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つくすん作、漫画「魔法少女の刑」を読む


先ず、神様と名乗る不気味な存在を、怯えもせず、すんなりと受け入れている主人公に、疑問を持つべきだ。普通の女児は、あんな「おばけ」が目の前に現れたら、泣いて逃げる。

だが主人公は、逃げるどころか、その提案に傾聴し、与えられた超能力を早速試し、鼻血を吹き出して嘔吐し、その代償の過酷さを味わうが、にも拘らず、以降も超能力を躊躇なく使用する。それらも普通の少女らしからぬ態度だ。

なぜだろう。それは主人公が普通の少女などではなく、神様と同類の不気味な存在だからだ。この作品は魔法少女を巡る物語であっても、魔法少女の物語ではない。主人公は少女ではない。

主人公の友達のたまちゃんは、その名前と外見から「ちびまる子ちゃん」から借用してきた人物だと思われる。そのたまちゃんは、主人公に超能力を見せられると怯え、「おばけ」と言い放って、主人公から逃げ出す。

これは少し妙だ。もし「ちびまる子ちゃん」に「まる子、超能力者になる」という話があったとして、その中で同じように「たまちゃん」が超能力を見せられたとしても、真っ先に「おばけ」などという反応はしないはずだ。

ここでたまちゃんが怯えているのは、主人公の超能力自体に対してではない。

この作品は、性質の大きく異なる二つの世界が、接続されている。

それは、主人公や神様を代表とする、血液と吐瀉物が当然に描かれる、血生臭い世界と、たまちゃんを代表とする、血生臭さからは縁遠い、「ちびまる子ちゃん」的な、無垢な世界だ。

主人公の超能力は血生臭さの象徴だ。それを主人公は得意気に、たまちゃんに見せる。それは、二つの世界を分けることなく混濁させよう、という意思の表明だ。それに対して、たまちゃんは怯え、主人公から逃げたのだ。

血管を浮き立たせ、体液を垂れ流して超能力を使う主人公は、勃起した男性器だ。そう言ってしまえば、たまちゃんがなぜあんなにも主人公に怯え、必死に逃れようとしていたか、が理解できるのではないか。

主人公が望んでいたのは、同居中の逃げ場のない無垢な少女と情交を果たすようなことだ。そして、この作品の題名にある「刑」とは、それに対する罰だ。それはどのような罰か。

その前に主人公の正体について論じておこう。主人公は不気味な神様と同類だ。それは言い換えれば、少女を装った神様が主人公、ということだ。主人公は神様の欲望を共有した、神様の分身だ。

その欲望とは、無垢な少女と同じ領域に暮らし、無垢な少女と仲良くし、その無垢な少女と情交したい、というものだ。神様とは、無垢な少女と情交したい、醜く勃起した男性器のことであり、その醜い欲望を抱く、男性おたくのことだ。

大きく異なる二つの世界が接続されているのは、一つ目の欲望を叶えるためだ。そして、主人公が少女の姿であるのは、二つ目の欲望を叶えるためだ。醜く勃起した男性おたくが、無垢な少女に近付くには、そうする他にない。

神様は二つの世界を接続したが、主人公は更に少女の姿になった。主人公は神様より深く欲望を叶えている。そんな主人公に神様は超能力を与え、そしてそれを刑罰とする。

主人公はたまちゃんに拒絶され、たまちゃんを死に追いやってしまった後、困憊しながら夢を見る。それは、魔法少女が敵に四肢を切り落とされ、周囲の人達に無様に下着を見られる、というものだ。

少女の手足を切り落として、自由を奪い、苦痛に喘がせ、その下着を鑑賞すること。それが男性おたく達の「夢」であり、主人公が叶えたかった「夢」であり、情交の中身だ。

神様は、主人公は誰かを救いたいと願ったが、その願いは主人公自身を救ったのだ、と語る。誰かを救う、とは、少女を蹂躙する、と同義だ。

少女を蹂躙したい、と願う主人公は、そのために少女を装っていた。だから主人公は、自らの欲望に従って、少女として蹂躙された。

最後に主人公は、自らの超能力で自らの首を刎ね飛ばすことになる。それを踏まえて神様は、そもそもなぜ主人公はそんなことを願ったのか、と問う。

主人公とは、欲望を増長させた、神様の分身であり、そうした男性おたくのことだ。主人公は、少女と仲良くなりたい、そのために少女でありたい、と願うのと同時に、少女を蹂躙したい、とも願った。

どれほどにその願いが醜悪か、を思い知らせるために神様は、主人公に超能力を与えた。そうして主人公は、自らの醜悪な願いを自らの身体で味わうことになる。それが「魔法少女の刑」だ。

少女と仲良くなりたいなら、少女を蹂躙したい、などと願ってはならない。少女を蹂躙したい、と願うなら、少女と仲良くなりたい、などと願ってはならない。

少女にとって男性おたくは、その内なる願いも含めて、不気味と恐怖の存在でしかない。そのことを忘れてはならない、と神様は言っている。

神様の不気味な姿は男性おたくの醜悪さだ。神様はそれを隠さない。隠そうとする者も許さない。ましてや、少女に手を出し傷付けようとする者には、罰を与える。男性おたくは少女を偏愛し、それ故に少女を脅かしてしまうことを知っている。

ただでさえ男性おたくは少女に対して負い目がある。だからせめて、男性おたくは自らを容赦なく戒めるのだ。醜悪であることを受け入れ、正体を隠さず晒し、少女に忌み嫌われることが男性おたくの正しい在り方だ。

男性おたくは、少女とは決して仲良くなれない。仲良くなるべきではないし、仲良くなりたい、と望んでもいけない。

少女に近付くことはせず、忌み嫌われながらも、遠くから眺める。ただそれだけ。それだけが、男性おたくが偏愛する少女に対してできる、誠意ある振る舞いだ。

主人公のかわいい少女姿は、男性おたくの、少女への冒涜性の顕れであり、神様のその不気味で醜悪な姿こそが、男性おたくの、少女への誠実さの顕れなのだ。

……なわけないだろ! 結局のところ、作中でたまちゃんは死んでいるし、中身は男性おたくとは言え、少女の肉体への凄惨な所業は実行されている。それを、神様は得意気に眺めて語っている。

少女を傷付けたくないなら、そもそも二つの世界を接続するなよ。「ちびまる子ちゃん」的世界に血生臭さは何も必要ではない。血生臭い世界の住人共が、一方的に「ちびまる子ちゃん」的世界との接続を欲望したのだ。

それは、無垢な少女を生け捕り、少女に自分達の血生臭さを見せ付け、それで少女を包み込み、それを少女に味わわせるためだ。なんと醜悪な。

醜悪なのは分かっている、などと謙虚になってみたところで、その醜悪さはいくらも減じない。血生臭さが消えることはない。男性おたくの醜悪さが、少女に許されることはない。

許されるとしたらそれは、男性おたくの醜悪さが、男性おたくに、だ。謙虚になっているからいいでしょ、蹂躙する相手も、男性おたくがなりきった少女なわけだし、と。

自分達の欲望は醜悪だ、と分かっているし、だからこそ、それは創作の中で解消する。自分達が創作した偽物の少女なら、いくら蹂躙してもいいじゃん、本物の少女じゃないんだから、と男性おたくは言っている。

それは半分正しいが、半分正しくない。繰り返すが、それで醜悪さが減じることはない。少女に許されることもない。ただ本物の少女が蹂躙されないで、男性おたくが満足できる、というだけだ。

それでいいではないか、それの何が悪いのか、と思われるかも知れない。その通りなのだがしかし、それは、男性おたくにとっていい、何も悪くない、ということで、だから半分だけの正しさでしかないのだ。

もう半分の正しさは、誰が決めるのか。それは本物の少女たちであり、男性おたく以外の人達だ。その人達に許されなければ、男性おたくの振る舞いは完全に正しくはならない。

だけども、完全に正しくなる必要などあるのか、と言えば、それはないし、完全に正しくなる、なんてことは不可能だろう。だからと言って、正しさに関心を持たないのは、正しいことではない。

男性おたくは、自分達の欲望の醜悪さが、男性おたく以外の人達の目にどう映っているか、ということには常に関心を持つべきなのだ。それは、分を弁えて社会の隅っこでひっそり生きるべき、とかそういう話ではない。

そしてそれは、男性おたくだけにも限らない。どこに属する人達であっても、自分達の醜悪さが外部からどう見えるか、には気を付けるべきなのだ。

なぜなら我々は誰もが、たまちゃんのように、性質の異なる世界に強引に接続された、自由社会の中に生きているからだ。

この作品は男性おたくの醜悪さを描いている。だがそれは、単純な醜悪さではなく、醜悪であることは自覚している、と開き直ることで、醜悪さを自ら免罪する、手の込んだ醜悪さだ。

それを描いた作者に、そこまでを批判する意識はあったか。主人公の顛末を他人事のように眺めて、得意気に評している、神様を見る限り、そうは思えないのだ。