという程度にしか機能していない。そのためにいっそう設備投資を減退させ景気を悪化させてきた。企業収益の落ち込みで資本の貨幣的蓄積も鈍化している。しかし、独占資本は今回の不況をてこにして、いわゆる「団塊の世代」の中高年層の首切りに本格的に手をつけようとしている。不況は独占資本に取って労働者のナマ首を切る絶好の口実だからだ。それが財界サイドから政府にたいして景気対策についてなかなか要望がでなかった理由である。

 本格的に財政出動が決まったのは92年8月の株価暴落で信用システムへの危機感が盛り上がった後であった。しかし、名目10兆円規模の景気対策は実は市場を安心させるためだけのアナウンスメントだけであった。今後所得減税などの財政政策や金融政策の本格的な緩和への転換(もういくらも名目金利の下げ余地はないが)が行われても景気の改善は穏やかなものにとどまり続けるであろう。第一には過剰生産能力の調整には時間がかかるということ。第二には金融が緩和されて現金通貨が伸びを高めても銀行貸し出しや預金の増加に結びつかない米国型のクレジットクランチが今後は本格化する可能性も残されている。この場合には長期にわたる不動産投資資金や消費者信用の回収が続いて金融セクターの調整過程が進行していくことになるだろう。

 いづれにせよ、世界的に相対的に過剰な貨幣資本がインフレーションや金融恐慌によって破壊されてしまったわけではなく、バブルの根が絶たれたわけではない。ジョージ・ソロスに代表されるヘッジファンドの大規模な投機の活発化など変形はしたがバブルはたしかに生き残っている。確かに不良債権の処理といった形で貨幣資本の過剰は一時的な調整過程は迎えている。また株価や土地価格が再び一方的な長期上昇をすることもあるまい。しかし変形したバブルは景気循環の中でかならず再発してくる問題である。この事実は銘記されるべきでろう。


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