記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

タイザン5作、漫画「讃歌」を読む

主人公はただ一人、学校に通い、そこにただ一人いる、人造人間の教師から、人類の歴史の授業を受けている。

ある日の下校時、主人公は新人類のタタナに会い、一抱えもの数の果実を貰う。その夜、十年前から更新が途絶えたニュースサイトを端末で閲覧しながら、主人公は貰った果実を食べる。

明くる日の授業の後、主人公は教師に「今日私お化粧してみたんだけど どお?」と訊く。教師は、生殖狙っているのか? 今時流行らないぞ、と素っ気ない。主人公は気落ちしながら、教師と別れて下校する。

帰宅途中、主人公はタタナと会うが、タタナは沢山の子供を連れていた。主人公は子供達の可愛らしさに感激しながら、「生殖流行ってんじゃん」と呟く。

教師は授業でモエギイヌについて語る。それは、環境を汚さず、天然資源を消費しない、夢のエネルギー源であるらしい。それが発見されたために、人類は持続可能な成長を達成した。

そのお陰で、無人の街に今でも水と電気が供給され、様々な機械が動き続けている。だが、モエギイヌの発見の一方で、全世界的な出生率の低下が始まった、とされる。

ここで主人公は手を挙げる。教師は、質問か、と珍しがるが、主人公は、タタナに子供が生まれた、と授業の内容とは関係ない世間話をする。教師は呆れる。

そんな日々が続いた、ある夜、主人公が帰宅すると、端末が光っていて、一件の新着ニュースがあることを通知している。

それを開くと、旧人類の生き残りによる生活共同体「ローマ家族」からのメッセージ映像が流れる。その内容は、もし地球のどこかでこの映像を見ている人がいたら、わたし達に是非加わって欲しい、というものだった。

翌日、主人公は興奮気味に、その映像について教師に話す。だが、教師は「現代社会は専門外だ」と、またもや素っ気ない。主人公はやはり気落ちして、「もういい」と言う。

その様子を見た教師は、「専門」である歴史の観点からの「ローマ家族」を主人公に語る。

「家族」とは、23世紀終盤に現れた、人口減少で維持できなくなった地域から脱出してきた者達が新たに作った共同体で、その最古が「ローマ家族」だ、と教師は言う。

そして教師は主人公に、ローマに行かないのか、と訊く。交通手段は色々あるはずだ、とあれこれ挙げるのを遮って主人公は、わたしは旧人類ではないから受け入れてもらえない、と諦めを口にする。

ある雨の日、外から帰った主人公は濡れた髪を拭きながら、洗面所の前を通り掛かる。そこで鏡に写った自分の姿を見た主人公は、過去の出来事を思い出す。

首の後ろ辺りに生えた角を鏡で見ながら確かめる、幼い頃の主人公。そこへ、主人公が新人類であることを知って嘆く、母の声が聞こえてくる。

母は、精子提供者も自分も旧人類だから、新人類が生まれるはずがない、と言う。そして、せっかく体外培養に成功したのに、子孫を残せたのに、と現在の主人公を失敗と考えているらしいことも口にする。

体外培養とは、体外受精の一工程を指しているものと思われる。つまり、母は不妊症であり、そこから生殖医療によって主人公を儲けたようだ。また精子提供ということから、家族としての父はいないらしい。

母は、角が生えて髪が白くなった主人公を、まるで隣に住み着いている化け物みたいだ、と言う。化け物とは、新人類のことだろう。それを母のいる部屋の扉の前で聞く主人公。そして、主人公はそっと扉を開ける。

床に座り込んだ母は、新人類に「忌々しい菌を流し込まれ」て主人公も同じ化け物、つまり新人類にされたのだ、と言う。そして、それを感染と表現する。

母は新人類であることを、忌々しい病気と考えていることが窺える。そして、「私も早く逃げないと」と母は言う。

新人類が感染性の病気であるなら、新人類のようになってしまった主人公も感染源となるかも知れない。母は新人類を嫌悪している。自分も新人類になってしまわないように、母は「(主人公から)早く逃げないと」と言っている。

ここにいれば水も食料もあるし、学校には教師も一体残っているから大丈夫、と母は主人公に言い聞かせる。そして、主人公を「ちゃんとした子に産んであげられな」かったとして、「ごめんね」と繰り返す。

主人公は「待って」と声を掛けるが、母は主人公を置いて、家を出ていった。

回想を終えた主人公は俯き、鏡から目を逸らす。

ある日、主人公は、タタナの子供達の近くに、タタナがいないことに気付く。気になった主人公は、タタナ達の住み処に入る。そこで主人公は、地面に倒れ、身体から多くの植物を生やして一体化し、動かない、タタナを見付ける。

教師によれば新人類は、並外れた生命力と繁殖力を持ち、草食で、死んだ後は自らの遺体を養分として植物を育てる、という。そしてそれが皮肉にも、旧人類の悲願である、地球の緑化を、瞬く間に達成した、と語る。

幼い頃の主人公は教師に、「私も新人類なの?」と訊く。教師にとっては、その問いは「専門外」のはずだ。だから、教師は「知らんな」と答えるが、それに続けて「俺にとっては(主人公は)ただの教え子だ」とも答える。

唯一の家族であった母に捨てられた子供である、主人公にとって、教師はただ一人頼れる大人だ。だから、ここで教師の言った「教え子」という言葉は、主人公にとって、「娘」や「妹」のような、特別な重みを持つはずだ。

そしてそれは、主人公が新人類のような姿になってしまった時、母の口から聞きたかった言葉でもあっただろう。

母に捨てられ、一人、家と学校を往復するようになった、幼い頃の主人公は帰宅の途中で、母が言うところの、隣の化け物である、タタナに出会う。

タタナは主人公に果実を一つ差し出す。それを主人公は受け取って、一口齧り、「おいしい」と言う。

そのようにして、主人公は何度もタタナから果実を分け与えられてきたのだろう。「ありがとう」と涙を流して、主人公はタタナの死を悼む。

母が家を出ていった日の回想の後に、タタナの死と、タタナと親しくなった時の回想が配置されているところから、母がいなくなった後の空白を、教師と共にタタナが埋めていたことを感じさせる。

教師は主人公に、人類の歴史を最後まで教え終わる。教師は主人公に「これからどうする」と訊ねる。主人公は俯きながら、教師から目を逸らして「どうもしないよ」と答える。

主人公は、わたしは旧人類でも新人類でもなく、母のようにもタタナのようにもできないし、なれない、と言う。そして、だからこのまま、ずっとここで、と教師の授業をいつまでも受け続ける考えを示す。

教師は教壇を強く叩き、人類は、人種、国籍、信仰、様々な違いを乗り越え、発展してきた、と語り出す。それは「ローマ家族」の自意識でもある。

教師は席に座っている主人公に歩み寄り、顔を近付け、目を見て熱意を込めて、だから、これからもきっと、と言葉を続ける。が、その先が続かない。「専門外」のことだからだろう。

教師は冷静になって、その場を取り繕おうとする。その様子を見て、主人公は大笑いする。

説教なんて初めてだ、そんなこと言えたんだ、と主人公は教師をからかう。そして一息吐くと、主人公は席を立ち、教師に「でも ありがとう」と伝える。

翌日、教師は朝起きて、いつものように、ただ一人の教え子に授業をするために教室に向かう。しかし、教師が教室に入ると、そこに主人公の姿はない。

ただ一人の教え子が巣立っていったことを確認した教師は、満足そうに微笑みながら機能を停止して、動かなくなり、街の建物や施設と同じく、植物に覆われるに身を任せる。

主人公は幼い頃からのスカート姿ではなく、教師と同じズボン姿で、携帯端末を片手に、一人の小さな新人類を伴って、遠いローマを目指すところで、物語は終わる。

この作品には、色や影がない。全くないわけではないが、特に建物にはない。その建物を覆ってしまうようにして、植物が至るところ、外にも内にも繁茂している。その植物にも影はないが、その幹や葉には全て色がある。

と言っても、それは画一的な色でしかない。その画一さは、建物の色や影のなさと同質だ。その二つはどちらも変化のなさを表している。

色や影のない建物は、既に変化しなくなったものだ。それは「過去」の隠喩だ。植物は、変化のなくなったもの、「過去」を覆っていくようにして繁る。なのでそれは、そこに「過去」が横たわっていることを表している。

主人公は植物が繁る街に、独りで生活している。至るところに横たわる「過去」に囲まれて、主人公は生きている。

教師は人造人間であり、担任として主人公に接する他は、専門である、人類の歴史を、主人公に教えることしかできない。

だから、主人公に化粧の感想や、「ローマ家族」からのメッセージ映像について聞かれても、教師はその概要を説明するようなことしかできない。

主人公は教師に世間話をすることはできるが、教師は主人公に世間話をすることはできず、主人公からの世間話に応じることもできない。

教師は、歴史、つまり過去の蓄積を参照して主人公に接するしかない。教師には過去しかない。そして、その教師一人だけしかいない学校という場所にも過去しかない。

別の言い方をすれば、そこには未来がない。そんな場所に通うしかない主人公にも、未来はない。そこでは、過去の話をするしかなく、未来の話をすることはできない。

だから、全ての授業が終って、教師から「これからどうする」と未来のことを訊かれても、主人公は「このままずっと ここで」と過去にしがみつく答えを言う他ない。

主人公は自分を、旧人類でも新人類でもない、と言った。だが、主人公のその身体は、旧人類のようでも新人類のようでもある。

主人公の母は新人類を嫌っていた。もし主人公が誕生した時、既に新人類のようだったのであれば、主人公はその時に捨てられていたはずだ。

母は主人公を、ある年齢まで自ら育てた。ということは、主人公は旧人類の姿で産まれ、徐々にか、突然にか、その身体に新人類のような特徴が現れていったのだろう。

母は主人公に、主人公を捨てる意思を示しながら、家を出ていっている。その時、主人公は母を引き留める言葉を口にしているものの、そこに強く動揺している様子はない。

恐らくはそれが、母が主人公や新人類を嫌う理由にもなっている。

普通であれば、母に捨てる意思を示された子供は、泣いて激しく抵抗し、縋り付いてくるはずだ。なので、そうならないために、黙って、あるいは騙すようにして、母は家を出ていくことになるはずだ。

母は捨てる意思を、主人公に伝えている。主人公が普通の子供の反応をしないことを、母は充分に分かっていたからだ。それこそが新人類に特有の感性であり、旧人類と相容れない部分だ。

では、その新人類特有の感性の正体とは何か。

主人公とタタナ達の身体は、特徴が類似する点はあるものの、大きく異なる。だが、両者が異なるのは身体だけではない。

タタナ達は言葉を喋らない。言葉らしきものは発するが、それは鳴き声のようなものだろう。それでも主人公との意思疏通は可能なようだ。と言っても、複雑な意味や感情のやり取りは、できないのではないか。

それは、タタナ達が複雑な意味や感情を必要としない、ということだ。恐らく、タタナ達は複雑な知能や感情を持たない。動かなくなったタタナに関心を示さない、タタナの子供達を見よ。

新人類には、死を悲しむ感情はない。死して植物を育む新人類にとって、死という概念は成立しないからだ。タタナは今までの身体の在り方をやめて、新しく無数の植物に、身体の在り方を変化させただけだ。

それを死として理解し悲しんで涙を流すのは、主人公と旧人類だけだろう。新人類には自我がない。

自我は執着の源だ。母は子孫を残すことに執着し、子が旧人類であることに執着した。主人公にも、心の内に複雑で様々な執着がある。

タタナ達には執着がない。だからタタナ達は、自分達と異質な主人公をも受け入れることができるし、もし主人公がある日突然いなくなっても、タタナ達は気にしないだろう。

そういう執着のなさ、新人類の自我のなさが、旧人類には耐えられなかった。だが、主人公は旧人類と同じく自我を持っているようだ。ならなぜ、主人公は母に捨てられたのか。それは、主人公の自我の発達が遅かったからだ。

旧人類といえども、最初から完成した自我を持って生まれてくるわけではない。自我は、生まれた後に、肉体と共に成長し発達する。だから、精神面で見る限りは旧人類も新人類も、生まれてしばらくの間は、そう変わりがない。

主人公は心と身体に、旧人類と新人類、どちらにも成長する可能性を含んで生まれた。母は主人公が生まれてしばらくの間は、自我のなさなど気にすることなく、主人公を愛し育てることができた。

しかし、主人公が成長してくると、普通であれば同じ年頃の子供が持っているべき自我を、主人公が持っていないことに、母は気付いた。

そして母は、普通の旧人類ではない主人公を捨てた。主人公が普通の新人類であれば、それでよかった。新人類は執着がないからだ。母がいなくなっても、母に捨てられても、気にすることがない。

だが、主人公は普通の新人類でもなかった。旧人類のように自我を宿していたが、それはほとんど成長せず、母に捨てられた後に、それは成長し発達した。そして、タタナの死を悲しむほどになった。

主人公はタタナの死の意味を理解できるようになった。それは、かつて母が自分を置いて家からいなくなったことの意味を、理解できるようになった、ということでもある。

主人公はいつか学校を卒業し、大人にならなければならない。しかし、主人公はそれを保留しようとする。どんな大人になればいいか分からない、と言うより、どんな大人にもなれない、と思っているからだ。

主人公は大人の先例として母とタタナを挙げるが、自分はそのどちらにもなれない、と言う。それはどういうことだろうか。

主人公にとって、母のようになる、とは、子供を産む、ということでしかないだろう。

主人公は幼い頃に捨てられて以来、母と会っていないし、連絡も取っていないようだ。なら主人公は、母の、母であること以外の顔を知らないし、想像することもできないはずだ。

では、主人公は妊娠出産できる状況だろうか。主人公の母は、不妊症でありながら、精子提供で主人公を儲けている。なので主人公は、母がしたようにすれば、妊娠出産できるだろう。

そうして、主人公が妊娠出産を無事に遂げたとする。産まれてくるのは旧人類だろうか、新人類だろうか、あるいは、そのどちらでもないのか。

もし産まれてくるのが旧人類なら、主人公はその子供とどう暮らすことになるだろうか。旧人類は新人類を嫌う。主人公は普通の新人類ではないが、母に嫌われた。なら主人公は、子供にも嫌われることになるかも知れない。

もし産まれてくるのが新人類なら、どうか。新人類は誰も嫌うことがない。タタナとその子供達と主人公は、親し気に交流している。しかし、であれば主人公はタタナ達と一緒に暮せば良さそうなものだが、そうはしていない。

新人類に嫌悪感を抱かない主人公だが、遊ぶことはできても、自我を持つ者と持たない者とでは、生活を共にすることは、やはり難しいのではないか。

では、産まれてくるのが旧人類でも新人類でもないなら、どうか。つまりは、主人公自身のような子供だったら、だ。

主人公は自分に似た子供を愛せるだろうか。それは、今、主人公は主人公自身を愛せているか、という問いでもある。

その答えは否ではないか。主人公は、自身どころか他の誰かを愛した経験もなければ、誰かに愛された経験もない。主人公は、母に捨てられた後、自我が育ちつつある中、ずっと一人だったからだ。

主人公は教師やタタナに良くしてもらってはいたが、それは愛とは違う。二人は旧人類の自我を持ってはいないからだ。主人公が二人から愛を学び知ることは、できない。

主人公は、どんな子供が産まれてくるとしても、一緒に暮らしていくことは難しい。だから、母のようになることはできない、と主人公は感じている。

ではもう一方の、タタナのようになる、はどうか。タタナのようになる、とはどういうことか。

タタナもまた子供を産んだが、既に書いたように、主人公は、どんな子供も産み育てることは、できそうにない。それ以外で、タタナのようになる、とは何があるか。

それは、より新人類らしくなることだ。しかし、それもやはり主人公はできない。新人類らしくなる、とは、今ある自我を捨てることだ。自我に執着するのが自我だ。既に大きく成長した主人公の自我は、自身を捨てることなど受け入れられないだろう。

何より主人公は、新人類のように生きたい、と思っていない。主人公は不真面目ながら学校に通い続けている。全ての授業を修了しても主人公は、なおも通い続ける意思を示す。

新人類は学問を必要としない。学問を必要としない生き方が新人類、とも言える。その生き方は学校の外に既にある。

主人公は、学校も授業も放り出して、そこに加わってもいい。新人類とは、一緒に暮らすことはできなくても、一緒に遊ぶことはできる。そのように生きることを咎める者は誰もいない。しかし、主人公はそうしない。

学校に通おうとしている時点で、主人公は新人類とは違う生き方を選んでいる。主人公の望む生き方には学問が必要だ。主人公には何か知りたいことがある。

なら、主人公は全ての授業を修了したのだから、学校を卒業して、その知りたいことを追い掛ければいい。

だが、主人公は卒業を保留しようとする。学校で学ばなければならないことを、主人公はまだ学べていないからだ。それを学ばなければ、主人公は学校を卒業できない。大人には、なれない。

授業は全て修了したはずだ。それ以外に、学校には何があるのか。そこには一人の教師しかいない。なら、主人公が学ばなければならないことは、そこにある。

主人公は教師から何を学び得るのか。知識を学習するだけなら、教師はいらない。情報端末があれば充分だ。教師は人類ではないが、旧人類に似せられた、人造人間だ。そこに、情報端末では学習できないことがある。

それは、旧人類としての振る舞い方だ。それを学ぶためにも、主人公は学校に通っている。主人公は旧人類に近付きたい。だから、「ローマ家族」からのメッセージ映像に、主人公は見入った。

だが、教師は旧人類に似せられた偽物だ。なので、教師から学べることには限界がある。

でも、旧人類に近付く手掛かりは、今の主人公には教師しかない。だから、どうしても主人公は旧人類の偽物にしかなれない。

学校を出て街を出れば、主人公は本物の旧人類に会えるはずだ。そこで旧人類の振る舞い方を学べばいいかもしれないが、主人公は、自分がそこで旧人類として接してもらえるか、それに自信がない。

主人公は身体に新人類的特徴を有する上に、それを理由に旧人類に捨てられた過去を持つからだ。主人公は、自分はどこまで行っても旧人類の偽物にしかなれないのではないか、という思いを拭い去れない。

教師は旧人類の偽物だ。なら主人公の自意識は、母でもタタナでもなく、教師に近い、と言える。だとすれば、主人公が学校に留まろうとする理由の一端も解るだろう。

主人公は、母のようにもタタナのようにもなれないが、教師のようにはなれる。それはしかし、教師のように、学校に縛られることを意味する。

教師はそれをよく思わない。なぜなら、教師にとって主人公は、旧人類でも新人類でも旧人類の偽物でもなく、ただの教え子だからだ。教師は教え子を、学校から巣立たせるのが仕事だ。

そのために教師は、専門外のことにも拘わらず、主人公に人類の希望を語ろうとした。人類でない教師には、それは叶わなかったが、主人公ならその続きを語ることができるようになるはずだ。主人公は人類なのだから。

希望を抱いて生きられることが、人類の条件の一つだ。教師が主人公に希望を抱けたのだから、主人公に同じことができないはずはない。

旧人類として大切なことを教師から学べた主人公は、これでようやく、学校から巣立つことができる。主人公の、大人になるための準備は終わった。

主人公が見ていたニュースサイトの更新は、10年前から途切れていた。恐らくは、主人公が母に捨てられたのが10年前だ。主人公の時間は、その日以来、止まったようになっている。

なぜ主人公は更新の途切れたニュースサイトなんかを見ていたのか。過去を学ぶためか。しかし、主人公が過去の学習にそう熱心でないことは、授業中の態度で明らかだ。

更新の途切れたニュースサイトの中に、主人公が見ていたものは、雨の日に、鏡の中に見ていたものと同じだ。主人公は母に捨てられた、あの日のことを、いつまでも反芻しているのだ。

主人公は、鏡に映る自身の姿から目を逸らす。それは、あの日の母の年齢に、自分が近付いていることを認めたくないからだ。「これからどうする」と訊ねる教師から、主人公が目を逸らしたのも、似た理由だ。

主人公は大人になることを恐れている。思い出の中の母も、教師も、年を取らない。自分だけが年を取る。自分だけが変わっていく。母や教師の年齢に自分が達した後、自分はどうすればいいのか、どう変わればいいのか、分からない。

その不安を解消できる場所がある。「ローマ家族」だ。そこには、自分より年上の者も年下の者もいる。自分はどうすればいいのか、どう変わればいいのか、その迷いを先に生きた人達がいる。

そしてそこでは、自分もまた誰かにとって、迷いを先に生きた者となる。自分の迷いの経験が誰かのためになる。その時、主人公は自分の生に意味を感じることができる。

それが、主人公が知りたいことの中の一つ、と言えるだろう。

幼い頃の主人公は、身体も服装も新人類のように白い。白い色は自我のなさを表象している。その頃の主人公には、まだ自我が確立していなかった。

主人公はタタナから果実を受け取って食べる。果実の色は黒っぽい。主人公はそれを「おいしい」と感じる。

タタナ達新人類の身体は白い。成長した主人公の髪と目は白く、服装も靴も白い。ただ、リボンタイだけは黒い。教師の髪と目は黒く、服装は全体に白いが、ネクタイとベルトと靴は黒い。ローマを目指す主人公の服装は全体に黒い。

白から黒へ。主人公はそのような変化を経る。黒い色は自我の表象だ。教師は主人公よりも黒い色が多かったが、その教師と交流することで、主人公は教師よりも黒い色が多くなる。主人公は、教師よりも更に旧人類に近い自我を確立する。

主人公と教師は、旧人類の偽物という自意識で共鳴していた。だとすれば、主人公の変化は、決して変化できない教師の、願望でもある。

言い換えれば、教師は主人公に変化を促すことで、自分の願望を主人公に叶えてもらおうとしている。この物語には、「教師の願望」の成就という主題が隠されている。

モエギイヌの発見と利用定着化の後に、世界的な出生率低下と人口減少が起こる。その後、新人類の出現と増加が起こる。新人類はどこからやって来たのか。

新人類の心も身体も、旧人類とは掛け離れている。言葉も通じそうにない。もし新人類が、どこからともなくやって来たのであれば、それは人類などとは呼ばれなかったはずだ。

旧人類がそれを人類と呼ぶのは、旧人類自身がそれを生んだ、という自覚があるからだ。主人公が生まれたように、新人類は生まれた。

だとすれば、世界的人口減少とは本当だったのだろうか。それは旧人類の人口減少でしか、なかったのではないか。出生率の算出に、新人類の出生は含まれただろうか。

恐らく、旧人類に子供は生まれ続けた。しかしその子供はどれも新人類だった。旧人類は新人類を人類と認めながらも、それを旧人類と区別し、一緒に暮らしていくことを拒否した。

新人類はそのことを気にすることもなく、新人類単独で繁殖して数を増す一方で、旧人類は旧人類に拘り、数を減らし続けた。

母は新人類を嫌って去った。「ローマ家族」の人々も新人類だけは嫌っているはずだ。旧人類は、新人類と共に共同体を維持する道もあり得た。しかし、それは拒否した。

新人類への嫌悪を通じて、旧人類は人種、国籍、信仰、様々な違いを越えて、融和することができた。旧人類にとって新人類は、それほどに気味が悪いものだった。

旧人類と新人類の最大の差異は、自我の有無だが、それを気にするのは専ら旧人類の側だ。新人類は旧人類を拒まない。

新人類は、互いの様々な違いを拒まない。「ローマ家族」および旧人類が、人種、国籍、信仰、様々な違いを乗り越えてきたことを誇っていることを考えれば、新人類は旧人類の理想の在り方のようにも思える。

しかし、旧人類が旧人類たる所以は、自我を持っていることだ。自我を持つ者にとって自我の消失は、死を意味する。自我を持つ者は死を悲しみ、忌み嫌う。だから、旧人類にとって新人類の在り方は、理想にはならない。

そもそも旧人類は「ローマ家族」の確立によって、その理想を既に達成している、と言える。後は世界で散り散りに生きている旧人類を呼び寄せ、一つの地域で暮らすだけだ。

旧人類は理想と引き換えに、大規模の生活圏維持を手放した。言い換えれば、大規模の生活圏維持から解放されたことで、旧人類はその理想の規模と形態に向かって収束していった。それを促したのがモエギイヌだ。

旧人類は自我を持つ。そして自我を維持しようとする。自我維持にはエネルギーが必要であり、だからエネルギー調達のために生活圏を拡大維持しなければならなかった。そして、時に旧人類同士で争った。

モエギイヌは自我維持のエネルギーを恒久的に供給する。旧人類は大きい生活圏を必要としなくなり、争うこともなくなる。そして、極小規模の共同体に収まって安定する。そうなれば、そこから拡大することも縮小することもないだろう。

新人類に自我維持のエネルギーは必要なく、空間さえあれば生きていける。旧人類が自我維持に必要な生活圏を縮小していくのと入れ替わりに、旧人類が放棄した空間に、新人類は生息するようになった。

「ローマ家族」はモエギイヌなしには成立しない。モエギイヌからの恒久的なエネルギー供給が途絶えれば、旧人類は再び生活圏を拡大し、互いに争うようになるだろう。その時、旧人類からは新人類は生まれなくなるはずだ。

新人類は、旧人類がモエギイヌによって「ローマ家族」として小さく生きていくに当たって発生する、老廃物だ。それをなくすことはできない。旧人類は旧人類を産もうとして、高確率で新人類を産むことになる。

大抵の場合、それは問題にはならない。捨ててしまえばいい。新人類に自我はなく、捨てる捨てられる、という選択に対して、両者に抵抗はない。

しかしそこに、主人公が産まれてしまった。もし主人公のような事例がしばしばあるのなら、その旧人類でも新人類でもない人々が集まって、どこかで「家族」を形成しているはずだ。

主人公はローマを目指すでもなく、街に留まるのでもなく、そこへ行けばいい。連絡を取るだけだっていいだろう。通信手段も交通手段も常時確保されている中、主人公がそれをしないのは、そんな「家族」など世界に存在しないからだ。

主人公の苦悩を分かち合える人は、世界にはいない。その苦悩に何らかの答えを出せるのは主人公だけだ。

モエギイヌによって、旧人類は小さくまとまり、そうしてできた隙間に新人類が収まる。旧人類は「家族」は指向し、新人類は非「家族」を指向する。そのどちらもモエギイヌは支持する。そのどちらにも属せない主人公をも、モエギイヌは支持する。

主人公は「家族」の外にいる。かと言って、非「家族」ではない。言うなれば、非「家族」に組み入れられながら「家族」を指向する立場の人物として、主人公はある。それは主人公に「家族」の価値を語らせるためだ。

「家族」の外にいる主人公は、「家族」から自由である、とも言える。

「家族」から自由へ、という流れなら主人公は、「家族」の抑圧と、自由の価値を語ることになる。自由から「家族」へ、という流れなら主人公は、自由の不安と、「家族」の価値を語ることになる。

主人公は作中では自由の不安を語っている。「家族」の価値は語っていない。まだ「家族」に会えてはいないからだ。物語の続きが描かれるなら、主人公は「家族」に会い、そこで、なぜ「家族」は必要なのか、それを語るだろう。

その前に、この作品の物語は終わる。それは紙幅の都合と言うよりは、作者がまだ主人公に語らせるべき言葉を見付けられていないから、であるように思われる。

作者は主人公と共に、未だ「家族」の外で、「家族」に会うと決心しながら、まだそれを果たせてはいないのではないか。

作中の「家族」とは、人口減少で住んでいた地域が維持できなくなったから、と逃げてきた旧人類の集まりだ。住んでいた地域とは、人が生まれ、生きる場所のことだ。それは家族のことに他ならない。

なぜ旧人類は家族を捨てたのか、と言えば、自らが生んだ子供を愛することができなかったからだ。

子供とは新人類のことであり、子供を新人類と呼び、自らを旧人類と称し、両者を区別しながら、しかし両者が同じ人類であることだけは認める人々とは、子供を捨てた親のことだ。

その親は、子供は愛せなかったが、その血の繋がりは否定しなかった。そこに、両者が再会できる希望と残酷さがある。両者の関係は、それほど断絶してはいない。ただ、親は子に対して、そして自分自身に対して少し正直過ぎたのだ。

わたしはあなたを愛せない。だから離れて暮らしましょう。

虐待するでもなく、殺すでもなく、いや、虐待しないために、殺さないために、親は子を捨てた。捨てられても子が生きていける環境があることを考慮した上で。

その環境の要素の一つに教師がいる。母は、教師もいるから、と主人公を捨てた。この教師とは何者か。

母に代わって主人公の世話をする、大人の男性であることから、養父を表しているように思えるが、違う。教師は旧人類の偽物であり、母よりも主人公に近い人物だ。親よりも子に近い立場だ。

母は家から逃げたが、教師は学校に縛られている。教師は母のように自由ではなく、教師はプログラムに従って主人公の世話をしている。母が持てなかった、(教え)子への愛によって、教師は主人公と関わっているわけではない。

教師は、母に捨てられてしまった子の世話をするしかない人物だ。そして、子の世話を押し付けて去っていた母に、教師は文句を言おうとしない。そうする権利を持たない。教師は母との関係を、そもそも持っていない。

教師は学校で寝泊まりしているようだ。教師は帰るべき家を持たない。また人造人間であることから、親も家族もない。一方で、主人公は母との血縁と記憶を持ち、母といた家に暮らし続けている。

教師を主人公と同類と考えるなら、より家族と断絶し、より捨て子らしいのは教師のほうだ。別の言い方をすれば、教師は主人公と同類でありながら、主人公以上に、母に拒絶されている。

主人公の世話を担う大人として現れるので気付かれにくいが、この作品で本当の捨て子としてあるのは、教師ではないか。捨て子の本体と言ってもいい。それは、捨て子を世話する捨て子、自身を世話する捨て子だ。

この作品は捨て子を主題としている。なら、この気付かれない捨て子にこそ、注目をしなければならない。

その捨て子は自分で自分の世話をしてしまうために、捨て子であることを誰にも気付かれない。だがそれは、捨て子自身がそう望んでいる。

捨て子は自分が捨て子であることを、そのつらさを、誰にも伝えようとしない。できない。捨て子とは、親に迷惑がられた子であり、そのために、もうこれ以上誰にも迷惑を掛けてはいけない、と思うからだ。

捨て子は、捨て子としてのつらさを表に出せない。それ自体が、また捨て子のつらさとなる。つらさを表に出せない、捨て子のつらさを、教師は表している。

教師を捨て子の本体として見るなら、主人公は何になるのか。それはやはり、捨て子だ。そして、タタナもだ。

細かく言えば、教師は捨て子の、大人を(無理して)演じている部分。主人公は捨て子の、素直な欲望や戸惑い。タタナは捨て子の、親に対する静かな怒りと抗議を、それぞれ表しているように思われる。

一人の捨て子の各側面が、作品内では三者に分けられて表現されている。それ自体が、容易にまとまることのない、捨て子の複雑な心情を表している。

ローマを目指す時に主人公は、教師に似た服装をして、新人類の子供を連れている。それは分裂した三者の捨て子が主人公に統合されたことを表しているように思えるが、そうではない。

主人公とは「捨て子の本体」が夢見る、架空の自分だ。「捨て子の本体」は成長しない。大人になれない。だから大人を演じつつ、「本体」に代わって成長する、ちゃんと大人になれる自分を、望む。

「捨て子の本体」は、帰る家もなく、学校で眠りに就いて、自分に似た服装をした少女が、大人になって母と会い、和解するだろう、そんな夢を見ている。

この作品は、捨て子の希望と成長の物語を描いているが、それは捨て子が望んでいる、ただの夢でしかない、ということも同時に描いてしまっている。

この作品の世界はモエギイヌに包まれている。モエギイヌは、無人の街で本来一人で生きていけないはずの主人公を養っている。主人公が胎児だとすれば、モエギイヌは子宮だ。

主人公は子宮の中で、大人になれないこと、母のようになれないことに苦悩する。子宮の中にいては、大人になれないのは当然だろう。なぜ主人公は子宮の外へ出ないのか。もう自分の意思で、そうすることのできる年齢のはずだ。

無人の街の外に出たとしても、そこにもモエギイヌは広がっている。主人公は世界のどこへ行こうと、一人で生きていける。不安は何もないはずだ。

しかしそれは、世界のどこに行っても、今ここにいることとあまり変わりがない、ということでもある。

子宮の外も子宮であるなら、子宮を出る意味がないし、子宮を出る、ということがそもそも不可能だ。子宮の外に出ることに不安がないのは、希望もないのと不可分だ。

モエギイヌは、誰でも一人で生きていける環境を作り出したが、そうすることで、人が集まって生きる意味を解体した。

かつて、人は生きるために集まった。なぜ人と出会わなければならないのか、という問いには、生きるためと答えることができた。だが、人と出会わなくても生きていける今、その問いに単純に同じ答えは出せない。

人と出会うこととは、大人になることだ。主人公は、大人になんかならなくてもいいや、とも思えない。しかし、なぜ大人になりたいのか、という問いにも答えられない。

主人公は迷っている。困ったことに、モエギイヌはその迷いすらを、度を超えた優しさで包み込んでしまう。悩んでいたければ、いつまでも悩んでいていい。その優しさは却って主人公の苦悩を温存する。

モエギイヌは、人と人とが出会わなくてもいい生き方を擁護する。だからといって、人と人とを断絶したいのでもない。

モエギイヌ以前、人は集まって生きるしかなく、時に望まぬ人との間に、人は留まらなければならないことも多々あった。それはこの作品では、特に家族のことを指している。

モエギイヌはそこから、人々を救い出した。人はいつでも、望ましくない家族を抜け出て、望ましい家族に加入することができるようになった。もし望ましい家族が見付からないなら、それが見付かるまで、一人で生きられるようになった。

しかし、望ましい家族とは何だろう。モエギイヌはそれに答えない。

そもそも、主人公は家族を抜けたかったわけではない。家族を抜け出たかったのは母で、母が抜け出ていった結果、主人公も一人、家族から抜け出るような形になった。

主人公は、母に好かれなくても、家族が崩れてなくなってしまうくらいなら、今の家族でもよかった。だが母は離脱し、家族は崩れてなくなった。そのはずだった。

母は家族を抜け出るのと同時に、主人公に、モエギイヌという子宮に還ってそこに留まり続けろ、と呪いを掛けた。それは、即ち主人公の誕生の取り消しと遅延のことに他ならない。

主人公はそれを素直に受けた。主人公は母の言い付けを守り、ずっと家に留まり続けた。そうして主人公は、ただ一人で家族を維持し続けた。母の言い付けを守り続ける限り、母は完全にいなくならない。

モエギイヌに譲り渡された家は子宮で、子宮は母で、子宮の中にいつまでもいることが、母の望みだ。子宮の外に出ないで、生まれないでい続けることが、自分を嫌っていなくなった母と今も一緒にいる、と主人公が思っていられる方法だ。

母から受けた呪いは、主人公にとって、母が残していった、邪悪な最後の温もりで、だから主人公はそれを捨てられない。

しかし、母の呪い、母の温もりは失効しつつある。それには、主人公自身の成長に加え、「ローマ家族」からのメッセージ映像と、タタナの死が大きく影響している。

メッセージ映像は、家族の別の形や可能性を主人公に知らせ、タタナの死は、主人公に母の不在を再確認させた。

主人公はタタナが傍にいたことで、家に留まり続ける自分を、いなくなった母に見守られているような気になっていたのではないか。一人で生きることは、母を不快にさせたことに対する、母からの罰であり、タタナはその罰の見届け人だ。

タタナが見守る中、罰を受け続けることで、いつか母が帰ってきて、また家族として一緒に暮らしてくれる。そう思うことで主人公は、淡い希望を抱いて母を待つことができた。

しかしタタナはいなくなり、タタナが母の代わりなどではなく、単にタタナでしかないことを、主人公は受け入れざるを得なくなる。それと共に、もう母が帰ってこないことを、受け入れざるを得なくなる。

これまで母の呪いと共に生きてきた主人公は、それを抜けられるようになって、これからどうするつもりか。どうもしない、と主人公は言ったが、それはどうもしたくないことを意味しない。

どうにかできるものなら、どうにかしたい。しかし、そもそも主人公は、何をどうしたいのか、それが先ず分からない。

母の望み通りに家に留まり続けた主人公は、自分の欲望を母に委ねている。主人公は、母の許しなしに、何もできない。母に嫌われたくなかったからだ。だから、何をどうしたいかなんて、考えることがなかった。

主人公は母の帰りを待っていた。母が家に帰ってくれば、主人公の止まったままの時間は動き出すはずだった。主人公は、母なしに自ら時間を動かせる、と自分を信じることができない。

自分の時間を生きることは、自分の欲望を生きることだ。結局のところ、主人公は自分の欲望が分からず、自分で自分の欲望を肯定することもできず、誰かに肯定してもらうこともできず、通常の欲望を持たないようにして生きてきた。

本来だったら、母に自分の欲望を肯定されることで、主人公は自分の時間を生きられるようになっていただろう。しかし母は、主人公の欲望を肯定しないまま、いなくなってしまった。

主人公は、いつか帰ってくるかも知れない母に、自分の欲望、自分の時間を捧げて預けることで、自分の欲望を自分で肯定できない問題を封印していた。

母がもう帰ることがない、と理解した時、自分の欲望を預ける先を失い、主人公は戸惑う。

これからは自分の欲望を自分で抱えなければならない。しかし、主人公はそれを自分で抱える自信がない。その二つが主人公の問題だが、自信を持つことができれば、最初の問題も解決していく。

初めに自信を持つことを子供に可能にしてくれるのが、母のような家族なのだが、主人公には母以外の家族がいない。

今、主人公には母に代わる、自分に自信を持たせてくれる家族が必要なのだが、モエギイヌの力で、街には家族になってくれるような人がいない。しかし、モエギイヌの力で、学校には教師がいる。

教師は教育プログラムに則った言葉しか語れない。しかし、その言葉を以て、プログラムから逸脱した、あることを教師は主人公に伝えようとした。と言うより、プログラムを逸脱するような振る舞い自体で、教師は主人公に、あることを伝えようとした。

これまで長い時間を、同じ建物の中で、恐らくは他の誰も入り込んでくることもなく、授業以外にも話をしたり、食事をしたり(?)、一緒に過ごしてきた、おれとおまえはもう家族のようなものではないのか、と。

教師は、主人公が喪失したタタナの代わりを引き受け、そしてタタナ以上の役割を引き受けようとしている。

タタナは主人公と生活を共にしなかったが、教師は主人公と生活の一部を学校の中で共にした。

つまりこの学校は二人にとってもう一つの家であり、そこで一緒に時間を過ごしてきた二人の関係は、もう一つの家族だろう、と教師は言おうとしている。

捨て子やモエギイヌ、それらを用いて、この作品が描こうとしているのは、家族がいないことと家がないこと、という問題だ。家とは単に生活の場所ではなく、そこに自分を肯定してくれる家族がいることが重要だ。

主人公も教師も家族のない場所に住んでいる。主人公の住む場所はかつて家であり、今も家の体裁を保っているが、家族がないなら、そこはもう家ではない。モエギイヌの一部だ。

教師は主人公の家族となることで、学校を家に変えた。そうすることで主人公は家を出て、学校や街を出て、広い外の世界に向かって進み出せる。

この作品にとって家とは、外の世界に出発するために必要なものだ。それが欠けていたから、主人公はどこにも行けなかった。家が家であるためには、誰であれ、そこに家族がいなければならない。

家族がいれば、そこはどこでも家となり得る。家族がいれば、人はどこかに行ける。安心して帰れる場所がある、優しく迎え入れてくれる人がいる、そう思えることは、子供が大人になるために重要だろう。

主人公と教師は家族になった。そうして主人公は家を得て、家を出られた。だが、主人公が家を得たなら、教師も家を得たのと同じであり、それなら教師が家を出られる可能性もあったのではないか。

家族がいる場所が家であるなら、どちらかが家を出て、どちらかが家に残る、ということをしなくてもいい。主人公と教師は、一緒に学校を出て、今いる街を出て、二人で新しい本当の家を求めて、世界を旅してもよかった。

あるいは、主人公は教師と一緒に、学校を家として暮らすのでもいい。教師と家族になれたのなら、主人公の望みはその時点で叶っている、と言える。しかし、そうはならなかった。

主人公がタタナ達と暮らさなかったことを思い起こそう。それと同じく、主人公は人造人間とも暮らそうとはしない。旧人類は、新人類と暮らせないが、人造人間とも暮らせない。暮らせない、とは、正式な家族になれない、ということだ。

ただ人造人間は、家族の代替品にはなれる。それは言わば、家族の偽物だ。心の支えにはなれるものの、それ以上の関係にはなれない。

教師は主人公の正式な家族にはなれない。だから、一緒に家で暮らすことも、一緒に家を出ることもできない。教師ができるのは、家族の代替品として主人公の心の支えになりながら家に留まり、主人公が出る家を家たらしめることまでだ。

教師がなれたのは、偽の家族だ。それでも教師は満足だった。なぜなら教師は人造人間であり、旧人類に奉仕するためにいる、偽の旧人類だからだ。教師は最初から、偽物である自分が主人公と本物の家族になれる、などと期待していない。

モエギイヌとは子宮だ、と書いた。子宮とは人類の女性特有の臓器だ。モエギイヌに注目してみると、主人公もその母も、子宮を持つ点で同列の存在だ、と言える。

主人公の母は、主人公をモエギイヌの中に置いて家を出た。その後どうなったか。「ローマ家族」に加わった可能性が思い浮かぶが、ここで考えたいのはそういったことではない。

母と主人公は二人だけの家族だった。それを抜け出た母は主人公と同じ単身者になり、母から一人の女に戻ることになる。

母が主人公を捨てることができたのは、モエギイヌの庇護があったからだ。モエギイヌは家族を解体する力を持ち、母を一人の女に戻す力を持っている。

では、一人の女に戻った母はどこへ行ったか。どこかへ行けただろうか。その女は主人公と同じように、どこへも行けない人物ではなかったか。主人公は、一人の女に戻った母をも象徴している人物とは考えられないか。

主人公は、母に捨てられた子供であるのと同時に、子供を捨てて一人の女に戻った母だ。主人公はモエギイヌの力を体現するためにいる、と言うより、主人公のような人物を成立させるために、モエギイヌはある。

では、主人公は何のためにいるのか。主人公はこの作品の物語で何をしたか、と言えば、家を出ることだ。それは母と同じ選択なのだが、その印象は母と大きく違う。

主人公も母も何のために家を出たか、と言えば、他の誰のためでもなく自分自身のためだ。

しかし、母の家出には、自分勝手や無責任といった、否定的な言葉が思い浮かぶが、主人公の家出には、呪縛からの解放や旅立ちといった、肯定的な言葉が思い浮かぶのではないか。

だとすれば、母の家出に対する否定的な印象を肯定的な印象で上書きすることが、モエギイヌや主人公に求められたことだ。一体誰が何のために、そんなことを求めたのか。

それは当然、母の家出の意味を、主人公の家出の意味によって上書きしたい人物が、それを求めたのだ。その人物とは誰か。それは「捨て子の本体」たる教師だ。そしてこの教師こそが、作品世界にモエギイヌを望んだ張本人だ。

母と断絶し、一人、家の外の学校という場所に封じられた教師は、モエギイヌによって少女に変身した母と、学校で再び関係することができるようになる。

それだけではない。主人公がモエギイヌ的環境の中で、大人になれない、と苦悩していたことを思い起こそう。モエギイヌは、子供を子供のままに留める力も持っている。

ここで、主人公の身体に新人類的特徴が顕れたことの意味を、はっきりさせておこう。

新人類的特徴とは、肉体から色が失われていることと、体表に角が生えていることだ。角といっても、それは骨のように硬いものではなく、丸くて柔らかそうなものだ。新人類達は、それだけでなく身体全体が、その丸くて柔らかい角のようだ。

タタナは主人公に果実を与えていたが、その果実を身体の袋状になった部分に蓄えている場面がある。果実はどこから生じたのか。タタナの身体からではないか。

そうではないにしても、体内に蓄えられ、そこから取り出されて主人公に与えられることから、その果実は母乳の隠喩と考えられる。母乳を湛える、丸くて柔らかい、身体の特徴的部位とは乳房だ。

あるいは主人公を養う点だけ見れば、それも子宮と言えるかもしれない。乳房にせよ子宮にせよ、それがある日、主人公の身体に明確に顕れ出す。それは第二次性徴のことであり、妊娠に備えて起こる、女性の身体的な成熟のことだ。

そして、全身が乳房ないし子宮で、言葉も自我も持たない新人類達は、人類から引き剥がされた、女性の身体的成熟性を象徴している。

主人公の身体に顕れた新人類的特徴とは、モエギイヌによって少女に変身した母に、再び身体的成熟が始まったことを表しているのと同時に、少女としての母から身体的成熟を無理矢理引き剥がそうとした、醜い痕跡のことでもある。

ところで、この作品は白黒で表現されている。タタナの果実の色は黒く表現されているが、これは本当は赤い色ではないか。

この作品には、少女としての母から身体的成熟を引き剥がしたい欲望が描かれている。だとすれば、新人類および作品全体に色が失われているのは、赤い色、つまり経血の色を忌避しているからではないか。

この作品は家族を操作したがっている。母を操作したがっている。そして実際に操作され、母から少女に変身させられ、身体的成熟性を引き剥がされ、捨て子にされたのが主人公だ。

そして、その捨て子化した母と同じ家で暮らしたい、と願ったのが「捨て子の本体」たる教師だ。しかし、その願いを教師は、最後には自分の手で捨て去る。

この捨て子は、結局のところ、どう操作しようが、母と対等になることができない。母と一緒に暮らすことも、母と一緒にどこかへ行くこともできない。

そうできるようになるには、母を操作して少女に変身させたのと同じように、教師は捨て子である自分自身をも操作し、別の何者かに変身する必要があったのだ。

教師は自分自身が捨て子であることを、変えることはなかった。変えられなかった。そうである以上、教師は捨て子として、家に一人残って、再び「母」の家出を見送る他はない。だからせめて、その意味を肯定的なものに書き換えたかったのだ。

この作品の中心にいるのは、主人公ではなく、教師だ。最後に、その教師の本心と、この作品の意味を確認しておこう。

教師は、遠い存在としてある「母」を少女に変えて、学校の中に招き入れ、そこで互いに身近な存在となり、時間を過ごす。その後、教師は主人公に働き掛け、彼女が学校と街を出るための、手助けをする。

主人公はモエギイヌによって、外の世界へ出ていく力を奪われている。教師が何も働き掛けなければ、主人公はどこへも行けず、教師は学校で主人公と会う生活を、ずっと続けられたはずだ。

教師は「母」を縛っておきたいのか、縛りたくないのか。どちらなのだろう。

教師は教育用に設計された人造人間だ。学校から出ることはできず、教育プログラムに則った行動しかできないはずだ。しかし教師は、プログラムを逸脱して、主人公に働き掛けた。主人公を学校から卒業させるためだ。

それは教師の職責に鑑みれば正しい振る舞いだ。しかし、人造人間としては不適切だ。教師は人造人間らしくあるよりは、教育者らしくあろうとした。人造人間であることに忠実だったなら、教師は主人公とずっと一緒にいられた。

人造人間とは旧人類の偽物であり、家族の偽物のことだった。教師はそこから逸脱し、教育者らしくあろうとした。家族の偽物であるよりは、教育者でありたい、と願った。教育者であることとは、どういうことなのか。

教育者とは、責任を帯びて子供の健全な生育に携わる者のことだ。それは家族が務めることもあれば、全く無関係の人間が務めることもある。後者は、公共教育機関によって、全ての子供に平等に供給される。

つまり教育者とは、家族かどうかに関係なく、子供の将来を純粋に案じ、それに関わる立場のことだ。そして、ここでは子供とは、主人公のことを指し、「母」のことを指す。

教育者であることとは、家族の関係を越えて、あるいは家族の関係を無効にして、「母」と関わることだ。教師は、偽の家族よりは、家族でない者として、「母」と関わることを選んだ。

以前、教師は主人公と家族になった、と書いた。そしてここでは、教師は家族でない者を選んだ、と書いている。一見、矛盾しているように思えるが、それは教師と主人公が非対称な関係だからだ。

教師は人造人間で、主人公は、発達が順調ではなかったが、旧人類だ。主人公からすれば、教師は偽の家族になったのだが、教師からすれば、主人公は偽の家族にはなっていない。

偽の家族とは、本物の家族ではないが、心の支えにはなれる者のことだった。教師にとって主人公は、心の支えではなく、寧ろ心を掻き乱す存在だろう。

「母」に心を掻き乱されないために、人造人間のような機械的態度や、教育者のような公的責務が、教師には必要だったのではないか。教師は「母」に対して、一定の距離を取ろうとしている。それは新人類の徹底した無関心に類似した戦略だったように思われる。

教師は「母」との適切な距離を探していた。そして、学校で教育者となって「母」に近付き、慎重に関わった。

そこで気付いたのではないか。その回りくどい慎重さを必要とするなら、自分は「母」と本物の家族にはなれない。しかし、だからといって、その慎重さを捨てる気にもなれない。そしてその煩悶は、時間を掛ければ解決するようなものではない。

主人公が言った、わたしは母のようにもタタナのようにもなれない、とは、主人公の口を借りた、教師の「母」に対する答えだ。「母」に無関心になり切ることも、慎重さを脱ぎ捨てて「母」に関わることもできない。これからもずっと。

モエギイヌを使って「母」を縛り付けた教師は、「母」を見詰めた末に、モエギイヌを解いて「母」を外の世界へ放つ。教師は「母」との適切な距離を知りたかった。いや、不適切な距離を知りたかった。

教師はこれからもずっと「母」に関心を持ち続ける。近付くこともある。しかし、一定以上に近付くと、冷静ではいられなくなる。その距離はどんなものか。それが分かっていれば、「母」を必要以上に遠ざける必要はなくなる。

教師は「母」を、複雑な感情を抱く家族から、物語のヒロインに変身させ、その出発を調えた。ヒロイン、即ち主人公が出発した外の世界とは、ヒロインが演技を振るうことになる、創作が作り出す舞台だ。

教師は「母」と暮らさない。その代わりに、ヒロインとなった「母」が舞台を演じる、夢を見る。教師は舞台を造り調え、その舞台の上を、変身した「母」が舞う。それが、教師が辿り着いた、「母」との適切な距離だ。

教師とは作者だ。「母」が作者の実際の母を投影した者であるのかは不明だが、少なくとも、作者に漫画を描かせるほどには、心理的に重大な影響力を持つ人物だ。

そして作者は、その人物とどういう距離を取るべきか、それを漫画を描くことを通じて考えた。その結果、漫画を通じて「母」と関わること自体が答えだ、と結論を出した。

「母」とは家族のように親密には関わらない。だが、私人としてではなく漫画家として、自分のためではなく読者のために、「母」を別の何者かに変身させ、面白い物語を演じさせる。そのようにして、作者は「母」と関わり続けることを決めた。

言わば作者は、「母」を捨てて、それを漫画の素材として、改めて拾い直すことをしている。この作品は、作者が「母」を漫画にすることができるようになるまでを、漫画として表現したものだ。

この作品の題名は「讃歌」だ。その意味は、作品を一読すれば、人類に対する、人類としての主人公に対する、肯定であるように思える。

だが、作者の「母」への屈託を作品から読み取り勘案するならそれは、「母」への屈託を娯楽に変え、「母」への肯定を可能にした、漫画という表現方法と、その方法を手にし、その方法と共に生きていこうとする作者の、作者自身への肯定であるように思える。