サッカーと集合的アイデンティティとは #さかろぐ #2020apr02
↑4月2日の「さかろぐ」第4回配信はこちら。配信から『サッカー13の視点 13人の研究者によるアカデミックサッカー講義』の「サッカーと集合的アイデンティティ」について、こちらは文字起こしの前半です。
「頑張れ、ニッポン」と「We are REDS」
邨:僕が扱うのは第4章と第5章で、4章の有元さんと5章の山本さんが扱うのは2人とも共通のテーマについてです。理論として共通ですので、一緒くたにして話していきたいと思います。
六:山本敦久さんの方ですね。
邨:ぼくのスライドは小学生のやつなので…
六:いまどきの小学生はこんなスライドも作るの(笑)
邨:もっとかっこいいの作るよ(笑)大きなテーマとして、「集合的アイデンティティ」というのがありまして、第4章の方はイギリス時代の経験から、第5章は「We are REDS」という応援から始まります。で、まずこれが教えてくれていることとして、具体的なものから入るということで、これから始まる話も難しいですけど、世の中で起こっている具体的なことを知るために読む本なので、そういうところから入っているんやろなと思ってください。
六:はい。
邨:「We are REDS」って実況とか応援とかで使われているんですけど、この「We」が何を表しているのかってところからですね。当たり前なんやけど、「頑張れニッポン」みたいな、試合の5分前にコメンテーターが話してすぐCMに入る画が浮かぶフレーズは、
六:はい、ありますね。
邨:日本で放送されていて、これから日本を代表するチームが戦う時に使われるもので、実況とかもそうやけど、日本視点で語られることが多いと思います。日本を中心に語られると思います。それから、「We are REDS」の「We」ってなんやねんっていうのも、応援を繰り返すことによって「自分たちが」応援していますよっていうことを表明するためのものやと。試合をするためには必ず相手が必要なんですけど、「頑張れニッポン」とか「We are REDS」と言うことによって、相手を作る、敵がここにいると認識する、自分と相手を区別する、みんなでその図式を受け入れて、内面化する。それをすることで、「We」がほんまに「We」になっていく、というアイデンティティがその時形作られるんやと。そういう話があります。
六:はい。
邨:じゃあ、その話が続くのかというとそうではなくて。今回はサッカーの話やけど、サッカーの実際のプレーがここにはでてけえへん。これまでスポーツの社会学の研究っていうのは、サッカーを扱うとしてもその周辺を、クラブの周りにある文脈が語られることが多かったんですけど、サッカー研究というからには実際のプレーやプレースタイルが、どういう風に「私たち」のイメージを形成していくかってプロセスを考えましょうっていうのがここ2章の話です。
プレースタイルとアイデンティティ
六:はい。
邨:で、この2章に共通してでてくる人物として、クリスティアン・ブロンベルジェって人がいるんですけど。この人が、サッカーのプレースタイルと集合的アイデンティティの形成の話の研究をされた人ですよっていうので。この方は、小さなクラブであれ代表であれ、チームにはそれを代表するプレースタイルがありますよ、なんらかのプレースタイルで知られていますよって話しています。
(参考:クリスチャン・ブロンベルジェ、有元健訳「花火とロバ」『現代スポーツ評論』第8巻、創文企画、2003、pp.136-150)
六:はい。
邨:で、これが有元さんの方だと日本代表、山本さんのほうだとリヴァプールやナポリが例にあげられています。で、軽く例にいって日本代表だとどんな話になるかというと、「日本人は勤勉で、マジメで、細かい作業に長けてて、組織力があって」というステレオタイプがあって、日本人はこうだ、だから日本のサッカーはこうだ、こういうふうに戦うべきだってイメージがあると話しています。ナポリの方は「巧妙でずるがしこい」とか「面白い、ファンタスティックなサッカーをする」って風に言いますと。
六:うん。
邨:ここに問題というか、いい部分であり落とし穴もあるんやけど、ひとつは、サッカーのプレースタイルを語るときに、「日本人とはこうだ」「ナポリ(イタリア南部)はこうだ」ってふうに、自分たちが生きている社会や人生とすごい関わりがあるように語られる。日本代表の結果がでなくて「なんで日本の組織力を活かさないんだ」って言われるときは、これまで勤勉に会社内で活動して組織の中で活躍してきたサラリーマンがイメージされてセットで語られるっていうのがある。
ただ、ここに集合的イマジナリーって書いてあるけど、「日本だからこうだ」とか「ナポリだからこうだ」っていうのは、サッカー選手の現実のプレーに必ずしも対応しているわけではない。だけど、こういう風な物語が繰り返し繰り返し語られ続ける。それがローカルなコミュニティと結びついているように見える。
六:ね、ここが面白いよね。
物語の落とし穴と、超有名解説者の金言
邨:ナポリの場合は「巧妙さやずるがしこさ」を体現したのがマラドーナだったりしたということになっているけど、それもナポリって街のスタイルと一致していたから、南部の北部に対する対抗心だったり、比較のなかにあるナポリだからこそ神格化されたんだって説明されています。
六:なるほど。
邨:実際のプレーを見て、「ああやっぱりマラドーナやわ、ナポリやわ」って思う。それが実際の試合の中で毎試合同じ戦術やプレーが起こっているかどうかにかかわらず、「ああやっぱり」っていう部分を見つけ出して、何度も同じ物語が語られ続ける。そういうプロセスのなかにアイデンティティの形成があるんじゃないかって話をしています。
六:はいはい。
(コメント:イングランドで泥臭い選手が好まれてるのに通ずるものがある)
邨:プレースタイルは過去の何かを参照しながら共有されていく想像物なんだって話をしているんだけど、そうですね。たとえば実際はイングランドの戦い方も監督や選手が変われば変わるだろうけど、なんとなくこういう選手が好まれるように思うようになってるっていうのは、イングランド代表の過去の何かを参照しながら共有されていく想像物なんだって話をしている。
六:はい。
邨:で、この2人の話は最後にこの物語の批判的な読みになっていくんやけど、例えば「日本人の強みである組織力を活かせ」って、言ってる時点で日本人の強みって組織力じゃないやんとか。もし日本人の強みが組織力なんやったら、言うまでもなくそれはできてるはずで、言ってそれを求める時点でそれは「日本人に固有」の強みではないよねとか。
六:うん、そこが面白いよね。
邨:ナポリやリバプールのスタイルも、必ずしも現実の社会とサッカーとがいつも結びついているわけではないのに、あたかも一緒なものとして物語ができていっているよね、そういうところには気を付けないといけないよねって話になっていきます。
六:はい。
邨:最後に。有元さんの一番最後の文章で、山本昌邦さんが素晴らしいことを言っています。
オランダとコスタリカが示してくれているように、日本の選手のいいところを活かすサッカーが、日本らしいサッカーということになる。どの選手をどう組み合わせるかによって、どういうサッカーをするかは変わってくる。つまり、日本らしさは不変ではないのだ。日本らしいサッカーが一人歩きしてしまっているのが残念でならない。(山本昌邦のW杯分析「コスタリカらしいサッカー、日本らしいサッカー」2014年7月8日 https://web.gekisaka.jp/news/detail/?142759-142759-fl))
なかなか、普段は結構バッシングを受けたりもする方だけど、そんな風には思えないような(笑)
六:そうだね。
邨:この文章に関してはまさにそうだよねというか。それを問わないようにして「日本人といえば」「ナポリといえば」って言ってしまうと、現実を見逃してしまうよねって話で以上です。
次回の配信は4月16日21時からです!
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