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ガンバ=攻撃的?鹿島らしさって? #さかろぐ #2020apr02


↑4月2日の「さかろぐ」第4回配信はこちら。配信から『サッカー13の視点 13人の研究者によるアカデミックサッカー講義』の「サッカーと集合的アイデンティティ」について、こちらは文字起こしの後半です。前半はこちら↓

ガンバ=攻撃的?

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邨:まずもうちょいわかりやすくするために、ガンバの例を出します。もともとこれを読んだのは大学3年のときで、『花火とロバ』って論文なんですけど、プレースタイルだけじゃなくナポリのマスコットの話なんかも書いてるんやけど、卒論でこれでガンバの話をできるのではってなって、最終的にはテーマが少し変わって別の話になったんですけど。(ガンバで)プレースタイルについて誰がどういう話をしているか集めていたことがあって、この3つのコメントをピックアップしました。

(参考:クリスチャン・ブロンベルジェ、有元健訳「花火とロバ」『現代スポーツ評論』第8巻、創文企画、2003、pp.136-150)

いつから「ガンバ=攻撃的」って言われるようになったのかって話ですね。例えば長谷川健太監督のときはちょっと違ってたよなとか、今はじゃあどうなんやろとか、いろいろあるけど言葉としてはずっと使われていて、それはどこからきているんやろってことなんやけど。この3つのコメントは、全部遠藤保仁選手のコメントです。

(※コメントの引用は『フットボールサミット』議会 編『フットボールサミット第15回 「攻め勝つ」ガンバ大阪の流儀』カンゼン社 p.14~24 より)

六:ああ、そうなんだ。

邨:そう。遠藤選手によると、攻撃サッカーは世間に根付いてきているし、それは2004年にブラジル人のFWでマグロンって選手がいなくなったから、ガンバの攻撃的な、パスを繋いでゴールに向かう、3点取られても4点取りにいくサッカーになったんだって話をしています。

六:誰かがきたからではなく、いなくなったからなんだ。

邨:遠藤選手のこのインタビューはいっぱい面白いところがあって、同じ話のなかでこのあときたブラジル人選手は「普通のブラジル人とちょっと違った」って言い方をしてる。「わがままでなくて、チームのためにプレーするタイプ。日本に合っている選手だった」って言ってる。これはこれでさっきの「日本人のサッカー」みたいな話ともつながってて、じゃあ日本に合っているってなんやねんとかも言えて、ガンバだけじゃなくて日本のサッカーって話にもなっていけるんやけど。まあまあそういう言い方をしている。

それから、さっきのナポリとユベントス(南部と北部)じゃないけど、「守りの浦和と攻めのガンバという構図もはっきりしていた」と。これも実際の試合展開でさ、ほんまにレッズは守り一辺倒だったとか、ガンバが90分攻めっぱなしやったかというとそうではない。

六:そうではないんだ。

邨:いや、わかれへんで。でも90分でボール支配率85%とかには絶対ならんからさ(笑)自分は2017年に卒論を書いたからそこまでの資料しかないんやけど、例えば長谷川監督も

「『点を取ってナンボ』という考えは西野さんの頃からチームに根付いている」「自分なりにガンバらしさを十分に理解しているつもりですし、もちろん成績も伴うようにやっていきたい」(Jリーグサッカーキング 2017年9月号 「ガンバ大阪特集」熱雷の青黒 “万雷”のゴールでタイトルへひた走る  p.18~19より)

って言ってて、なんとなくこのガンバらしさ、それは点をとって攻撃的にいくって価値観がすごく共有されている。実際のサッカーはどうあれ、そういう考えは選手にも監督にもあるって確認です。

六:なるほど。

邨:じゃあ一番下。「青と黒」「ぶちかませ」「もっといったれ」「大阪スタイル」って言葉が並んでて、これは全部チャントの歌詞です。例えば最後の「大阪スタイル」は「見せろゴール 貫けよ 大阪スタイル」って歌詞で、言われてみればサッカーの応援ってだいたいこういう攻撃的な歌詞になる感じもするんやけど(笑)

六:確かに(笑)

邨:こういう風な応援のスタイルにも、カラーが現れてるのかなとか。「ぶちかませ」とか「もっといったれ」は強い関西弁を押し出していってて、それは攻撃的なのかとか、関東に対する関西なのかとか、あと「大阪スタイル」は「ゴール」なんやと。攻撃的なスタイルっていうのを、実際のサッカーはどうあれ、応援のなかでも繰り返し語ってきたのではなかろうかという話です。

「鹿島らしさ」は相手から?


これはほかのチームではどうなんやろうっていうのはあって、「浦和らしさ」とか「鹿島らしさ」っていうのはどうなんやろうっていう。それってなんなんやって。大学生のときはそういうのをいちいち集めて、これは何を言ってんねんってずっとやってた。

六:これを聞いて思ったのは、「鹿島る」っていうのは、これまでの話では自分たちのチームやサポーターの話だったけど、鹿島は相手が集合的なイマジナリーを作り出してるんじゃないかなって。

邨:ああ、確かに。

六:それで、鹿島って周りからいろいろ言われるけど、実際の鹿島サポーターの人からするとそこに乖離があるんじゃないのとか、そういうのは思った。

邨:それはおもしろいな。気になる。

六:「鹿島る」っていうのは「鹿島られる」側の意見だから(笑)

邨:鹿島は選手がそういうことを言う印象があって、岩政さんも本の中でそういう話をされていたりして、それを読みながら「でもほんまは選手間でも考えていることは全然違うんやろな」とか、そういうことを嫌味たらしく思いながら読んでみたりしてた(笑)

六:それは俺を思った(笑)断定的に書いてるけどどうなんだろうって。

邨:それが、あたかも一個の「鹿島らしさ」って言葉で表現されるのが、まさにここでやってきた通り、集合的に想像されたものだなって考えられて、こっちも面白そうだなっていうのを思いながら、自分はガンバの方を調べていってました。

スタジアムの応援と想像性の継承

それで、じゃあここまで自明のものみたいに、集合的な想像力が引き継がれるって話をしてきたけど、それってどうやって引き継がれるねんって話が少し欠けてるかなって思ったので、ここからその話をしようかなと思います。

六:はい。結局疑問は残っちゃうよね。本当にそうなの?って。

邨:そうよね。ここで語られていることを、固有のものとか固定されているもの、基盤があるもの、っていう風にこの集合的な想像性を見てしまうと、話がそこで終わっちゃう。結局「日本人は〜」の話から抜け出せなくなる。でも、固定じゃないのにあたかもずっと同じように物語が共有されているのはなんでやねんっていう話にもなる。

それで、有元さんの章の最初のほう、63ページに「想像の共同体」の話があるんですけど。想像力を共有するためには、それを共有する場所や行動が必要だって話をアンダーソンはしていて、想像の共同体がもともと「ある」んではなくて、何かによって共同体を想像する、共同体に「なる」、この2つを使い分けている。
それをサッカーで考えると、さっきの「大阪スタイル」のような応援の話になるんじゃないかっていう風に考えて、そういう形で話をします。

まず、スタジアムに向かうことが、「巡礼」の形になってるんじゃなかろうかって話で、特定のものを身につけて、特定の場所に集まっていく。そこで特定の応援をすることで、想像力が共有されていく。こうじゃなかろうかって話。その応援が、実際のサッカーの現場でプレーに基づいて起こるから、サッカーのプレーは大事だし、その応援によって「ああ、自分たちは同じチームを応援してるな」ことが初めてわかるから、その応援で使われている言葉や歌詞が大事なんじゃないかってことです。

それを自分が歌うか歌わざるかにかかわらず、現場ではいつもゴールに迫ると歓声が起こるし、チャントはされてるし、それがいつも同じ感情に、一直線につながるかはわからんけど(笑)、現場のその瞬間ではいつも、そういうことが共有されている。固定された関係では決してないけど、それが毎回毎回繰り返されることによって、毎回毎回なにか想像力が共有されていくのがスタジアムなんや、ってことですね。

六:うんうんうん。

邨:だという風に、理解しております。まあこれって実際、どうなんやろうね(笑)

六:これを俺が納得感半分だなって思うのは、俺が結局サッカーを見る側の人になっちゃってるから、プレースタイルを共有するってもちろん見ている人たちでは共有することができるけど、プレーを見ない人たちに共有される想像はプレースタイルではないんだろうなっていうのは思う。例えば、あんまりサッカーを見ない人でも選手は知ってるってことがあるじゃん。共有するものって人だったり場所だったり出来事だったり、モノがあったほうが、想像の共同体にはなりやすいのかなって思った。プレースタイルを共有して共同体になることもありうる、でもそれより選手とか出来事、「ドーハの悲劇」とか「イスタンブールの奇跡」みたいな、そっちの方が強いのかなと思って読んでました。

邨:うーん。

六:ナポリの話も、プレースタイルを一番体現しているのはマラドーナだって指摘があったけど、実は逆なんじゃないかって思ってて。本当は実は共有してるのはマラドーナ自身であって、それをチームのプレースタイルとして思い込んでいるって感じがする。

邨:今言ったような出来事や選手を、あたかも自分のチームのことのように語って共有していくのが集合的な想像性なんやろうな。語られて、それが繰り返されるのが。サポーターとかクラブのアイデンティティとか。試合の現場でゴールが入ったり、特定のプレーに対してこういう反応をしますっていうのは、悪くいえばそれ以外の部分を捨象して、見なくしてるっていうのがこの考え方だよね。

六:見ないようにしているっていうのは、間違いなくあるよね。あとはさっきの話もそうだけど、自分たちのイメージ以外のものも間違いなくもっていて、イングランドの話とかも、今聞いても好まれてそうだなっていうのはあるじゃん。ほかのクラブにもそういうイメージはもってて、有元さんの56ページのところに「対一形象化」って話があって。これは二重否定系で定義することをいってたとえば日本人とは「日本人ではない人(ほかの人)ではない」って話になる。

邨:さっきのイングランドの話(前半)の話もそうやんな。日本人はイングランド人ではないってなったときのイングランド人って何かって、大柄で、体が強くてボール蹴ってきてみたいな。そうじゃないから日本人は小柄で、敏捷性があってって話になる。他者のステレオタイプと自己のステレオタイプと、二重に起こるねんな。

六:生み出してるし、もってるし、この本を読んでそこが面白くて、今の話と繋がるなと思って。なんだけど、と同時に、俺は川崎フロンターレのサポーターで、その川崎は攻撃的だってアイデンティティを多分持っていて、じゃあその時に「ガンバと何が違うの」っていうのをあんまり問題にしないというか。当然別ものだと思ってるじゃん。これは川崎らしい攻撃的サッカーとガンバらしい攻撃的サッカーがあって、攻撃的って部分では共通しているはずなのに、違うものだと思おうとしてるんだろうなって。これもひとつのステレオタイプだよね。

でもそれって仕方ないよね。全員が全員、全ての試合を見たり覚えておくことはできないし、だからチームを語るときにイメージで補っちゃうってところはあって。だけどやっぱりそのイメージがある程度似通ってくるのは面白いよね。

邨:そうね。そのイメージを共有する作業が毎回スタジアムで起こっていることだろうし、実況なんかでもそうかもしれない。この論文は1990年代に書かれて日本語に訳されたのが2003年だから、当然DAZNもない時代で。じゃあ家で見るファンはどうなのかとか、スポーツバーならどうなのかとか。物語を継承していく、共有していくとか、想像性を共有していく上でこれらはどこにあたるんやっていうのは、ちゃんと考えないといけない部分ではあると思います。


次回の配信は4月16日21時から!

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