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阿黒巧熙作、漫画「神です。拾ってください」を読む

画家である主人公は、絵を描くことが収入に結び付かないことを愚痴り、打出の小槌でも落ちていないものか、と呟いたところで、街の片隅で捨て犬のように佇んでいる、奇妙な装いの子供と目が合う。

首から「神です 拾ってください」と書かれた札を提げている、その子供は、天照大御神の子、万能の神サヨリ、と名乗る。

サヨリは主人公に、わたしの面倒を見させてやろう、と言う。その言葉遣いは、いやに古めかしい。

サヨリの言うことを真に受けない主人公は、サヨリをガキ呼ばわりし、軽々しく接する。その態度に怒ったサヨリは、主人公の左手に、犬のように噛み付く。

更にサヨリは、わたしは神だから敬語を使え、でないと天罰を下す、と言う。やれるものならやってみろ、と挑発すると、主人公は落雷を受けて黒焦げになる。

主人公がサヨリを神と認めると、サヨリは主人公の傷を癒す。そうした手前、内心では反抗しながらも、主人公はサヨリを敬う姿勢を見せるが、長続きはしない。

主人公は、神があんなところで何していたのか、とサヨリに訊く。サヨリは、母に天界から追い出されたのだ、と語り出す。

サヨリは、自分は何でも最良の結果を得られる、「最良の権能」を授かって生まれた、と話す。それは例えば、食材を用意すれば、後は何もしなくても完璧な料理になる、というものだ。

サヨリは、その権能で何でも完璧にこなすことができ、そのことを誇る。だが、何をやっても完璧なので、何もせずに半年ほど寝ていたら、大事な仕事を放り出したままだったので、それを母に怒られ、天界から放り出された、と現在までの状況を話す。

サヨリは、わたしが仕事を放り出したままでいたのも悪いが、何をやっても完璧なわたしを放り出す母もおかしい、と母に言ってやりたいのだ、と怒る。

しかし母からは、帰るにはしばらく人間の面倒になれ、と言われているので、主人公に面倒を見させてやることにした、とサヨリは言う。だが主人公は、嫌だ、と断る。

そう返されるとは思わなかったサヨリは再度、面倒を見させてやろう、と持ち掛けるが、主人公は再度、嫌だ、と断る。サヨリは、主人公が自分の面倒を見られることをなぜ有り難がらないのか、理解できない。

主人公はサヨリの許から去ろうとするが、サヨリは天罰を与える構えを見せて、主人公を脅す。主人公は、なぜおれでなければならないのか、と問う。サヨリは、最初に目が合ったからで、それには必ず意味があるはずだ、と答える。

サヨリは主人公の自宅に招かれ、主人公の名前と、主人公が画家であることを教えてもらう。主人公は、サヨリは何をすれば帰れるのか、と訊ねる。サヨリは、母に「人生を楽しめるようになるまで帰ってくるな」と言われた、と話す。

主人公は、おまえは人生が楽しくないのか、と訊ねる。サヨリは、そうではないが何をやっても完璧なので、飽きてはいる、と答える。主人公は、下界は初めてか、と訊く。サヨリは、そうだ、と答える。

なら下界の遊びを教えてやろう、と言い、翌日、主人公はサヨリを競艇に連れていく。

競艇場で、主人公は峰という選手が一着にならないことを熱願する。しかしその選手は一着になってしまう。主人公は、その選手が最強、と言っていながら、二着になる予想をしていた。

なぜ二着に賭けたのか、とサヨリが訊くと、そのほうが払い戻しが多い、と主人公は答える。安定な選択肢を知っていながら、それを取ることをしない、主人公の価値観が窺える。

全財産を失って落ち込む主人公に、サヨリは次のレースの当たり券を出して渡す。レースの結果は当たり券の通りになり、主人公は感激してサヨリを持ち上げる。

気を良くした二人は、続いてパチンコ、競馬と渡り歩き、大金を手にする。それを使って二人は連日、豪遊を重ねるが、すぐに飽きて無気力に陥ってしまう。

サヨリは布団に包まっているが、その隣で主人公は起きて、久し振りに絵を描こうとしている。サヨリは、手伝ってやろう、と申し出るが、主人公は断る。

その返事が聞こえなかったかのように、サヨリは再度、手伝ってやろう、と申し出るが、やはり主人公はそれを断る。

その返事に気を悪くしたサヨリは、主人公の向かうキャンバスに手を触れて権能を振るい、最良の絵を完成させてしまう。主人公は抗議の声を上げ、キャンバスを取り替えて書き直そうとする。

それに対してサヨリは、なぜ目の前に最良の結果がありながら、それを手放すのか、と静かに怒りながら問う。

賭博にも行かなくなり、日に日に自分の力を頼らなくなっていく主人公にサヨリは、自分の存在の価値を否定されたように感じている。

子供らしからぬ剣幕で迫るサヨリに、主人公は怯えながらも、おまえの権能はつまらないだろう、と答える。サヨリは主人公に天罰を与える。

殺す、と迫るサヨリ。マジで死ぬ、と怯える主人公。だが主人公はそれでも、なぜつまらないと感じるのか、をサヨリに説明する。完璧はつまらない、と。

サヨリは、それの何が悪いのか、と主人公に問う。

そんなことは自分が一番よく知っている。でも生まれ持ったものだから、どうしようもない。どうしようもなくつまらないのがわたしだ。それが悪いことなのか。

そのようにサヨリは自身の胸の内を叫ぶ。そして、わたしが悪いから、母はわたしを追い出したのか、とサヨリは子供らしい幼い顔に戻って泣き出す。

大人のようでも子供のようでもある、不安定なサヨリを、主人公は受け止め、慰める。

茶を一服して落ち着く二人。主人公は、完璧は悪いことではない、と言う。サヨリは、ならなぜわたしの権能を求めないのか、と訊く。主人公は少し考えて、過程がないからだ、と答える。

結果とは、物事の終わりだ。それは人生で言えば死だ。死が楽しい、ということはない。人生や物事に楽しみがあるとすれば、結果ではなく、その過程にあるのではないか、と主人公は語る。

主人公は、サヨリの権能は完璧な結果をもたらすから悪いのではなく、完璧だろうが失敗だろうが、過程を省いて結果だけをもたらすから悪いのではないか、と言っている。

あまり実感の湧かないサヨリに、主人公はスケッチブックを差し出し、描いてみろ、と促す。

主人公は、何を、とは言っていないのだが、サヨリは、余裕だ、と応じようとする。権能を使えば、何を描けばいいか、などと考えなくても、完璧な絵が勝手に完成するからだ。そこで主人公は、権能はなしで、と注文を付ける。

サヨリは権能を封じられることに不満を言う。権能が、サヨリの唯一の誇りだからだ。しかし、その誇りのせいで人生がつまらなくなっているのだろう、と主人公は指摘する。

封じることは捨てることではない。だから、封じることを恐れる必要はない。主人公は改めてサヨリに、権能を使わずに絵を描いてみるように促す。

真っ白な紙を前にサヨリは戸惑い、何を描けばいいのか、と主人公に訊く。主人公は、何でも好きなものを、と答える。サヨリは不安そうに、鉛筆を握って紙に向かう。

サヨリにとって、何を描けばいいか分からない、は、自分が何を好きなのか分からない、あるいは、自分は何が好きなのかを考えたことがない、ということだったのかも知れない。

鉛筆を紙の上に走らせ始めると、サヨリの心に、好きなもの、描きたいものが溢れ出す。サヨリは目を輝かせ、絵を描くことに熱中する。

その様子を眺めながら、結果を彩るのは、その過程にある苦悩と喜びと「好き」だ、と主人公は思う。

サヨリは完璧には程遠いが、自分の「好き」な母の肖像を描き上げる。それを主人公は、悪くない、と評する。サヨリは、「好き」を形にするのは難しいことだ、と知る。

そして、難しいことに一生懸命になることは、本当に「つまらない」と、とても楽しそうに笑う。サヨリは権能よりも「つまらない」もの、誇らしいものを見付ける。

そこへサヨリの母が現れる。その言葉遣いがギャルであることに主人公は狼狽する。

サヨリの母は、最近仕事が凄く忙しかったので、サヨリを預かってもらえて、とても助かった、と主人公に感謝する。そして、わたしも昔は引きこもっていた時期があったので、サヨリにはもっと外に出て欲しかったのだ、と語る。

サヨリは母に駆け寄り、自分が描いた母の肖像を、母に見せる。サヨリの母はそれを喜んで、褒める。サヨリは嬉しそうに照れる。

サヨリの母は、学んで欲しいことはもうないし、ここにいる必要もなくなったので帰ろう、とサヨリに言う。手を引いて自分を連れて帰ろうとする母を、サヨリは引き留め、もう少しここにいては駄目か、と訊く。

サヨリは恥ずかしがりながら、まだ描きたい絵があるし、試してみたい画材もあるし、と主人公の許に留まりたい理由を話す。

無気力になって布団に包まり、不機嫌そうに、なぜ起きなければならないのか、と言っていた頃のサヨリを、サヨリの母は思い出す。そして、今目の前に立っているサヨリの、変化と成長振りに目を見張る。

したいことができたんだね、とサヨリの母は、安心したように、サヨリに微笑み掛ける。

そして、そのやり取りを見ていたでしょう、とばかりに細かいことを省いて、サヨリの母は主人公に、再びサヨリを預かってもらいたい意向を伝える。必要なものはこちらで用意する、とも伝える。

神様の滞在に必要なものとは何なのか。それはよく分からないが、サヨリの母は主人公の経済事情に配慮する。それでも迷う主人公に、出会った頃とは打って変わって、すっかりしおらしくなったサヨリも願い出る。

主人公にとっても、そのサヨリの変化は、サヨリの母と同じくらいに、心に響いたはずだ。主人公が二人の願いを聞き届けるところで、物語は終わる。

サヨリの権能は、何にしても最良の結果を手にできるのだが、そこには過程がない。作中ではそのことが問題とされたが、もう一つ、最良が必ずしも満足を保証しないことも、問題だ。

最良の結果が満足と結び付いているなら、サヨリは人生に飽きることはなかったし、主人公は勝手に出来上がった絵に感動したはずだ。最良とは出来上がったものの品質のことであって、欲求を満たすのに最良、ということではない。

あの勝手に出来上がった絵の品質は最良でも、それは主人公の欲求を満たさなかった。欲しくもないものは、最良の品質だろうが欲しくはならない。

最良の結果とは、「完璧」とも作中では表現されるが、それは「完成」と言ったほうが正確ではないか。完璧なら、品質も最良な上にしっかり欲求も満たしてくれるはずだからだ。

サヨリの権能は、過程を省き、完成されていることは保証するが、満足は保証しない、何かを調達する力だ。その何かとは商品のことであり、それを調達する力は貨幣だ。サヨリの権能は、貨幣の力を象徴している。

主人公は画家としては売れておらず、金に困っている。そこでつい、打出の小槌が欲しい、といったことを呟いたところで、主人公はサヨリと目が合う。サヨリは、主人公が欲しがった打出の小槌だ。そして実際、サヨリは主人公に大金をもたらす。

注目すべきは、主人公の、サヨリへの不服従だ。主人公は金に困っているが、金に服従することはない。サヨリの神通力を身を以て味わっても、主人公はサヨリを変わらずクソガキとして扱い続ける。

主人公は金にあまり関心がない。だからサヨリにも無礼な態度で接する。サヨリは貨幣の化身であると共に、貨幣の力を信奉する者の一人でもある。なのでサヨリは、主人公が自分を側に置いておきたがらないことが、信じられない。

そんな主人公でも、その生活についても金に無関心、とはいかない。生活には、最低限の金は要る。だから主人公はサヨリに横柄な態度を取って、その機嫌を損ねると、画家にとって大切な手に噛み付かれ、命さえ脅かされる。命とは生活のことだ。

だがその機嫌さえ取れば忽ち、負わされた傷は癒される。主人公の生活は、金の機嫌次第だ。それを主人公は嫌っているのだろう。金は飼い慣らすものであって、飼い慣らされるものではない、と主人公は思っている。

その主人公も、競艇で賭けに負けて全財産を失うことで、サヨリに頼ることになる。ここで主人公は、サヨリに飼い慣らされる、と言うより、サヨリと同じ立場を味わう。そして、サヨリと同じ苦悩に陥る。

生活に必要な額以上の金を手にしても、満たされることはない。生活の危機を脱することも、生活の心配をしなくてもよくなることも、満足とは違う。満足は貨幣の力では調達できない。

貨幣の力の信奉者であるサヨリは、満足をどう調達すればいいか、分からない。だが、貨幣の力に反抗する主人公は、満足を調達する方法を知っている。知っているからこそ、反抗できる。貨幣とは別の価値基準を、主人公は信奉している。

それは「好き」だ。「好き」な物事を持続するために貨幣はある。「好き」がなくては、いくら貨幣があろうと意味がない。つまらない。

主人公は全財産を失ったことで、「好き」な物事の持続が不可能になる。それで貨幣の価値が上がり、それが「好き」の価値と等しくなったので、主人公はサヨリの力に馴染むことができた。

だが、大金が転がり込み、生活の心配がなくなれば、貨幣の価値は元に戻る。主人公は、再び貨幣を横に置いて「好き」に取り組み出す。

しかし、「好き」が何か分からないサヨリは、主人公に付いていけず、貨幣に埋もれるばかりとなる。一緒に同じ苦悩に陥ったはずの二人だが、主人公だけが、そこから抜け出す。

二人が陥った苦悩とは何だったか。それは、生活の必要が全て満たされてしまうことだ。サヨリは以前から既にその状態にあり、満たされたことのない主人公も、サヨリに頼ったことで同じ状態になった。

必要が全て満たされる、とは言い換えれば「完成」だ。そして「完成」は終わりでもある。だが、それは人生の終わりではない。「完成」したのは生活で、生活は人生の一部だ。

人は生活の必要を満たすためにも生きるが、ではその生活が「完成」したのなら、なぜ生きるのか、残りの人生とは何なのか。そういう問いに、二人は答えなければならなくなった。

サヨリは答えが見付からず、死人のように、寝て残りの人生を過ごすしかなかった。主人公は起き上がって、絵を描こうとした。主人公は問いに、「好き」を形にするため、と答えることができた。

サヨリは、主人公から「好き」を形にすることを学んだ。そうして、なぜ生きるのか、という問いに答えることができるようになり、苦悩を脱した。

主人公には金はないが、人生の目的があった。サヨリには金はあったが、人生の目的がなかった。両者が出会うことで、二人は互いに、人生を楽しむ条件を満たし合ったのだ。

なぜサヨリの母はギャルとして描かれるのか。物語の中心は主人公とサヨリだ。二人のやり取りだけでも物語は成立している。なので、サヨリの母が今更出てきて目立つ必要はない。なんなら、登場すらしなくてもいい。

にも拘らず、サヨリの母が目立って現れるのは、サヨリの母こそが、本当に主人公と交流すべき人物だからだ。

サヨリの母のギャル的ないし現代的言葉遣いは、サヨリの古めかしい言葉遣いと対応する。二人が親子であるなら、サヨリの言葉遣いもギャル的になっていなければ、おかしい。

そうなっていないのは、二人が、一人の女性の現在と過去を表す役割を担っているからだ。サヨリの母こそが本作のヒロインであり、サヨリはその過去(の煩悶や葛藤)を演じる人物だ。

なぜ作者はサヨリの母と主人公を直接交流させないのか。それは、性愛の雰囲気を薄めるためだ。年格好の近い主人公とヒロインを直接交流させ、主人公がヒロインを助けるとなると、性愛の雰囲気が出てきてしまう。

作者は二人の間に性愛を持ち込まないために、ヒロインの抱える問題を過去のものとし、その過去を幼いサヨリとして切り離し、それを主人公と交流させることで、男性と女性ではなく、大人と子供という図式にして物語を描こうとした。

なぜ作者は性愛を持ち込みたくないのか。性愛に回収される話にはしたくないからだ。本作は現在ないし未来のヒロインが過去の自分を手当てする構造と言える。

ヒロインが注視しているのは自分自身であって、主人公ではない。主人公はヒロインを補助するためにいる。言うなれば、主人公は、夫や彼氏ではなく、娘を補助する父親の役割を求められている。

冒頭のサヨリは、首から「神です 拾ってください」と書かれた札を提げている。本作品の題名でもある、この札の文言は誰が書いたか。

その文字は丸っこく、周囲にはハートや星が添えられている。古めかしい言葉遣いのサヨリが自身で書いたもの、ではなく、ギャル的言葉遣いである、サヨリの母が書いたもの、と考えるべきだろう。

サヨリを救って欲しい、という母の願いが作品の根本であり、主人公はサヨリを救うことで、その母を救うことになる。やはりヒロインはサヨリの母だ。

そしてもう一つ、主人公は始めこそ、ひねくれた目付きをしているのだが、サヨリに絵を描くように勧める辺りからは、サヨリの母と同じような目付きになっている。

これは演出というより、作画の不徹底だろうが、作者の意識としては、主人公もまたサヨリの母の分身、というわけだ。

一人の女性が母となり父となって、迷える子供のような、過去の自分自身を救うのが、この作品だ。その迷いとは年齢を重ねることだ。

サヨリも主人公も大金を手にするが、あれは生涯稼得するだろう貨幣を表している。人は生き、年齢を重ね、貨幣を稼ぐ。しかしそれは何のためにか。

サヨリはその答えとして、好きな母の姿、好きな未来の自分の姿を描いた。好きな自分になるために、人は生き、年齢を重ね、貨幣を稼ぐ。

その答えを母も「父」も肯定する。サヨリは未来の自分を描くことができて、迷いなく、年齢を重ねて生きることを、肯定できるようになった。

サヨリが放り出したままだった、そしてサヨリの母が今忙しくこなしている、仕事とは、年齢を重ねて生きることに他ならない。