「ずっと真夜中でいいのに。」がもたらす鮮やかな夜

先日、多くのYoutube民が心待ちにしていた「ずっと真夜中でいいのに。」の初CD音源である「正しい偽りからの起床」がリリースされた。

僕が「ずっと真夜中でいいのに。」に出会ったのは最初「秒針を噛む」がアップロードされて数か月後のことだった。具体的な日数は覚えていないが、恐らく少し遅いぐらいだろう。

僕はYoutubeのおススメ信者である。「それでも世界が続くなら」「Lyu:Lyu(現CIVILIAN)」「ヨルシカ」などを聴いてきた。そんな僕の目の前に現れたおススメに現れた私の死にたい世界とは遥か遠いオシャレなサムネイルのそれに、私は迷いなくマウスカーソルを合わせた。

人が思う「名曲の基準」は様々あると思う。僕はベースをもともと演奏していた経緯があり、「ほんの少しでもベースのカッコいいところがある曲」という基準がある(例外もある)。「秒針を噛む」は見事にリフからイケメンなベースラインが入った。とても好みのイントロだった。時間がなかった僕はこの「好きな予感がする曲」を「あとで見る」フォルダへ投げ込んだ。

それから数週間が経った。薬の影響などで健忘があり、すっかり「秒針を噛む」ことを忘れていた僕は、友人とのリズムゲーム、配信を楽しんでいた。その中で、共通の趣向を持つ僕たちが同じ動画に行き着いていたことを知った。それが「ずっと真夜中でいいのに。」だった。


それから1週間としないうち、2曲目がアップロードされた。

これが個人的に「名曲」と感じた。リフが最高だったし、曲の構成が面白かったのもあるし、ベースがイケメンだったのもある。そして、歌詞が解けるように自分の中に入り込んできた。この歌詞を書く人と自分はなんだか似ている気がした。そういう曲ほど僕は、好んで聴く傾向がある。

その日から毎日のようにこの曲をループする生活が始まった。聞くたび新しい発見があった。歌詞の意味の取り方など個人の自由といってしまえばそれまでだが、何度も聴きこむうち、僕にはこの曲の自分なりの全体像を感じることができた。


それから間もなく、本当に間もなくだった。3曲目がアップロードされた。

この時の僕の正直な意見を言おう。少し勇気がいるが。

正直、とても残念だった。自分の中で作り上げていた(今思えばたった2曲の)「ずっと真夜中でいいのに。」像ががらりと音を立てて崩れた。

自分の中で「ずっと真夜中でいいのに。」の中で共感できた点。それは自責や、不条理や、どうにもならないことや、そんなやるせなさを現実世界からじんわりとファンタジーの世界に流し込んでいく、コーヒーにミルクが渦巻いて一体になるような、そんな逃避のような、抗うような、夜にかきむしりたくなる、歌いだしたくなるそんな衝動を感じる世界観だった。
「ヒューマノイド」のAメロの歌いだしは「立ちはだかるボスをまだ」だ。サビには「プログラムだってこと?」とすら言ってのける。妙にピコピコしたサウンド。僕は激しい嫌悪感を抱いた。この言葉は現実とファンタジーに相応しくないと、そう思ったからだ。これではまるでゲームのようではないか。僕の「ずっと真夜中でいいのに。」は、現実のもやもや黒い何かをファンタジーというカラフルな世界に溶かして夜を作り上げていく、そういうイメージだった。

そして、このアップロードと同時だったと思う。CD音源が発売されると決まったという情報が曲とともにアップロードされていた。正直、迷った。僕は今仕事をしていないに近い身だった。とても出費としては大きかった。それでも、やっぱり購入しようと思った。理由は単純で「真夜中の魔法使えそうなBOX」が気になったからだ。僕もこれでも女(で厨二病)なので、かわいいものに弱い。実際のところ「ずっと真夜中でいいのに。」のアートワークによる影響は大きい。ファンタジーに黒をにじませるのは、ファンタジーという下地がなければいけない。現実とファンタジーを融合させるつなぎを大きく果たしていたのはこのアートワークである。僕は自分にそう言い聞かせて、購入を決意した。


CDの発売が近づいたころ、真夜中のLIVE配信があった。僕はこのボーカルは凛とした女性なんだと思っていた。全く違った、耳障りのいい声で、ぼそぼそと話す少女(年齢はわからないが、僕にはそう表現せざるを得なかった。)がそこにはいた。当然だ、あの歌詞を書いていたのが彼女であるならこうなのだ。彼女も「こちらがわの人間」に近く感じた。彼女はその場で、CDに入った音源の中で一番好きだといった「君がいて水になる」を歌った。

途端彼女はあの、何度もループ再生したあの声だった。凛と強く張った、感情が不安定に乗ったあの声だった。僕の好きな曲にカノエラナの「ヒトミシリ」という曲があるが、あのままであった。「なんで歌を歌おうと思ったの? 自分の意思をしゃべるのが苦手だからに決まってんじゃん…」この一説が頭を一瞬かすめた。でもそれを吹き飛ばすかのように凛とした声は柔らかく跳ねたリズムの曲を歌い上げた。風呂場で慌てて録音を回した。こんな曲も歌えるのか、夜に混ぜられるのか、「ずっと真夜中でいいのに。」は。

そして、彼女は最後に「ヒューマノイド」を歌った。それは僕の夜に綺麗に溶けた。

それからの僕は、離婚協議までにずっと「秒針を噛む」をつぶやき、泣いて過ごした。(この曲には救われたとしか言いようがない。余りにも状況に寄り添ってくれたからだ。)身辺整理で人にCDを譲る中、数年ぶりにタワーレコードへ足を運び、予約をした。


そうしてこのノートを僕は今書いている。

二日もぐるぐる何度も聴き続けた。私の中の「ずっと真夜中でいいのに。」あくまで一部だったことを痛感した。

3曲目の「サターン」を聴く、はっとした。歌詞が完全に今までとは違う。恋をする、女子のそれだ。メロディーと声でじんわり滲む。その後の現代らしいリズムや、「ヒューマノイド」のようなゲーム感は全く気にならない。歌詞と凛とした声がすべてを引っ張るように、恋をする前向きなのか後ろ向きなのかわからないもやもやしたなにかが、また夜に一筆乗せられていく。

4曲目の「雲丹と栗」を聴く。とてもやさしい曲調だった。そこには迷いつつも、誰かと寄り添いながら、自分らしく生きる前向きな言葉が並んでいた、そして真夜中を彩るキラキラした音たち。正直こんな曲が描けると思っていなかった。もやもやを乗せるだけが「ずっと真夜中でいいのに。」ではない。その概念がにじむ。

6曲目の「君がいて水になる」、ボーカル本人が好きだといった曲だ。静かだった。ほかの曲に比べて、ずっと静かな印象を受けた。音はある、でも何故かわからないけれど、静かだった。もの思う夜、独りで淡々と強く歌うような心地よさがあった。そして、誰かを確かに思う強い気持ちを感じる。そして理不尽な距離も感じる。乙女な夜の歌だ。君がいて水になる、というフレーズに強く共感できる、優しい歌だ。こんな色まで乗ってしまう。


夜は気持ちが落ち込む。けれども、夜には優しさもある。恋人と喧嘩した夜、誰かと笑いあった夜、雨の音に憂鬱な夜、美しい月に優しい気持ちになる夜、ぼんやりともの思う夜、理不尽に押しつぶされる夜、死にたい夜、どうしてを考え続ける夜。

そういうたくさんの夜を抱えての「ずっと真夜中でいいのに。」なのだ。夜に正解はない、たくさんの夜があるように、「ずっと真夜中でいいのに。」が夜に乗せる色も変わっていく。これからもそのたくさんの色を、真っ黒になるまで重ねてほしい。鮮やかな夜を、もの思う時寄り添う夜を、夜が、少しでも続けばいいのに。だからこその「ずっと真夜中でいいのに。」だと僕は感じた。

「秒針を噛む」の最後に「ハレタ レイラ」という歌詞がある。
この「レイラ」の意味はどこかの国の言葉で夜に相当するらしい。
夜はいつか晴れてしまうし、晴れるとまた夜が来る。この世界の摂理である。
けれど、「ずっと真夜中でいいのに。」の音楽は「真夜中の魔法」として、その鮮やかさで様々な人々の心に、3分なり5分なり、真夜中に沈めて、寄り添ってほしいと、僕は切に願う。

それはこれから先の音源に関してもそうである。もっともっと沢山の夜を見せてくれることを期待してやまない。




精神病持ちの邦楽好きでゲーム好き。健忘有り。 文章を丁寧に書くよりもその場で思ったことを勢いで書いていきます。 主に音楽、ゲーム、日常(疾病)についてです。