見出し画像

新しいスクールへ

「フローリングが終わって、後は電気系統の直しと棚などの取り付けが残っているだけとなりました。来週から家具等を運び始める予定です。」

この写真とメッセージはちょうど去年、2019年の11月19日に書き始めたものでした。でも途中でやめてしまったんです。

あれから1年経ってしまいました。そしてたくさんの出来事がありました。もちろん一番大きい出来事はコロナのパンデミックです。今ここロサンゼルス、というよりロサンゼルスの南のオレンジ・カウンティは3月のロックダウン以降、2回目の閉鎖状態にあります。学校はもとより、ジムやダンススタジオは完全閉鎖、オフィスもリモート状態になっています。

さて、私は語学学校をやっているのですが、語学ってリモートでも勉強できるし、インパーソンでもできるし、一人でテキストを使っても勉強できるし、ユーチューブでも繰り返し勉強できるし、一杯ありますよね。空間と時間をいう座標軸で考えてみると、空間も時間も誰とも共有していないのが一人でテキストでする勉強とユーチューブなんかでする勉強、空間を共有していないけど時間を共有しているのがズームなんかのリモートの勉強、空間も時間も共有するのがインパーソン、対面のレッスンです。

さて何が違うんでしょうか?特にインパーソンとズームのレッスンは何が違うのでしょうか?

両方やってみて、やはり違うんですね。もちろん教え方はかなり違うんですが、一番違うのは河合隼雄流に言えば、『魂・たましい』が触れるか

どうかなんですね。香山リカもそんなのあり?って思われたようですが、やっぱりそうとしか言えないものもあると書いています。空気の振動と共に伝わる体温とでも言いましょうか、そこに感ずる息遣いと言いましょうか、別にオカルト的でもなんでもなく、人と人とが空間と時間を共有する時に生ずる微妙なインパルス(電気的振動)とでも言いましょうか。

私はコロナの前はインパーソンで教えていて、コロナになってから、ロックダウンの時期を除いてズームで教えているんです。もちろん少しづつ。私の生徒さんはいろいろ。その中には日系何世の生徒さんやハーフの生徒さんもいます。生徒さんのお母さんやおばあさんが日本人でアメリカ人と結婚された方です。私の生徒さんはアメリカ人でアメリカで育っていますから、もちろん日本語はそんなにできないんです。でもお母さんやお母さんの日本の家族とコミュニケーションをとりたいという理由で日本語を勉強していらっしゃいます。中には生徒さんのパートナーも日本語に興味をもっていっしょに勉強するケースもあります。

インパーソンで教えていた時には感じなかったことがズームのレッスンでは
感じられることがあるんです。ズームではもちろん対生徒さんの『魂』のバイブレーションは低くなります。でもそれが全く感じられない時もあるんです。多分それは、その人にとって日本語の勉強が直接的なモチベーションによるものではないのではないかと思われる時です。建前は家族と日本語でコミュニケーションをとりたいという理由なんですが、本当は他の誰かとコミュニケーションをとりたいからなんです。日本語は2次的なもので、その人がコミュニケーションをとりたい人も言葉も別なところにあるんです。それをズームのレッスンで感じるんです。

写真は載せないんですが、今私の学校はアクリル板のシールドで仕切られています。今後、レッスンをインパーソンで再開するためです。いつになるかわかりませんが。

コロナで再認識したこと。自明の理なんですが(私はいつも人より何かを学ぶことが遅い)、人間と人間の間にはいつもシールドがあるんだということです。それが村上春樹がいうところの井戸というか壁というようなものであり、それを抜けるのは大変なこと。壮大な想像力と強靭んな身体的な力と歴史的な偶然性のようなものが必要なんでしょうけど、普通の私たちはどうしたらいいのかなあ。

私はコロナで、ズームを通して明らかに違う『魂』の方向性を感じながら教えています。その人の『魂』がもう一人の人の『魂』の方向に寄り添っていってくれるよう心から願います。そしてその二つの『魂』が、吉本ばななが書いているようにもっと高い次元の精神性を構築していってくれるといいなって思っています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?