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倉樹楽作、漫画「紅黄草の盲目」を読む


ミキは「私の夢」という題名の作文を発表し、幼い頃は漫画の登場人物に憧れたが、今は航空関連の職業人に憧れていることを明かし、空を飛ぶことが夢だ、と話す。

主人公はミキに見惚れ、交際したい、と考えているところで、消ゴムを落としたよ、と後ろの席の女子に肩を叩かれる。その女子は、主人公の肩に妙な硬さがあったことを心配するが、主人公は誤魔化す。

放課後、主人公はミキに、幼い頃のように一緒に下校したい、と伝えるがミキは断る。

その後、主人公は公園で絵を描いている。すると、マコトと嬉しそうに一緒に下校するミキを、主人公は見付ける。二人は彼女の家に入っていく。

主人公は、まだミキと仲が良かった三年前の、公園でのことを思い出す。主人公は父から絵の描き方を教えてもらっていて、父の真似をして花の絵を描いていた。ミキはその絵を褒め、花が好きだ、と話す。

回想を終えた主人公は、絵が上手くなればきっとミキに振り向いてもらえるはずだ、と考える。主人公は、蝉の脱け殻の中から咲く花を、描いていた。

主人公が家に帰ると、玄関に母の洒落た靴があることに気付き、今日は母が恋人と逢う日なのだ、と悟る。

主人公は入浴の準備をするが、衣服を脱ぐと皮膚に奇妙な殻のようなものが、たくさんある。それを主人公は第二次性徵と関連付け、こんなことになっているのは自分だけだ、と考えるが、このことを母に相談する気にもなれず、一人で不安がる。

翌朝、主人公は精通を迎え、自分が他のみんなと一緒であることに安堵する。

学校で主人公は友人に、昨日の、ミキを誘ったことについて聞かれる。ミキに断られた、と話すと友人は、おれらのところへ来い、と言うが主人公は、それは何か違う、と答える。

主人公は、明日ミキが旅行で初めて飛行機に乗ることを、近くで聞く。主人公は友人に、一緒にトイレに行こう、と肩を叩くが、友人はそれに痛がり、爪が伸びているのではないか、と言う。

主人公が自身の指先を確かめると、あの奇妙な殻のようなものが指先に出来ており、それが時間と共に腕にどんどん拡がっていく。

主人公は泣きながら急いで家に帰り、母に助けを求めようとするが、母は、帰宅が遅くなるから夕飯は一人で食べるように、と伝える手紙を置いて、外出していた。

主人公は異変の進行する手で、夕飯を食べないことを手紙に書き加えて、部屋に籠る。

その夜、主人公の皮膚の異変は全身に拡がっていた。主人公は寝台の上で蹲り、奇妙な内的体験をしていた。

巨大な植物の根が、主人公の身体を何ヵ所も貫き、やがて心臓を貫く。根からはミキの声が聞こえる。主人公は頭部が巨大な花と化していて、上半身は地面から樹木のように生えており、貫かれた心臓に背を向けている。

根はミキの姿となって心臓から生え、主人公に背後から迫り、なぜあなたではなくマコトを選んだか分かるか、と主人公に問う。主人公の腕からは、いくつもの花が出て落ちていく。

根は、それは彼のほうが好きだから、と答えると、主人公の頭部を摘み取って落とす。首からは、血が噴水のように吹き出る。落ちた頭部の口の中から、蝉の幼虫が這い出てくる。

幼虫は、主人公の上半身を登りながら、もしミキの好きな絵が描けたら、おれを好きになってくれるか、と根に訊く。根は、そんなことは無理だ、と答え、主人公の胸部に指を差し入れ、下ろす。

根は、気付け、もうあなたは絵を描ける身体ではない、と主人公に語り掛ける。

指は主人公の胸から腹までを裂いていき、その線上にいた幼虫までも裂く。主人公の裂けた上半身の中から、花で出来た、人の上半身が出てくる。外の世界では、蹲った主人公の背中が割れ、中から蝉のような怪物が出てくる。

主人公は怪物に変態した。視覚や聴覚は鈍っている。身体に起きた異変は恐いが、空を飛ぶ、というミキの夢を叶えることができるようになった今、そのことは全く気にならない。主人公は羽を羽ばたかせる。

母は主人公の部屋の扉の前で、自分が主人公の父を捨てて他の男性を好きになったこと、それで主人公の父が主人公を捨ててしまったことを謝り、部屋から出てきてほしい、と話し掛ける。

返事はなく、心配になった母が扉を開けると、そこに怪物となった主人公の姿はなく、主人公の脱け殻だけがあった。

蝉のうるさい鳴き声で目を覚ましたミキは、窓を開けて外を確かめる。すると、巨大な何かが部屋に入り込んでくる。それは蝉の怪物に変態した主人公だった。主人公は下腹部を突き出し、激しく鳴いて、ミキに迫る。ミキは悲鳴を上げる。

主人公はミキを背後から抱き掴んで、町の上空を飛ぶ。ミキの顔は、涙と鼻水と唾液を垂らしたままで、無気力だ。主人公はミキが何を言っているか、どんな顔をしているか、もう分からない。

主人公は、きっとミキは喜んでくれているはずだ、と考え、その顔をよく確かめることができないのを惜しみながら、夜の闇の彼方へ消えていくところで物語は終わる。


ミキは、登場人物達が不思議な力で空を飛ぶような漫画から、科学の力で空を飛ぶ事業に携わる職業へ、憧れの対象が変わったことを話す。空を飛ぶ、とは異性との接触を表し、不思議な力から科学の力への変化は、子供から大人への変化を表す。

そして、漫画とは絵のことであり、幼い頃に夢中になった漫画とは、主人公とのかつての関係のことであり、それをミキは捨て去ろうとしている。

主人公は父に絵を教わっており、父は花を描く人であり、主人公はそれを受け継いでいる。花とは異性への関心のことであり、もっと言えば性的欲望のことだ。

父は母に捨てられ、父は、母を思い出すから、と主人公を捨てた。主人公は、既に父の「花」を捨てた母に傷付けられており、今は主人公の「花」を捨てようとするミキに傷付こうとしている。

初めて飛行機に乗る、というミキの話を聞いて、主人公の身体の異変は急激に増悪する。飛行機に乗るとは、大人としての性的接触を象徴し、その相手は少なくとも主人公ではない。

主人公は、ミキが飛行機に乗ってしまう前に、どうにかして自分の力で、ミキに空を飛ばせてあげなければならない。主人公はもう、父や自分の「花」が拒まれ捨てられてしまうことに、耐えられない。

その欲求が普通ではないことを、主人公は予感している。しかし、今まで衣服に隠せてしまえるくらいで済んでいた、その醜い欲求は、もう衣服の中に収まらない。

主人公は最後に母に助けを求めようとするが、母はいなかった。恋人の許に行ったのかも知れない。何にしても、主人公は再びここで、母に傷付けられる。主人公は異変に強張る手で、母への拒否を手紙に返信する。

主人公は全身が異変し、奇妙な内的体験をする。そこでは巨大な根に全身と心臓を貫かれる。根というからには、それは植物であり、恐らくは「花」だ。「花」はミキの声と姿で、主人公に語り掛ける。

そして、今まで主人公の頭部として咲いていた花を摘み取ると、そこから蝉の幼虫が現れる。

主人公は、ミキに捨てられることに怯えながら、花に蝉の脱け殻を描き加え、そうすればミキを繋ぎ止められる、と考えていた。

あの絵は、蝉の幼虫の中から花が咲いた場面を描いたもの、と言うより、蝉の幼虫の中身が「花」であることを示したもの、なのではないか。

羽化を直前に控えた蝉の幼虫は、身体の異変に苛む主人公自身を表している。そして主人公は、単に「花」でしかなかったものを、蝉の幼虫の中身として描き直した。

主人公の身体の異変とは、彼の第二次性徴を表していた。それが極まり、そこから蝉の怪物が現れ出た。蝉の幼虫の中身が「花」だったのであれば、蝉の怪物とは「花」の怪物だ。

「花」とは異性への関心、性的欲望のことだった。それが、ミキの空を飛ぶ夢から疎外されたことで、蝉の幼虫の中身となり、怪物となった。その怪物は「空を飛ぶ」怪物でもある。

怪物となった主人公は、ミキの部屋に押し入り、怯えて悲鳴を上げる彼女を背後から抱えて、空を飛ぶ。それは性暴力の隠喩と言う他ない。

夜の闇に消えた二人はどうなるのか。主人公は視覚も聴覚も鈍っていた。それは人間性の喪失のことであり、もう主人公が人間として戻ってくることはないだろう。そして、その主人公に捕まり連れ去られたミキも、無事に戻ってくることはない。

この作品は相当に陰惨な出来事を描いている。そして、その出来事の原因が、父や主人公に対する、母の度重なる性的な裏切りであることを描いている。

母は、父や主人公が望まない性的行動で、主人公を傷付けた。だから主人公にとって、母が望まない性的行動をすることが、母への報復になる。そうして主人公は、関係のないミキに、その報復の危害を負わせることになる。

ミキは主人公を傷付けたのだろうが、ミキが誰を好きになり、誰と結ばれようが、それを非難する権利は、主人公にない。ただ主人公にとって、性的な成熟と欲望と、母に似た仕打ちをされたことと、母への報復の衝動とが、ミキの上で重なってしまった。

それを不幸や不運と言おうとすれば言える。しかし、だからといって、それが主人公の行動を免罪することにはならない。

だが、主人公にしてもそのような行動を望んではいなかっただろう。でなければ、主人公は身体の異変に怯えはしなかったはずだ。主人公は、蝉の怪物、「花」の怪物になりたかったわけではなかった。

しかし主人公は、なってしまった。そして、関係のない少女を巻き込み、傷付け、その人間性を蹂躙した。

この作品は、そうした主人公の免罪を叫んではいない。ただそこに至る過程を描いている。それには、男という性に対する、男の側からの困惑と嫌悪と、僅かな同情とが、表されているように思われる。