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タイザン5作、漫画「ヒーローコンプレックス」を読む

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兄は陸上オリンピック選手になれなかった一方で、弟はその足の速い兄をモデルにした作品を描いて、漫画家として成功する。

弟のシャーペンをへし折ろう、指をへし折ろう、どうせ弟の漫画はすぐ打ち切りになる、売れるわけない、すぐ飽きられる、と兄は、とにかく弟の仕事が駄目になればいい、ということを繰り返し願う。

弟の仕事が駄目になったとしても、それで自分がどうなれるわけでもないのに、なぜ兄は執拗にそんなことを願うのか。そこには、兄が思い描くヒーローの条件が関係してくる。

その条件とは、高成績や高年収といった、誰かに勝っていること、あるいは誰かを負かしていることが明確であるような、順位や金額で表される力を持っていることだ。

だから兄は、競技者としての成績が伸び悩み、名声や年収で弟に勝てない自分のことを「俺のどこが ヒーローだって いうんだよ」と卑下する。

そして、弟から向けられた尊敬の心を知った後でもなお、弟の大事な原稿を破り捨てよう、などと兄は考えてしまう。兄にとって他人の敗北や失敗こそが、自分をヒーローにさせてくれるかも知れないものだからだ。

そんな兄に対して弟は、自分が濡れるとしても弟に自分の傘を貸すところ、びしょ濡れの弟を大事な新車に嫌がりもせずに乗せるところ、学生の頃からずっと色々と助けてくれたこと、漫画の話を笑わずに聞いてくれたこと、それらを挙げて、兄はずっと自分のヒーローだった、と語る。

弟の思い描くヒーローの条件は、順位も金額も関係なく誰かを助けられる力を持っていることだ。いつも兄に助けられてきた弟にとって、兄はまさにヒーローだったのだ。

兄は弟が実家に忘れて置いてきてしまった大事な原稿を、台風の中、懸命に走って弟の許に届けることで、ヒーローとして甦る。

それは、兄が自分の思い描いていたヒーローの条件を捨てて、新たに弟の思い描いていたヒーローの条件を採用したから、ではない。

弟は漫画家としては成功したが、大事な原稿を忘れて置いてきたり、と学生の頃から変わらないドジなところがある。そんな弟の面倒を、兄はいつも見てきた。

弟は兄よりも高い名声を得ようが年収を得ようが相変わらずドジで、その面倒を見ることができる兄は、その点で弟に勝っている、と言える。

兄は「誰かに勝っている」というヒーローの条件は捨てていない。ただ、「誰か」が指す相手を「弟」に限定し、「勝っている」を「そのドジの面倒を見られる」に読み替え、条件を今の自分でも達成できるものに、少しだけ修正したのだ。

「誰かのドジの面倒を見られる」とは「誰かを助けられる」と同じであり、弟の思い描くヒーローの条件とも合致するようになる。ここで兄は、弟と共通で思い描けるヒーローとして、甦ることになる。

兄は、弟の思い描くヒーロー「疾風のケイ」に近付くことで、自分自身の思い描くヒーローにも、ようやくなることができたのだ。

この作品の題名は「ヒーローコンプレックス」だ。「コンプレックス」とは、つまり劣等感のことだ。作品の物語は兄の、ヒーローになれない劣等感による煩悶とその解消、を追って展開する。

しかし、なぜ兄はそんな劣等感を抱くようになったのか。劣等感を主題とするなら、その発生をもきちんと描くべきではないか。

作中では、劣等感の発生自体は描かれている。だが、劣等感の元になったであろう、ヒーローにならなければ、という強迫観念の正体は描かれていない。兄は一体何によって「ヒーローにならなければ」という強迫観念を植え付けられたのか。

それを窺わせる描写が、作中にはいくつかある。それも割と明確な形で。

過去の食卓の場面で、両親は兄の陸上競技の成績の好調さを話題に盛り上がっている。その時、弟の顔は吹き出しによって隠れてしまっている。

そして現在の食卓の場面では、両親は弟の話題で盛り上がっている。その時、今度は兄の顔が吹き出しによって隠れてしまっている。

終業後の飲み会で、すごい弟の兄、という不本意な認識をされてしまった兄が、回想をしている場面でも、歓喜する両親に挟まれながらトロフィーを持つ兄の近くで、弟の顔はやはり吹き出しによって隠れてしまっている。

これらは作者の意図的な演出だろう。兄弟は、ヒーローにならなければ両親に話題にされず、吹き出しに顔を隠されてしまうような家庭で育ってきた。兄に「ヒーローコンプレックス」を植え付けたのは両親だ。そのことを作者は密かに告発している。

しかし物語は、両親の罪を問うて責め立てるようなことは特になく、兄弟が元の良好な仲に戻って終わる。それは、両親への告発をも含めてしまっては読み切り作品という紙幅に収まらない、という判断だろうか。

だが、同じ作者の手による他の作品にも、似たような主題は見え隠れする。そしてそれらの作品のどれも、その主題を中心にして描き切ったものは、まだないように思われる。

作者は、その主題こそを本当に描きたい、と思っており、だからそれを迂闊あるいは半端な形で描いてしまうのを恐れて、その主題を中心に据えて作品を描くことが、できないでいるのではないか。

この作品に登場する両親は、ありありと子の抑圧であるようには描かれない。だが、全く抑圧でないようにも描かれない。そこに作者の抱える「親子コンプレックス」のようなものの所在が、ありありと示されているように思える。