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技術の進歩がレフェリーにもたらす副作用 #さかろぐ #2020feb20

VARは審判の負担を減らす?増やす?

:最後は山本主審の記事ですが、重ためですかね。:どうなんですかね。おそらくみなさん読まれたであろう、森さんのすごいインタビューですね。読みどころしかない、編集の形も含めて。
:結局最後にご飯の話はするんですね。
:あれはマストやから。
:あれがあって和らいだ感じはしますけど。
:そうね、ちょっと日常に戻ってこれた感じはあった。
:これを上げた理由は、僕たちが審判に求めるものが変わってきているなと思ったからです。すごく簡単に言えば、厳密性を審判に求めるようになっちゃっているなと。そこに生身の審判の方々が苦しんでいる状況にあって、それがこの記事に現れているなと感じました。
 この間のがちゃせこラジオでのVAR特集であったのが、審判が背負うリスクが多くなっているということ。つまり一個のジャッジが世の中にもつ影響が大きくなっている。すごく重たくなっていて、審判一人で抱えきれなくなっているなっていう話があったじゃないですか。
:ありましたね。
:そういった審判の負担を減らすために、VARがあると思っています。
:思っていた、俺も。
:思ってた?過去形?
:好意的なイメージとして、機械が人間の補助をするというイメージ。機械が人間ができないことを助ける、視野を確保するっていうのは当然そう。そういう構図、審判のためのが前提かなと、解釈して思い込んでました。
 ただ竹内さんの会を聞いて、リスクがあまりにも大きくなりすぎているからそれを避けるための判定基準の変化があって、主観的な意図よりも事実を重視してリスクを減じる。VARではそっちが主というか、何かが起こっていまう、一つのジャッジで試合が壊れた、勝ちと負けが入れ替わった、勝ち上がれなかったリスク。エラーって言ってもいいかも、めちゃくちゃ金がかかったエラー。そっちの方に主眼が置かれているなという印象に変わりました。
:たしかにそこのポイントはそうだね。できるだけ選手の意図ではなく事実に着目している、あれって審判の主観的な判断の割合を減らそうっていうことだよね。
できるだけ客観的に、客観的に。
:機械によって人間をアシストしているんだけど、結果的に主審のタスクとして、VARが入るかもしれないという事象が起こった時にする情報処理とか判断が複雑になったなと思いました。こういう場合だからこうします、こういう場合だからこういうやりとりをしてこうします、っていうようにプロセスが複雑化している。ビデオを使わない時に比べて。
一つ起こった事象に対して、これはこの場合だからこういうやりとりをしてこうしますっていう情報処理が複雑化しているから、主審の仕事が減っているかといえばそうではなくて、情報処理タスクが複雑化している、という印象をすごく感じた。主審の仕事が変わっている。
:あんまり変わっている印象はないです。もちろん処理する情報量は増えているんですけど、結局は主審が判断するための材料を提供するっていう位置づけに、(機械を)むしろ留めたと思っている。あくまでも最終判断は主審っていうところは変えずに、っていう意味で審判の尊厳、存在意義は守ろうとしていると思いました。
:ギリギリ、難しい制度設計やな。
:このあいだ西部さんがボリスタで書いたSF系記事の最後にあった、ドローンが審判として判断する、あの世界線はありうると思っているんですが、ああならないようにしようとしているんじゃないかな、とVARの制度設計からは思ってます。そこの線引きははっきりさせて、最終判断はその人のジャッジを尊重する、というところで踏みとどまっている。というのが僕のVARへの考え方。
:どうなんかな、そうか。いやあ難しいな。機械に使われる未来はけっこうどうなんかなと思う、、難しい。
:機械じゃなくても審判の権限って分散されていく、(審判を)増やす方向になっていて、見えないところは人を増やして対応しようという話になっていくと、審判の権限は分散されていく。
 個人的に面白いのが大相撲で、行司がいて、あの人が最高責任者かと思っていたけど、物言いされたらその人の権限はもうない。物言いされたらビデオ判定になって、そうなると別で勝負検査役(注:今は審判委員)がいる。基本的に行事が判定するけど、何かがあったらその権限はすぐ別な人にいく。それって実質無いようなもんじゃん、って思った。
:たしかにべつにいらんもんな。
:毎回ビデオ判定で相談になってもおかしくない。そのままいくと、機械で画像認識で判定してってなるなと思う。それでサッカーに話を戻すと、主審の権限はどんどん薄まっていく、となると技術への置き換えは避けられない。

審判が背負ってるリスク

:俺が月曜日の話(がちゃせこラジオVAR会)を聞いてイメージしてたのは、リスク管理的な部分が高まっていったら、そのリスク管理ってなんでするかっていうと選手の商品価値がここ何年かで高まっているから、これを保持したり高めたりするためにやるわけやん。そいつらのための制度なんやったら、守られた選手の価値が高まっていく状況が発生せえへん? たとえば怪我のリスクが減ったからとか、機械の介在によって選手が守られるようになりました、優れた選手かがわかるようになりました、どんどん商品価値が上がってお金が動くようになる(かは話辛いけど)っていったら、選手同士、それか選手と観客で格差ができる。
 そうなったら人間の居場所って無くなっていかへん?その過程で審判も機械に変わるんやろうし、もしかしたらうるさいサポーターは出ていくことになるかもしれへんし、リスクやから。そしたら最終的に人いらんやん、っていうのはわかる。SFみたいなのが初めてイメージできた。それって良くなくない?というかサッカーは人間がしたくない?というのがやっぱあって。
:俺もそれはあるね。
:安っぽいヒューマニズムみたいなことしか言われへんけど。
:そうそう、それで今回喋りたかったのが、人間がやることを観る側が許せなくなってるんじゃないかな?審判に求めるものが変わってる。観る側が変わってる。
:そうね、まず審判ね。
:それって結局、スローモーションだったりビデオによって観客が見えるようになっちゃった。より細かく見えるようになっちゃって、公平っていうものが目に見えるようになってきた。公平が目に見える分、不公平を強く感じやすい。
 言い方変えると、細かいところまで映像で見えるようになっちゃって、あれはファールだぞっていうのが見えるようになった。技術の進歩によってサッカーの見方だったり審判に求めるものが変わってきていて、その被害者に審判がなってるよな、というのを今回言いたかった。
:まあ入り口って感じ。
:そうそれだけじゃない。
:それが入り口というかどっかで、何年も何十年も何百年も前から、機械が人間に代わってどうなんやって言われてきた。ほんまありがちな段階発展論みたいなやつを、サッカーでも焼き直してやってるみたいな。
:そうそう。
:そういう感じなんやろなという印象がある。視聴者が得られる情報が増えてるし、みんな増えてる、視聴者だけじゃなくて。サッカーの現場で働いてる人も今までわからなかった情報が、スプライザでもなんでもいいけど、可視化されるようになって、タグづけが簡単になって、マッピングされるようになって、数値で選手の情報が出るようになって。それはサッカーというスポーツとして、競技としての発展に必要だったというか、競技がよりレベルがあがるためには必要だったのかもしれないけど、やっぱそりは副作用もあるよな、というのがまずは審判にきてると思う。
 そのうちサッカーの試合のところでもそうなるんじゃないかな。数字がわかるようになって、どんどん価値が階層化されていって、っていう風にこのまま進めばなっていくんじゃないかな。
:その価値観に観る側も染まっていくんだろうな。たぶんいま、明日からDAZNの中継はスローモーション無しです、リプレイもしませんってなったら、そんなのありえないと(観客は)思うわけで。
:安っぽいけど、機械の進歩を止めるのは無理やから、やらなあかんことは、機械の進歩がサッカーの進歩以外の何に結びついているのか、どんな副作用があるのかっていうのを考えながら(機械を)使う。
:副作用って見えにくくて気付きにくいからね、
:人間を取るか、進歩を取るか。
 竹内さんが(ツイキャスに)来てくれたから若干出典の話をすると、大学生の時に、『コンヴィヴィアリティのための道具』という本を読みまして、検索してくれたら要約みたいなのが出てくると思うんですけど、なんとなくそれをイメージしながら考えてます。
 科学技術が否応なしに産業と結びつくんだけど、いまのサッカー、選手の新しい数値がわかりました、こういうアプローチで選手のことがわかりました、というのがあたかも純粋に寄与しているように見えるけど、たぶんそれってそうじゃないよね、周りまわって人間の首を締めることになりますね、っていうのはたぶんどんな機械もそうだから。そうじゃない関わり方を考えていかなあかんなあというのを、言っていかな、考えていかないといきませんね。

:若干ずれるけど、チェルノブイリっていうわーどを見て言いたいから言うけど、相互的因果っていう考え方をこの間知ったんだけど、技術の進化が人間の価値観や価値判断を変えるっていう考えで、その代表例でチェルノブイリが出てて、放射線が見えるようになってから、放射線を測るっていう科学技術が出来てから、被害者っていうのがはっきり見えてきた。 被害を受けた人と受けていない人がはっきり分かれるようになったことで、被害者に対する社会保障もあるけど、差別もあって。つまり技術によって見えるものが出来ると、そこに線が引かれて差別っていう形もあるし、優遇するって形もある。
 技術によって人間の価値基準が変わっていくというのを相互的因果っていう考え方で示しているのがあって、VARってまさにそうだなと感じたのを思い出したので。
:技術の進歩には副作用があるので気をつけていきましょう、というのがざっくりとしたまとめです。
: (笑)
:こういうのは難しいので話していきましょう、というのが僕のスタンスです。議論を止めるのが1番まずいので。
:人間の審判、選手もそうだけど、山本さんの記事の中でも家族に影響がとかの話もあったけど、生活があるからミスを許すというのもちがうもんな。
:それは違うよな。
:プロやん、まあプロやんって言い方も違うけど。
:でも実際プロだしね。
:生活があるからミスしてもいいわけでもなくって。ひとまず現時点で出来ることは、選手へも審判へもブーイングっていいと思うんやけど、どこでそれをやめるかっていうところね。
:やめるか?
:試合が終わったあとも非難し続けるのは、それが家族にも影響が及ぶということで。ブーイングするなってことじゃなくて、それをどこで引くかっていう。
:線引きをはっきりさせるってことね。
:はっきりさせるのは無理なんやけど。でもまあ現時点で出来ることとしては、そのブーイングをいつやめるかっていうことやから。
 VAR日本で始まるけど、どう使われて、どう運用され、結果的に何がどう変わるんかなというところと、2020年は生身の主審副審がいるわけやから、VARも生身の人間やからね、その人らに対してどうするか、どういう態度を取るか、両方見ていきましょうね、というところですかね。

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