シン・エヴァンゲリオンは卒業の物語(ネタバレ有)

ついに今日3月8日、シン・エヴァンゲリオン劇場版が公開され、長いシンジくんたちの物語に幕が引かれました。
いや、幕が引かれたというより、幕が開いたと言った方が正しいかもしれません。

タイトルにもある通り、シン・エヴァンゲリオン劇場版(以下シン・エヴァ)は、エヴァのキャラクター達や庵野秀明監督自身がエヴァから卒業する物語だと私は感じました。

以下、稚拙な文書ではありますが、そう感じた理由を感想とともに記していきたいと思います。
ネタバレは極力少なくしますが、ご鑑賞がまだの方は、回れ右をしていただいて、是非2時間30分の膀胱との戦闘を繰り広げた後にまた読んでいただければと思います。



まず、全体を通してキャラ同士の今までのわだかまりや設定などが不明な点を丁寧に紐解いていることに、「あぁ、監督は本気で締めるつもりだな」と感じました。

特にアスカとシンジの関係。Qまでで、シンジとアスカの間に生まれた感情が、14年の精神的な差を持ち続けたまま物語が進んでおり、見ている側としてもどうしてもソワソワしてしまいます。
当の本人達なんかもっとソワソワしてムシャクシャしているでしょう。その関係性を今作では、しっかりと言葉にして、伝えて終わらせていました

もしかしたらの先にアスカとシンジが手を取り合って歩む物語があったかもしれません(シン・エヴァの終わり方的にはそういった世界があってもおかしくはないと私は思ってます。)が、庵野監督はそれを選びませんでした。
何故かは分かりませんが、初恋が実る訳では無いといった現実を表現したかったのではないかなと思います。どういう意図でこの結果になったかは、監督しか分かりませんが、結果がどうであれ、アスカにシンジがちゃんとした言葉で意思を伝える。これは、シンジにとってもアスカにとっても成長であり救いであったんじゃないかと思います。こうして関係性を進めるのは、物語においても、なにより現実においても重要なものです。この関係性の進展をきちんと描いたのは、現実を思い知らさせるためだったんじゃないかなと思います。


仮アヤナミの第3村での生活描写も素晴らしかったです。
人の図太さ、営みの尊さ、そういったものが細やかにしっかりと描かれていました。(エヴァを見にきたけど鉄腕DASHとかサクナヒメを見てるなって思いましたけど)
偶然ではありますが、コロナ禍で見れたことで、人との触れ合い、コミュニケーションの尊さがより伝わってきて、今までのエヴァンゲリオンにはないシーンになっていたと思います。


ストーリーの結末自体は、解釈が分かれるかと思いますが、私は仮面ライダービルドのようなラストだと解釈しました。
ビルドでは、戦いの発端である事件が発生しなかった世界と戦いの起きている世界を融合させて戦いの起きなかった世界を作るというものがラストの流れになるのだが、シン・エヴァでは若干ニュアンスは違うとは思うが、これと似ているラストになっています。

エヴァンゲリオンの呪縛から逃れ、戦いが起きない様にし、キャラみんながいるべき場所に行くには、こうした方が良いのではないかという判断でのラストだと思います。
庵野監督がエヴァンゲリオンから卒業するためにも、今作のラストは、パラレルワールドの存在や分岐エンドがあり得ると思われる終わり方にして、
「後は好きな人が好きなキャラの未来を好きに想像していいよ、僕はこれで終わりにするよ。」
と監督が伝えているような気がしました。

いや、カップリングについては雑だとは思いました。けど、納得も出来るのでこう考えて僕たちも後は先に進んでたまに振り返って好きな終わりを描いたり、別の人の終わりを楽しむ方がエヴァンゲリオンらしいんじゃないかなと思います。


これ以上書いていてもまとまらなさそうなので、ここで締めに入ります。
ラストシーンは、監督の出身地の山口県宇部市の宇部新川駅の空撮(アニメーションでなく、現実の)をシンジとマリが歩いていくというものでした。
エヴァンゲリオンからの卒業を、監督の地元にある駅から歩みだすシーンを入れることで観客自身にそしてなにより監督自身に強く意識させたのかな思います。
今作では、虚構と現実、コミュニケーション、エンタメの楽しさ、全てが詰まっていました。
長年見てきた方の中には納得いかない人もいるかもしれませんが、そういった感情も含めて前に進もうよ、というメッセージが込められている作品だと感じました。


稚拙な文章ではありましたが、以上で締めさせていただきます。
ここまで読んでくださった殊勝な方、ありがとうございました。
次は、シン・ウルトラマンでお会いしましょう。

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