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体癖名言集~奇数の論理、偶数の論理~

人と関わったり、ドラマや映画やアニメを観たり、TwitterのようなSNSを眺めたりすると、様々な言葉に出会いますね。
先人たちの名言や格言や、楽曲の歌詞など、世界はたくさんの言葉で満ちています。

感動的な言葉、勇気づけたり元気にしてくれる言葉、自分に共感してくれる言葉…
言葉は人を動かし、導き、人生の指針になってくれたりもします。

その一方で…
「それは違うだろう」という言葉に出会うことも。
自分の人生観とは真逆の言葉も、世の中には溢れていますね。

それならスルーすればよいのですが、世の中そう簡単にはいかない。
自分がAだと信じていたとしても、会社などで関わっている相手や周りがBだと信じていたら、擬態するなりして合わせる必要だって出てきますね。

そればかりか、最初は「違うだろう」と思っていたのに、感化されて考えを変えることもないでしょうか。
その考えがうまく自分や周りと調和して、より生き生きと生きることができるようになれば、それは素晴らしいこと。
柔軟性があるって、すごく賢い。

ですが、その言葉がより自分を低潮させ、人生の迷い子にしてしまうことも確実にあるのです。
気付かないうちに、無意識に。

というのも、この記事を書いている私ソシャフィアがかつて、まさにそういう事態に陥ったのですね。

過去のnoteで何度か書いていますが、ある心理学の教える信念を信じすぎて、その信念が自分にフィットしていることに気付かず、それを自分だけのものにしておけばいいものを、あろうことかお金をいただいて人に教えていたのです。
ネガティブなことがあっても自分の腹の底にある怒りや虚しさを押し殺して、無理矢理ポジティブになろうと、あるいはさせようと…

人間の姿勢としては正しかったのかもしれませんが、個人としての無意識の中では、決して正しくはなかったのです。
社会に生きる人間としては望ましかったみたいだけれど、体癖を持つ動物としては、うまくなかった。
その証拠として、臓器を一つ摘出するくらいにはしっぺ返しを喰らいました。
体癖的に言えば、ド低潮したのです。

ひょっとすると、今まさにそんな状況に陥っている人もいるかもしれない。
いや、確実にいるのです。

我がソシャフィア体癖院に来られる方の中にも、体癖と人生観がマッチしていない人がいます。
二種なのに、三種や五種のようにしなければならない、と信じきっていて、それができない自分はダメだと思っているのです。
あるいは、九種なのに四種のように人に合わせなければ愛されないと思っており、愛されていなければ生きている価値がないとまで信じている人も。

この記事で私が言いたいことのすべては、「頭にささったプラグを抜け!」ということ。

脳のプログラムにインストールされて、他のプログラムに干渉してエラーを起こしているアプリケーションを削除することで、もともと備わっているさらに素晴らしいアプリケーションを生き生きとはたらかせられるようになってほしい。

それでいて、周りとよく調和し、周りを応援し、周りから応援され、愛に満ちた人になってほしいのです。
リラックスして、安心して、楽しくて心が躍る人生を過ごしてほしい。

体癖は感受性を作り、感受性は価値観を作り、価値観は思い込みを作り、思い込みは感情を作り、感情は行動を作り、行動は未来を作ります。
誤解を怖れずに言えば、自分の体癖=感受性にマッチしていないアプリケーションなど、必要がないのです。

そんなわけで今回の『タイヘキストマガジン』は、”体癖別の論理”に関して述べていきます。

ここで言う”論理”とは、考え方、理屈、法則、主張、ロジック、言い分のことです。
その体癖であれば生き生きとする考え方のこと。
ですが、他の体癖を低潮させ、生き方を迷わせる理屈や主張のことです。

主張する人は、それがさも人生の真実で、絶対的な法則で、時にはデータを開示して、あるいは権威をぶらさげて、否定できない真理であると自信たっぷりに主張します。

が、主張は主張であり、思い込みは思い込みなのです。
その人がうまくいったことが、他の人をうまくいかせるとは限らない。
体癖の種の数に照らし合わせてみれば、10分の1は当たっているかもしれませんが、残りの10分の9は当たっていないのです。

この記事を読まれることで、あなたが…
・さらなる客観性を身に着ける
・自分の体癖にマッチした論理を知る
・さらなる柔軟性を身に着ける
・自分にとって良い考え方は取り込める
・無理なく生きられる

ように、偉人や有名人の格言・名言などでよく聞かれる発信などを例に引いて書いていきます。

心理学講師としてお金をいただいて自分の意見を押し付けて、多くの人を低潮させたかもしれない、罪深い人間として。

奇数体癖の論理と偶数体癖の論理

まずは、ざっくりと二つに大別していきましょう。

奇数体癖の論理と、偶数体癖の論理。

この『タイヘキストマガジン』にも何度も登場している言葉ですので、目にされた方も多いでしょう。
が、改めて定義していきましょう。

奇数体癖とは、鬱散要求体癖。
一種、三種、五種、七種、九種は、それぞれ鬱散(自分の中に溜まったエネルギーを発散する)の方向に、心身が”要求”します。
その自分の無意識からの要求(感受性)に応えることで、生き生きとする体癖です。

偶数体癖とは、集注要求体癖。
二種、四種、六種、八種、十種は、それぞれ集注(他の人からエネルギーを集める)の方向に感受性が働き、無意識的な行動をとります。
周りや特定の人から愛をいただくことで、生き生きとする体癖です。

奇数体癖が”自他からの愛に満たされていること”を前提として鬱散の要求を果たそうとするのに対し、偶数体癖は”自他からの愛に満たされていないこと”を前提として集注の要求を果たそうとします。

要は、奇数体癖は満たされていることがスタート。
偶数体癖は満たされるのがゴール。
ということは、それぞれの論理の出発点が大きく異なっているのですね。

ここまでは以前から言ってきたことで、以下からは新しく言うことなのですが…

極論を言えば…
奇数体癖の論理とは、”満たされている人の論理”。
偶数体癖の論理とは、”満たされていない人の論理”、と言うことができるのではないかと考えられます。

満たされていない人が満たされている人の論理を信じて実践しても、うまくいかないのは当然なのですね。
その逆も、同じ。
要求の方向を大きく違っているのですから。

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