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双頭アト作、小説「ひんみんフレンドシップ!」を読む

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小説とは嘘だ。小説を書き始めることは、嘘を始めることと同じだ。でもそれは、相手も嘘だと理解している上で始められる嘘だ。これからどんな嘘が始まるのか、と期待を膨らませている相手に対して、作者は嘘を始めなければならない。

嘘は、通常であれば隠しておきたいことを誤魔化すために始められるものだ。では、嘘を期待している相手に始められる嘘というものは、一体何のためにあるのだろうか。

人は何のために小説を書くのか。そして、読むのか。

隠しておきたいことを誤魔化すのが通常の嘘であるのなら、小説という嘘は、隠しておきたいことを告白するためにあるのではないか。

なら人は、告白をするために小説を書き、告白に立ち会うために小説を読むのだろう。

では、なぜ人は告白に、そんなに関心を持つのか。それは、隠しておきたいことの一つもない人などはおらず、また他人に何かを隠し続けるのも、他人が何かを隠しているのも、心苦しいからだ。

人は、人の隠しておきたいものを明らかにしたくて、小説を書き、そして読む。

小説は告白だ。ただし、それは単純素直な告白ではない。何せ嘘を通じて思いを伝えようとするものだからだ。

ただの思いを伝えるだけなら、好きだとか嫌いだとか、嬉しいだとか悲しいだとか、そう言えば済む話だ。意味だけを伝えればいい。そのためにあるのが言葉だ。

しかし、意味だけでは伝えることのできない思いが、人にはある。だから、意味ではないものでそれを伝えようとする。そのために小説がある。そして、意味ではないものを読解するために批評がある。

さて、小説の読み手はそれが嘘と分かっていながら、それを読む。作者はそのような読み手に向けて嘘を書く。だとすれば、その嘘は、通常の嘘のように相手の注意を嫌うものではなく、寧ろ、それを歓迎するものになる。

だから、その書き始めは相手の注意を引くために、これからどんな嘘が始まるか、を予感させるものになる。そこには作品の性質や本質が、濃く含まれているのではないか。

この作品は、アイネがエリと「ガチンッ!」と額をぶつけることから始まる。アイネはその衝撃で、以前までの自分に関する記憶を、名前以外は忘れてしまう。

しかしアイネは、自分がエリ達とは違う世界に生きてきた人間であることを感じている。記憶を失わなければ、エリ達と交わることはなかった、と。

それは言い換えれば、アイネは記憶を失うことで、エリ達と交わることができるようになった、ということだ。アイネは、記憶喪失以前の生活の片鱗を時折垣間見せながらも、エリ達との生活に馴染んでいく。

アイネは以前の自分を取り戻す意欲を見せない。そして、エリ達との生活を手放しで受け入れるわけでもない。アイネはエリ達が当然としていることには、しばしば及び腰だ。

アイネはエリ達との生活を仕方のないものと考えている。アイネは帰る場所を失っている、というより、元居た場所を脱出して逃げてきている。アイネはエリ達と暮らさざるを得ず、彼女達に従うしかない。

エリ達は貧民という立場だ。貧民とは衣食住に事欠いている人々のことだが、それよりも社会から距離を取っていることのほうが重要かもしれない。

エリ達は、社会から隔絶されているのではなく、自ら距離を取っている。それはこの社会の福祉が劣悪かつ横暴だからだが、そのことは、知られざる社会の不正義よりは、社会というものに強いられる不自由さを象徴しているように思われる。

エリ達の済む場所は日本ではなく、年中夏のような気候の、架空の国の都会だ。だから、衣と住に事欠いても、凍死することはない。

そして彼女達は、不衛生で栄養失調気味に描かれるが、あまり深刻ではなさそうだ。精々毛髪の色が薄くなる程度で、体調不良や病気に悩まされている様子はない。

いつも空腹でいるようだが、日々食料確保に奔走するようなこともなく、知的談義に興じる余裕がある。都会なので食料や情報は溢れていて、廃棄された物や漂流している物を拾っていれば、生きるのに困ることはない。

エリ達貧民は、社会から見捨てられた人々というより、自ら社会的保障を拒否して、衛生的で安定的な生活を捨てることと引き換えに、自由を選んだ人々なのではないか。それは都会に住む者だけに許された、日陰の生き方だ。

日陰に生きる自由に、アイネと夕緋は惹かれている。アイネは極道の娘だが、それもまた日陰の生き方だ、と夕緋は言う。

しかし、貧民と極道が本当に同じ日陰であるなら、アイネは記憶を引き換えにして貧民に加わる理由も必要もない。そこには何か違いがあるはずだ。

貧民は、社会が廃棄した物や、社会に漂流している物を拾って生きている。それらは余剰だが、余剰とは確保された資源から必要分を差し引いた残りであり、普通市民が自分達に不必要と判断した分のことだ。

貧民は常に、普通市民より富むことはない。どんなに貧民が節約し蓄積しようとも、その差は埋まらないだろう。

もし仮に貧民が普通市民より富むようなことがあれば、それは普通市民の側が許さない。普通市民は社会への要請を通じて、そのような事態を速やかに解体することだろう。

一方で極道はどうか。極道もまた、貧民に似て余剰を集めるが、余剰が流れ着くのをただ大人しく待ってはいない。極道の持つ暴力は、必要分に介入して強引に余剰を作り出させることができるからだ。

暴力は、市民生活を適切に管理するための強制力として、司法や警察や軍隊という形で社会のみによって専有されるべきだが、極道はその規範を破って暴力を私有し、それを行使して不正な富を得る。しかし、それは極道自身をも危険に晒す。

私有暴力は、その存在を許すところでは増殖し拡散する。暴力と暴力は敵対する。公有暴力と私有暴力が敵対するなら、私有暴力と私有暴力も敵対する。極道は暴力の専有を否定しているのだから、極道は別の極道の出現を止めることはできない。

加えて、暴力は富を生み出すものではなく、奪うものでしかない。暴力が増殖すれば、ある集団がそれによって得られる富は増えるどころか減る。ある一つの富を二人より三人で分ければ、一人一人が手にできる富が少なくなるのは当然だ。

敵対する暴力が少なくなればなるほど、自身が手にできる富は増えるのだから、結果として極道同士は、敵対者を減らすべく熾烈な抗争をすることになる。

それが極道と貧民とを線引きするものになる。極道の娘であるアイネは、貧民であるエリと額をぶつけて、その記憶を失うことで貧民に加わることができる。それは、極道と貧民の生き方は互いにぶつかり合う、ということを表している。

貧民は、不自由と共に暴力や不正や抗争も拒否している。その代償として、貧民は(不正な)富からも縁遠くなっている。この作品の貧民は、清廉であるために貧しい。それが極道と対置されることで強調される。

アイネが極道の娘であり、その記憶をエリ達との接触で喪失することになるのは、貧民であるエリ達の清廉さを演出するためだ。

終盤でアイネは、エリ達を逃がすために一人だけ捕まり、収容所に入れられる。そこでアイネは極道の人々と再会し、極道の娘としての記憶を取り戻す。そのしばらく後に、エリ達も捕まり、アイネと同じ収容所に入れられる。

この社会では、極道だろうが貧民だろうが、大人だろうが子供だろうが、男性だろうが女性だろうが、同じ一つの部屋に収容される。極道や貧民であれば、社会からすれば同じ不正な人々であるようだ。

以前に、極道と貧民はぶつかり合う、と書いたが、なら極道だらけの部屋に入れられ、そこで時間を過ごさなければならないエリ達は、冒頭のアイネのように頭を打って記憶を喪失するようなことになるはずだ。しかし、そうはならない。

それはアイネによって極道達の性質が既に変わっているからだ。正確に言えば、アイネに忠誠心を持つ紺来が極道達の代表格を殴り倒して、その態度を改めさせたからだ。貧民化したアイネに倣って、極道達も貧民化している。

貧民化した極道達に、エリ達は手厚く遇される。収容期間が終わると、アイネとエリ達は再び会う約束をして、それぞれ別々の場所へ帰る。アイネは自分の家へ。エリ達は貧民達の住み処へ。

アイネと別れたエリ達は、もうアイネとは会えないかもしれない、と心配する。それは、アイネが家や家族を取り戻したからだ。ここに一つ、貧民の特徴が示されている。

それは帰るべき家がないこと、あるいは家族がいないこと。アイネも夕緋も貧民に惹かれているが、貧民に加わったのはアイネだけだ。夕緋には帰るべき家があり、高価な指輪を譲ってくれる姉の存在も仄めかされる。

沙知乃の生い立ちは不明だが、エリについては生まれてすぐに捨てられ、養護施設にも長くはいられなかった過去が語られる。沙知乃も似たようなものなのだろう。貧民とは、何よりも先ず家族と断絶している人々のことなのではないか。

恐らく、この作品世界では、家族揃って貧民になるようなことも、男女の貧民同士が結び付いて新たに家族を作るようなこともない。貧民とは都会に住む独身生活者の隠喩であるようにも思われる。

だから、独身から抜け出せば貧民ではなくなってしまうだろう。もし貧民同士が性愛によって結び付くようなら、ましてや子供ができようものなら。であれば、貧民であろうとする人々は性愛を拒否している人々でもある。

そもそも作中に男性の貧民は一人も登場しない。登場する貧民は全て女性だ。そしてその裏返しであるかのように、極道と警察官、暴力を行使する側として登場する人々は男性しかいない。

つまりこの作品には、暴力=男性、非暴力=非性愛=女性、という構図がある。そしてそこには、暴力=性愛=男性という、隠れた「性愛」の所在が指し示されているように思われる。

収容所の中で、アイネは極道だらけの部屋に放り込まれる。暴力的な成人男性だらけの部屋に、未成年女性が一人放り込まれる事態も奇妙なのだが、それより奇妙なのは、そこで女性に強要されることが単なる「肩もみ」であることだ。

この作品では、性愛や性暴力は意図的に排除されている。そしてその代わりに、極道や社会から貧民を隔絶する、という形で、女性に対する抑圧と暴力が表現されている。

女性に対する男性の性愛の欲望を隠してしまいたいが、指し示してもしまいたい。そういう矛盾した感情が、この作品には埋め込まれている。

なぜ隠したいか。性愛は暴力であり、暴力は女性を傷付けるからだ。なぜ指し示したいか。男性の、女性に対する関心は結局のところ、性愛が強く占めるからだ。

女性に誠実であろうとすれば、男性は性愛の所在を示しておかなければならず、女性に誠実であろうとすれば、男性は性愛に潜む暴力性を恥じなければならない。

アイネは極道と貧民の間を揺れ動く。それは、女性に対する男性の性愛の欲望の、矛盾した性格を表している。

極道と貧民との関係は見えてきた。次はお嬢様について考えてみよう。作品に登場する、お嬢様は夕緋ただ一人だ。しかし、作中世界のお嬢様は、夕緋一人ではない。夕緋の通っている学校には、夕緋を凌駕するお嬢様達が多くいるらしい。

この作品では、お嬢様とは家と家族を持つ者のこと、と言ってもいいだろう。貧民から極道へと帰り、家と家族を取り戻しただろうアイネも、お嬢様然としている。アイネは極道であるなら、お嬢様でもあることになる。

夕緋はアイネと同じく貧民に近付くが、貧民になることはない。もし夕緋が何らかの形で家と家族を失うようなことがあったら、彼女は貧民になっていただろうか。

恐らく、なっていない。少なくとも、彼女は貧民から抜け出そうとしたり、家と家族を積極的に取り戻そうとしたりするように思われる。

さて、そんな夕緋は、物語の中でどのような機能を果たしているか。夕緋はしばしばエリ達を悔しがらせようとし、逆に悔しがらされることになる。基本的に、夕緋はエリ達の引き立て役だ。

ところが、アイネが収容所に連行され、アイネと離れ離れになり、アイネが記憶を取り戻して今までの関係が失われてしまうことを、不安に思っているエリ達に対して、夕緋は毅然として、アイネのことが信じられないのか、とエリ達を励ます。

その後、エリ達は記憶を取り戻したアイネと再会するが、アイネは何も事情を伝えないまま、エリ達に別れを告げて去ろうとする。エリ達はそれを悲しみながら受け入れる。夕緋はアイネを引き留め、別れようとする事情を聞き出す。

アイネは、極道とは無縁の、貧民の生活が普通と考えている。一方でエリ達は、家と家族がある生活が普通と考えている。ただ、アイネにとって家と家族があることは、極道であることを意味する。

これからも一緒でいたい、と互いに思い合っているにも拘らず、互いの普通の生活を願うからこそ、相手と別れるべきだ、とアイネとエリ達は互いに考えた。

アイネはエリ達に対して極道であることを恥じ、エリ達はアイネに対して貧民であることを恥じている。しかし、アイネは貧民を恥ずかしいものと思っておらず、エリ達は極道を恥ずかしいものと思っていない。

自分で自分のことを恥じているから、そう相手も思っているのかどうかを、相手に確かめることができない。どちらかが自分を恥じる思いを、正直に相手に打ち明けることができていれば、両者は擦れ違うことはなかった。

互いの思いの擦れ違いを明らかにし、両者を再び結び付けるのが夕緋だ。夕緋は、極道も貧民も、お嬢様に比べたらどちらも恥ずかしい、と指摘する。お嬢様は、極道をも貧民をも超越する。

アイネもエリ達も、自分の恥じる思いを夕緋に告白できたのは、夕緋が超越者だからだ。但しそれは、貧民と貧民になりたい極道に限られた、小さな超越者だ。エリ達を連行する暴力には、この小さな超越者は力を持たない。

夕緋は、正式な市民であるために、その暴力からの恩恵を受ける側だが、暴力に管理されている点では貧民と変わらない。その立場が重要になってくる。

暴力がエリ達を収容所に連行しようとするのを前にして、夕緋は促すことも抗うこともしない。それは夕緋が、暴力の側でありながら貧民側でもあることを表している。それがアイネの混迷に対する回答にもなっている。

お嬢様も暴力と無縁ではない。市民も暴力の保護の下に生きている。暴力に保護される者は、暴力を停めることはできない。しかし、だからといって、その暴力を全て肯定することはない。

アイネは貧民に加わる時に、自身が極道であることを忘れて、家と家族を捨てる。極道は社会に似て、貧民を抑圧し得る暴力を持つからだ。暴力の側にいたままでは、アイネは、貧民と交流することはできない、と感じている。

アイネは、暴力の側にいるのであれば暴力を全て肯定しなければならず、暴力を否定するには暴力側から離脱するしかない、と思い込んでいる。

それに対して夕緋は、暴力の側にいながら暴力を肯定しない態度を示している。暴力が傷付け抑圧しようとする対象に、夕緋は近寄り、関わる。暴力の側に留まりながら。

社会は貧民を抑圧する。だとしても、社会の一員である夕緋が、貧民の一員であるエリ達に、その抑圧の罪を負うべきかは別の問題だ。

抑圧されるエリ達に対して誰がその罪を負うべきか。それを決めるのは、夕緋とエリ達との個人的関係であって、社会と貧民との集団的関係ではない。エリ達は、夕緋が抑圧の罪を負うべきとは思っていない。それが全てだ。

夕緋とエリ達との間には、良好で安定した個人的な信頼関係が既に成立している。それは集団的関係に優越する。個人的な関係の前には、極道も貧民もお嬢様も、意味を失う。

失わせるべきは極道であることの記憶や経歴ではなく、極道であることの意味のほうだった。そのために、集団的関係を気にするよりも個人的関係を大事にせよ。夕緋は、アイネにそう答えている。

この作品は、主にアイネの視点で物語が展開する。しかし、最終話辺りになると、アイネの視点は後退し、代わりにエリ達の視点が浮上してくる。言い換えれば、エリ達の心情に重きが置かれるようになる。

エリ達はアイネが離れていってしまうことに、強い不安を抱く。アイネが貧民である自分達との生活よりも、家族との生活を選ぶかもしれないことに怯えている。

エリ達はアイネといつまでも友達でいられることを願っているが、アイネが家族を選ぶなら、エリ達はアイネとの関係を諦めなければならない。アイネのほうも、そう思っている。

極道には貧民が普通に見えている。貧民には暴力がないからだ。貧民には極道が普通に見えている。極道には、家と家族があるからだ。

アイネが極道であることをエリ達に恥じのは分かる。では、エリ達がアイネに貧民であることを恥じる理由は何だろうか。

というのも、エリ達はお嬢様である夕緋には何も恥じるところがないからだ。エリ達は夕緋と良好な関係を維持している。ならなぜ、アイネとはそのような関係になれない、とエリ達は思っているのか。

それはエリ達が、夕緋とは違う関係をアイネに求めているからだ。アイネと夕緋の違いは、エリ達と寝食を共にしているかいないかにある。

エリ達と夕緋は、寝食を別にしている、純粋な友達関係だが、エリ達とアイネは、寝食を共にしている、不純な友達関係だ。

勿論、友達関係でも何日か寝食を共にすることは多々あるかもしれない。だが、ここで重要なのは、寝食を共にしなくなることと友達関係の終わりとが結び付いていることだ。

互いの擦れ違っていた思いに気付いたアイネとエリ達は和解し、アイネはエリ達に、自分の義理の妹になって路上生活から卒業することを提案する。

それに対してエリ達は、受諾するような保留するような、曖昧な返答をしたままで、物語は終わる。

貧民とは家族と断絶した人々だ、といったことは以前に書いた。まさにここでは、路上生活からの卒業、つまり貧民であることからの離脱と、家族のようになることが結び付いている。

エリ達がアイネに求めていて、同時にアイネもエリ達に求めていたのは、友達関係ではなく、家族のような関係になることだ。

ただ、それは純粋な家族関係ではない。寝食を共にしないことは友達関係の終わりではないが、家族関係の終わりでもない。家族は、離れ離れに暮らし、別々に寝食していても家族のままだ。

寝食を共にしないことで終わる関係とは何か。それは、寝食を共にすることで始まり、寝食を共にしている間だけ持続している、と感じられる関係のことだ。

それは、純粋な友達でも純粋な家族でもない関係。友達以上で家族未満の関係。つまり、同棲を伴った恋愛関係のことだ。この作品は、同棲を伴った恋愛関係の始まりから、それが大きく変化するまでを、性愛を隠して描いているものなのだ。

アイネは極道に戻る。エリ達もそのことを承知している。だから、アイネはもう貧民の生活には戻らない。そうであれば、アイネはエリ達と日常的に寝食を共にすることは、もうないはずだ。

エリ達の願いは、アイネと寝食を共にする関係がこれからも継続することだ。作品は、エリ達の安堵を以て閉じられる。ということは、エリ達はこれからもアイネと寝食を共にできることを期待しているのだ。

貧民と寝食を共にできるのは貧民だけだ。だから、アイネは極道であることを忘れて貧民になった。アイネが貧民の生活に戻らないなら、エリ達は何によって、関係の継続を期待できるのか。

貧民と寝食を共にできるのが貧民だけなら、極道と寝食を共にできるのは極道だけだ。エリ達は、アイネと寝食を共にしたいのであって、貧民であることに拘泥しているわけではないだろう。

エリ達はアイネの申し出を受諾し、アイネと家族のような関係になって、貧民であることから離脱して、極道の側になるつもりなのだ。

ただ、極道といってもそれは、アイネが逃げ出してきた時のような暴力的な極道ではなく、収容所での変化を経た、貧民化した極道だ。

極道は貧民を受け入れるために変化した。収容所でアイネとエリ達が過ごした短い時間は、変化した極道と貧民が上手く暮らしていけるかを試す、同棲経験の期間だった。

その期間が問題なく終わった後、アイネは正装してエリ達の前に再び現れ、怖れながらも夕緋の後押しによって、エリ達に求婚することができた。エリ達はそれを受諾する。

それによって、エリ達は家と家族を手に入れることになる。それは、お嬢様の条件だった。エリ達は極道になることで、お嬢様にもなる。

かくして、アイネとエリ達はお嬢様になることができる。アイネとエリ達は、ばらばらではお嬢様になることができず、互いに結び付くことで、ようやくお嬢様になれる。

アイネもエリ達も、夕緋と同じお嬢様になる。四人が最後に記念写真を撮るのは、そのことを表している。四人の「おじょうさまフレンドシップ」が成立するための「ひんみんフレンドシップ」を、この作品は描いている。

お嬢様とは、家と家族がある者のことだった。それは、家と家族に何の問題もない者のこと、とも言える。貧民は家も家族もなかった。極道は家と家族があっても、それは問題含みだった。

家と家族に問題を抱えた者同士が、貧民と極道だ。それが一つになることで、互いに抱えていた、家と家族の問題が解決する。

極道の家と家族に含まれていた問題は、貧民を受け入れることで解消する。貧民は極道に受け入れられることで、家と家族がない問題が解消する。では、極道の家と家族に含まれていた問題とは、一体何だろうか。

それは、極道が貧民をそのままでは受け入れられないことだ。

より正確に言えば、極道は貧民を受け入れたいが、どう受け入れていいのか解らない、ということだ。極道の持つ暴力性は貧民を抑圧してしまうからだ。

そこでアイネは、極道であることを忘れて暴力性を封じ、エリ達貧民の側に、逆に受け入れてもらうことにしたのだ。極道が貧民を受け入れる方法は解らないが、貧民が貧民を受け入れるのに方法は要らない。そして、極道が貧民になる方法はあった。

貧民になることで、アイネはエリ達と、家のない家族として過ごすことができる。しかしそれは、偽りの時間だ。いつまでも、極道であることを忘れてはいられない。アイネは社会の暴力を象徴する収容所で、自身の出自を思い出す。

そこへエリ達も、すぐに送られて来る。そうなれば、偽りが明らかになってしまう。いよいよ、アイネは自身の暴力性と向き合わなければならない。そこでアイネは、いかなる答えを出したか。

貧民となったアイネは、貧民以前の極道の暴力に抗う。そこへ紺来が現れる。貧民としてのアイネは、暴力を振るえない。だから、代わりに紺来が暴力を振るう役を担う。紺頼は極道としてのアイネの象徴であり、その紺来の暴力が極道を変化させる。

暴力に対抗できるのは暴力だけだ。アイネは自身の暴力性を自身に向けた。極道として貧民を受け入れられるように、自身を変えるために。暴力は相手を自分の思い通りに動かす力だが、それなら自分を自分の思い通りに動かすことにも使える。

そして暴力は、自分の欲望を叶えるだけのものではなく、他人の欲望を叶えることにも使える。貧民を抑圧することにも使えてしまうが、保護することにも使える。

自身が貧民になり、貧民と共に時間を過ごしたアイネは、その身を以て極道に帰ることで、そのことに気付いた。

アイネは貧民を保護するための暴力を試行するが、しかし依然として不安は拭えない。抑圧しようが保護してくれようが、貧民は暴力そのものを拒否しているのかもしれない。極道がどう変わろうと、結局は拒否されてしまうかもしれない。

エリ達には、まだ貧民と思われているから受け入れてもらえているだけなのか、それとも、変化した極道だから受け入れてもらえているのか。純粋な貧民ではないアイネは、それを測りかねる。

アイネは自分が暴力の主体者であることを、エリ達に明かせない。そしてアイネは傷付くことを怖れて、正体を明かさないままエリ達と別れようとするが、夕緋がそれを繋ぎ止める。

夕緋は、家と家族の問題も、暴力の問題も、抱えていない。だから、アイネとエリ達が抱える問題を、明瞭に見通すことができる。アイネとエリ達との間にあった障害が既になくなっていることを、両者に告げることができる。

夕緋はアイネとエリ達が到達すべき理想を体現している。夕緋から見れば、アイネもエリ達も欠如している。理想に不足しているものが欠如だ。従って、理想とは何か、が先ず指し示されなければ、欠如も指し示すことはできない。

アイネとエリ達の欠如を指し示すために、そしてその欠如が補完されたことを指し示すために、夕緋はいる。作中の多くの場面で、まるで道化のような扱いをされている夕緋だが、彼女がいなければ、この作品は成立しないだろう。

お嬢様になり損ねている少女達がいる。それを見守り、時に手助けするお嬢様がいる。この作品の本質は、お嬢様の心配だ。その心配の先にあるものとして、貧民少女達の友情がある。

作中のお嬢様には上級と下級がある。夕緋は下級のお嬢様だ。夕緋には友達がいないらしいが、それは他に下級のお嬢様がいないからではないか。

上級は上級としか付き合わないのであれば、下級は下級と付き合うしかない。あるいは単に夕緋が上級との付き合いが苦手なだけかもしれない。

いずれにしても、夕緋は上級のお嬢様との付き合いをしておらず、それでも友達を求めるなら下級のお嬢様を見付けるしかない。

だが、もし見付からないなら、下級のお嬢様を作ってしまえばいい。それは、家と家族さえあればなれるのだから。夕緋自身がそうであるように。

夕緋は下級のお嬢様友達が欲しい。エリ達は家と家族が欲しい。夕緋にはエリ達に家と家族を与える力はない。そこへ、家と家族を与える力を持ったアイネが現れる。しかし、アイネは家と家族を捨てたがっている。

そしてアイネは貧民になるのだが、それは家と家族を捨てるためか。これは話が転倒していて、アイネは先ず貧民と家族のような関係になりたかったのであり、そのために家と家族が障害だったのではないか。

そうであれば、アイネとエリ達の願望は一致しており、従って、その障害も同じものになる。それは極道の暴力性だ。この障害が克服できた時、両者は一つになれ、貧民少女達は下級のお嬢様になれる。

そうであれば、更にここで夕緋とアイネ達の目標も一致することになる。極道の暴力性をどう克服するべきか。

そして、それに対していかなる回答が提出されたか、は既に書いた。自身の暴力性を以て自身の暴力性を抑圧すること。これには自身の暴力性を自覚することが求められる。決して、自身の暴力性を忘れてしまうことでは解決しないのだ。

暴力それ自体は、悪ではない。使い方次第で善にも悪にもなる。夕緋は社会に属しながら社会の暴力を制御する力はない。夕緋は暴力を私有していないからだ。

アイネは極道に属し、暴力を私有している。ならアイネは、その暴力に限っては制御できる。制御できるものなら、私有者は責任を持ってそれを制御せよ。暴力を私有できない立場の夕緋は、アイネにそう告げている。

社会の暴力からエリ達を保護できるのも、そしてそうすることでエリ達の心のより深い部分にまで手を伸ばせるのも、暴力を私有するアイネだけなのだ。

夕緋はアイネ達の抱える問題を見通せるが、その問題に直接関わることはできない。アイネ達は、まだお嬢様ではなく、夕緋の正式な友達ではないからだ。

夕緋がアイネ達の抱える問題に遠くから関わることは、夕緋がアイネ達にできる、正式な友達としての、正式な友達になるための第一歩だ、と言える。

エリは、自身は生まれてすぐに捨てられ、しかし幸運にも施設の人間に保護され、学校にも行けた、と話す。この施設とは公的福祉だろうか。

いずれにしても、エリは幼少の頃には、代替ではあるが、家があった。しかし、エリが勉強を退屈と感じ、何か刺激的なことが起こることを願うと、施設は潰れてしまう。それをエリは、自由になれた、と言う。

エリは施設が潰れたことを歓迎しているように思える。それに、学校に行けなくなったことも。家を失うことは家族を失うことで、学校を失うことは友達を失うことのはずだ。

それを歓迎しているならエリは、施設の人間とも学校の人間とも馴染めていなかった、ということになる。そして、施設も学校も、そこにいる人々を取り替えることは難しい。にも拘らず、エリはそこに長く留まらなければならない。

それに耐えられないエリは、施設が潰れ、学校から解放されたことを歓迎する。もし施設が潰れなかったとしても、エリは何らかの形で施設と学校から脱走しただろう。

家と学校を抜けて、エリは貧民である沙知乃と出会う。まるで、極道であることを忘れてエリの許に迷い込んだ、アイネのように。

ただ、エリは沙知乃と出会うだけでは物足りない、と言う。もう一人、沙知乃のように親しくなれて、沙知乃とは違った性格の人間が欲しかったのだ、と言う。そして、その人間はアイネだった。

「物足りない」という言葉から、沙知乃との出会いがエリの求める「刺激的なこと」の一つであったことが窺われる。しかし、沙知乃一人ではエリの欲求を満たさなかった。

沙知乃はエリに何をもたらし、何をもたらし得なかったのか。また、それを埋め合わせたアイネは、エリに何をもたらしたのか。

沙知乃がエリにもたらしたのは、家と学校から脱した場合の生き方、つまり貧民としての生き方だ。エリは馴染めない家が嫌だったのであって、家そのものが嫌だったわけではない。

寧ろ、馴染むことのできる家をエリは求めていて、そのために当時の家を捨てる必要があった。そして、貧民は家を持たない生き方だ。なら、沙知乃はどのような家もエリにもたらし得ない。

そうであれば、アイネがエリにもたらしたものも、明確になる。エリの求める家だ。ただ、アイネは最初からそれを持っていたわけではない。アイネは家を持っていたが、エリの求めに応じられるようなものではなかった。

アイネは自分の持つ家を肯定することができずに、そこを出た。そして、エリ達と出会うことで、自分の持つ家を肯定する方途を見付ける。大切な人間を迎え入れ、保護ができる時、アイネは自分の持つ家を肯定することができるようになる。

エリとアイネは家に居られない、家出少女だった。沙知乃は家出少女が再び安心できる家に帰れるまでの間、家がないままでも生きていけるように少女達を導く役目を負っていた。沙知乃はエリとアイネのために貧民だった。

少女達が家に帰れるようになった時、沙知乃の役目も終わる。エリとアイネが貧民でなくなった時、沙知乃も貧民である必要はなくなる。貧民とは家を持たない生き方だが、同時に家を求めるための生き方でもある。

読解を書こうと思うのは、これは一体何だろう、という謎を解明できるものなら、きっちりと解明しておきたいからだ。この作品の場合、謎は貧民だった。

生ごみのようなものを食べたり、粗雑に収容所にぶち込まれたり、と作中で酷い扱いを受けている一方で、凍えることのない環境、遊び場、教養が与えられてもいる。

冷遇されているのか優遇されているのか。作者は貧民を一体どうしたいのか。作者にとって貧民とは何なのか。

題名の一部にもなっていて、物語の中心にあるはずの貧民だが、作中でその細部が語られることはない。ほとんど当然の存在のように貧民は描かれる。

現実にも極めて貧しい人々はいるだろう。とは言っても、現代日本社会にあってはあまり目に入らない存在だ。まして、思春期頃の年齢で路上生活している人々など、どこにいるだろう。

有名人がその出自として、その年頃に路上生活をしていた、と語ることはある。しかし、それは個人に限定された状況であって集団の状況ではない。貧「民」ではないのだ。

この作品には普通でない人々が登場している。にも拘らず、その普通でなさは詳述されない。そもそも作中の舞台である社会は架空のものであり、だとすれば貧民が普通であってもなくても、社会と貧民との関係は説明されなければならない。

その架空の社会にとって貧民とは何か。貧民にとって、その架空の社会とは何か。それがない。なぜ、ないのか。それは、その社会と貧民が、作者の中のありのままの何かを映しているからではないか。

作者にとって自然と感じられるものを、作者自身が直接説明することは難しい。その代わりに作者は、自身が自然と感じられるものを動員して、物語という不自然を組み立てる。物語の不自然が作者に代わって作者の自然を説明するだろう。

この作品の一番の不自然は、登場する貧民が全て女性のみであることだ。そして、貧民に寄り添う人物も女性のみだ。その裏返しとして、暴力によって貧民を脅かすのは全て男性だ。その中に、アイネという例外がいる。

アイネは極道であり、暴力を担う側だ。だから本来は男性として現れるべきだ。しかし、アイネは女性として現れ、極道であることを忘れて貧民に加わる。そしてその後、記憶を取り戻して極道に戻る。

作者は人物の性別を、その人物の暴力との関係性に結び付けている。その上で、極道でありながら女性であるアイネに極道と貧民の間を往復させている。作者はアイネに何を託そうとしているのか。

極道と貧民が性別で分けられているのなら、両者の間の越境は、性別の越境を意味する。

しかしそれなら、アイネはやはり男性として現れなければ、性別の越境にはならない。極道が貧民に加わるのに、女性になる必要があるなら、アイネも性別に強く縛られている人物だ、ということになる。

アイネがやっていることは、単に性別を越境することではなく、性別に強く縛られたままで、その境界を越えることだ。アイネは性別に強く縛られていながら、境界の向こう側に強い憧れを抱いてもいる。

この記事の冒頭で筆者は、小説とは作者が隠しておきたいことの迂遠な告白の形式だ、というようなことを書いた。その隠しておきたいことが何なのか、それがここへ来て見えてくる。

男性(としての自分)は女性と交わるべきではない、という作者の価値観がこの作品の基調にある。

その価値観は、女性を男性にとって望ましい状態にしておきたい、という願望と、女性は男性によって望ましくない状態に変わってしまう、という恐怖で出来ている。

男性は女性の美しさを欲するが、その美しさに男性が触れてしまえば、それを汚してしまうかもしれない。傷付けてしまうかもしれない。

女性の美しさを大切にしたいなら、それと交わらず、しかし逃げられてしまわないように、囲って、ただ見詰めるしかない。だが、男性(としての作者)はそれと交わることを欲した。どうにかして、その美しさを傷付けることがないように。

女性の美しさを傷付けるのが男性なら、男性でなくなれば、それに触れて交わることができる。それが、極道であるアイネが女性として現れ、貧民に加わる理由だ。

それはまるで男性である作者の、女性への性転換願望のようにも理解できる。しかし、自身の性への単純な違和だけなら、アイネは女性として貧民になって、極道と決別して終わればいい。極道に帰る必要はない。

作者は、自分が女性と交わることを恐れる価値観を変えられない。だが作者は、男性であればこそ、女性と交わりたいと願わずにはいられない。

そこで作者は、アイネを極道(男性)でありながら極道であることを忘れた人物として設定し、アイネと貧民(女性)を引き合わせ、両者を共に過ごさせる。

その後、作者はアイネに極道であることを思い出させ、極道に帰らせる。極道は貧民ではない。極道を貧民と偽ることはできない。そのことを確認する。

作者は男性としての自分を一旦は誤魔化すが、それはやはり誤魔化しに過ぎないと観念し、男性としての自分に帰り、女性とこそ決別しようとする。そこへ、夕緋を来させ、そうをする必要はない、と言わせる。

誤魔化しとはいえ、極道と貧民が良好な関係を築けていたことに変わりはない。なら、極道と貧民、男性(作者)と女性は良好な関係を築くことはできるし、それに必要なのが、上手な誤魔化しなのだ。

アイネとエリ達が物語を通じて確認したことは、極道であろうがなかろうが、貧民であろうがなかろうが、両者の良好な関係は築ける、ということだ。

極道と貧民の交流が許されるには、両者が良好な関係を築けることが確認されなければならない。その確認のためには両者を交流させてみなければならない。しかし予め、両者の交流は禁じられている。

その禁を先ず破るために、アイネは極道であることを隠して貧民にならなければならなかった。では、どうすれば貧民になれるのか。貧民である、という基準は何なのか。貧民の条件とは何なのか。

ここで夕緋のことを思い出そう。夕緋は貧民ではない。しかし、エリ達とは交流できている。では、「貧民にならなければならなかった」は間違いなのか、というと、そうではない。

この作品の貧民には二つの意味がある。女性であること。家がないこと、あるいは生ごみのようなものを食べて生きること。一つ目はアイネも夕緋も満たし、二つ目はアイネだけが事後的に満たす。

貧民と交わるには、ただ女性であればいい。だから、アイネも本当は夕緋のように、極道だけど貧民と遊ぶ、ということもできたはずだ。

そうできないのは、アイネが女性であることの明確な自己意識を持てないからであり、それはアイネを女性として作品内に描いてしまうことに、作者が疚しさを感じているからだ。

アイネは、女性に対する複雑な心情を抱えた男性としての作者の分身だ。自身を、自身の持つ複雑な心情の対象である女性として描いている。それが疚しさの正体だ。

一方で夕緋とは、アイネから疚しさを取り除いて成立させたような人物であり、逆に言えば、夕緋的人物に作者の心情を託したことで成立したのが、アイネなのだ。

アイネは作者の疚しさに邪魔されて、夕緋のように素直に貧民と交わることができない。だから夕緋と違ってアイネは、貧民の二つ目の意味を満たさなければならなかった。よりエリ達に近付く必要があった。

そのためにアイネは極道であることを忘れる。それは家を失うことに等しく、また、生ごみのようなものを食べて生きることとも結び付いている。この貧民の二つ目の意味とは何を表しているのか。

彼女達が生ごみのようなものを食べる生活をしていながら、精々毛髪が変色する程度で、重大な健康不良にも見舞われず、凍えるようなこともなく、知的談義に興じていたことを思い起こそう。

貧民にとって食事とは、儀式的な意味合いしかない。なくすことはできないが、それは彼女達の肉体の健全な成長や維持に寄与しない。

と言うより、そもそも彼女達は成長などしないし、病気にも罹らないだろう。食事は、ただ生活の痕跡を示して、彼女達が生きている存在であることを主張するものに過ぎない。

彼女達の肉体は生物的な変化をしない。だから、食べるものにも、食べることにも、生物としての意味はあまりない。食事に意味がないのであれば、排泄にも意味がない。

彼女達の肉体には下痢も起きないし、月経も起きない。妊娠もしなければ、性行為もしないし、性暴力に遭うこともない。そこに生々しいことは決して起こらない。彼女達の肉体には生々しさがない。

ない、のは当然作者が、それを与えていないからだ。貧民には肉体的実質が殆ど与えられていない。貧民は何よりも肉体的実質が貧しい。彼女達が生ごみのようなものを食べて生きることは、それを表している。

貧民は肉体的生々しさを打ち消すために、生ごみのようなものを食べ(させられ)ている。それは逆に言えば、生ごみのようなものを食べる者は肉体的生々しさを打ち消され、貧民になる、ということだ。

アイネは疚しさを打ち消すために生ごみのようなものを食べ、貧民になった。ならば、アイネを縛っていた疚しさの正体は、肉体的生々しさ、つまり作者の現実的な男性としての肉体だった、ということになる。

生ごみのようなものを食べることは、家がないことと結び付いていた。なら、家とは、肉体的実質ないし生々しさとの繋がりを表象している。

そして、肉体的実質ないし生々しさとは、多分に性的であることを含んでいる。なら、家がない、ということは、性的でない、ということになる。ここで、貧民とは何か、という問いに対し、奇妙な結論が導かれる。

貧民とは、第一に女性であり、第二に性的でない人々のことだ。

一見矛盾しているように思われる。だが、そのような存在こそを、作者は作品で描こうとした。

貧民は空想の存在だ。そして、作者の理想の存在で、矛盾を抱えた存在でもある。女性に触れたいが、女性を汚したくはない。そんな引き裂かれた、男性の願望から生まれた妖精だ。

その願望は、異性愛者の男性なら誰でも持っている、とまでは言わないが、理解できなくもないもの、とは言えよう。男性は女性を、男性によって汚されてしまうものとして、少なからず見てしまう部分がある。

そうでなければ、「ヤリマン」だとか「中古女」のような言葉は流通しない。女性の性的経験の豊富さは、男性にとって評価に繋がらないことのほうが多い。

女性の性的経験とは、病気のようなものだ。病気に何度か罹ることは普通だが、その中で変な病気に罹られたことがあっては困る。なら、普通ではなくても、病気の経験が全くないほうが安心ではある。

女性の性的経験が病気と言えるなら、男性はその病原と言える。男性が女性の性的経験を病気のように捉えるのは、男性が男性自身のことを病原と思っているようなところがあるからだ。

男性は男性のことを、よく知っている。だから、男性は不潔だ、と男性自身が思っている。男性の不潔さを嫌悪すればするほど、男性は女性が「不潔」になってしまうことに、神経質にならざるを得ない。

作者の神経質さは普通よりも重い。そして同時に、その神経質さを越えて女性に触れたい思いも、また強い。その思いが貧民を生み出し、一つの作品を成立させた。

貧民は空想的な永久の処女だ。性的肉体を持ちながら、その肉体は犯されることがない。決して汚れることがない。そこには肉体的実質がないからだ。

彼女達は肉体的生々しさをその身体に受ける代わりに、それを食べ物として喰らって生きている。彼女達が食べている生ごみのようなものは、肉体的生々しさを喚起させる性的なことや暴力的なことの、隠喩だ。

彼女達の肉体的実質のなさは、二つの点で作者の神経質さの問題を解決する。一つは、女性が決して汚れないこと。もう一つは、非肉体性が条件になっていることで、誰でも女性になれること。

空想的な処女は、男性でもなってしまえる。その時、自身の男性的不潔さは消え、その不潔さが汚してしまう対象はどこにもなくなる。作者は安心して可憐な女性達と触れ合うことができる。

作品はそれだけで終わることもできた。貧民には学校も試験も何もない。肉体的実質がないのは、時間の流れがないのに等しい。汚れることのない、楽しい楽しい時間は永久に続けていられる。

しかし作者は、そうはしなかった。永久に続けられるはずの時間を終わらせて、作者は、貧民に混じって過ごしていたアイネを極道の側に引き戻す。作者はアイネという問題を忘れたままにはしなかった。

アイネが貧民になることは、作者の神経質さの問題を解決できても、作者の問題自体を解決できはしない。

貧民になって男性であることを忘れれば、男性としての神経質さに悩まなくてもよくなる。しかし作者は、貧民と違って肉体的実質を持っている。空想ではなく、現実に生きている。

そのことを一時的に忘れることはできても、永久に忘れ続けることはできない。できるとすれば、それは肉体的実質を現実でも手放す時、つまり生を手放す時だ。

作者は男性として生きることを手放す気はない。だから、アイネは貧民となって貧民と交流して、貧民との関係に希望を見出だしながらも、極道に戻って、改めて貧民との関係を問い直すことになる。

そこで作者は、どのような答えを出したか。

アイネは極道として貧民と向き合う。そして、貧民を家族として受け入れよう、と考える。それはつまり、貧民と一つの家で暮らそう、ということだ。

家は肉体的実質を象徴していた。作者の分身であるアイネの家とは、作者の現実と生活のことだ。

作者は、男性であることを忘れて空想の中に招かれて空想の処女達と交流するのではなく、美しく愛しい彼女達を、空想から現実へ招くことにした。

その時、作者は現実を、男性であることを蔑ろにすることはできなくなる。何せ、そここそが大切な人達に滞在してもらうための重要な場所になるからだ。

貧民を空想から現実に招く、とはどういうことか。それは、彼女達の存在を小説という作品の形にして読者に語る、ということだ。

空想の人々が現実の中に滞在し続けるには、空想を現実の中で表現し続けるしかない。そしてその表現も、きちんとしたものでなければならない。そうでなければ、貧民は現実の中で居場所を失い、迷うことになる。

作者は貧民の存在に責任を負うことになる。それは作者にしか、できないことだ。男性として現実を生きている自分だけが、貧民の美しさ、汚れなさを保障できる。

作者は男性だから女性を求め、男性だから女性に触れることを恐れてしまう。作者は自身が男性として生きることを上手く肯定できなかった。

それが、空想の少女達と出会い、彼女達の存在に責任を負うことで、男性として生きることを肯定できるようになる、と作者は感じている。

作者はそう告白している。そしてその告白の内容自体を、少し形を変えて物語化したのが、この作品の内容だ。

貧民とは、作者が男性として女性に抱いている、個人的な葛藤を象徴するものであり、同時にその葛藤を拭い去る希望でもある。この作品は、男性としての葛藤とその拭い去りの試み自体を物語化したもので、拭い去りの試みはその物語化を以て完結する。

そして、物語は一先ず完結した。果たして、作者の試みは成功しただろうか。それは読者には判らない。読者は完結した物語だけを、ただ読むことしかできない。

物語化されていない、現在の作者と貧民の関係を、読者はまだ読むことはできない。

この作品の物語は、アイネとエリ達が家族になろうとするところで終わっている。彼女達はどんな家族を作り、どんな生活をして暮らしているのか。貧民でなくなったエリ達に、夕緋はどんな態度で付き合っているのか。

アンタら、貧民やめて極道になったみたいだけど、日陰者が別の日陰者になっただけで、何も変わってないじゃない、なんて言いながら、相変わらずエリ達にちょっかいを出して、やり返され、相変わらず悔しがったりしているのだろうか。

それとも作者は、あれから貧民とは上手くいっていなくて、別の物語で別の何かに浮気しているのかも。何にしても、作者が新しい嘘を語りたくて仕方なくなるまで、読者は待つしかない。

その時の嘘に登場するのは、懐かしい人々なのか、全く知らない人々なのか。それはどちらでもいい。だが、語りたい嘘が語っても語っても果てなく湧いて出る、というのは読者にとっては幸福だろうが、作者にとってもそうであるとは限らない。

そして逆に、語りたい嘘を語って、それっきり語りたい嘘がなくなったのなら、それも作者としての幸福ではないか。ずっと嘘を語り続けなければ耐えられない人生というのも、つらかろう。

極道と貧民のその後の物語は、まだない。それがどのようなものかは読者には判らない。が、判る必要もない。貧民とは嘘でしかないからだ。作者の嘘を受け取り楽しむことができたら、それで読者の役目は終わりだ。

読者と貧民との関係は、そこまでだ。読者が貧民について語れるのも、ここまでだ。もし作者と貧民との関係が今も動いているなら、いつか再び読者は貧民と出会えるかもしれない。その時、再び読者として貧民を語ることにしよう。