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on作、漫画「球」を読む


球の説明は、「私の国では」から始まる。それは「私の世界では」でもなく、「私の種族では」でもない。だからそれは、世界の法則でもなければ、種族の特殊性でもない。球は、ある国に限定された、文化的なものとして見ることができる。

また、人の誕生と共に、理由も分からず現れ、理由も分からず浮かんで、人に付いて回ることから、それは心霊的なものとして見ることもできる。

球は自然に成長するが、それは子供の内までであるようだ。大人は、子供の内に形成された球をずっと抱えて生きることになるのだろう。

そして、いつからか球の大きさや美しさが、その人の知能や人間性の高さに結び付いたものとして受け取られるような風潮が、出来上がる。


主人公の持つ球は大きくもなく、美しくもない。そんなことで蔑まれたくない主人公は、努力によって全国模試で二位を勝ち取る。そこへ、一際大きく美しい球を持つクリスがやって来て、主人公を褒める。

しかし、クリスは全国模試一位だ。そのことをクリスは、運が良かっただけだ、と謙遜する。

クリスは外見も性格も頭もいい。それに加えて、資産家の子でもある。主人公は、クリスは良い生まれなのだから、運が良かっただけ、というのはその通りだ、と心の中で思う。

子供の頃はクリスに憧れを抱いていた主人公だが、努力によってクリスと肩が並ぶようになると、クリスに対して憧れより蔑みの念が涌き出てくる。あなたは一体どれだけの努力をしてきたのか、と。

主人公はクリスに「そんなことないよ 私とクリスじゃ そもそも出来が違うもの」と言ってしまう。クリスの言う、運の良さを否定して、「出来」の良さ、つまり生まれの良さを、主人公は指摘する。

運の良さは生まれた後の偶然性で、それは誰にも平等に訪れ得るが、生まれの良さは当然、生まれる以前に決まっている蓋然性で、それは選ばれた人間にしか訪れ得ない。

主人公は、クリスの高い知能も何もかも、努力ではなく生まれによって手に入れたものではないのか、とクリスに言っている。

球の外見で個人の価値が測られてしまうことに、主人公は反発していたはずだが、努力で社会的評価を築き上げたことで、自分自身は努力の量で個人の価値を測ろうとしてしまう。

そうすると、生まれの良い人達を、努力をしなくていい人達と見ることになり、価値の高くなりようがない人達と見ることになる。

生まれ(球の外見)が悪いから個人の価値が低い、と似たような、生まれ(経済ないし学習環境)が良いから個人の価値が低い、という偏見を自分が身に付けてしまっていることに、主人公は気付く。

努力の大変さは個人によって違う。個人の価値も、個人の努力の価値も、他人に決められていいようなことではないはずだ。

主人公の言葉を受けて、クリスは「見せたいものがある」と言って、主人公と二人きりになる。そこでクリスは、球の外見は資産の力で殻を被せて偽装できる、と言い出す。更に、自分の球の外見も殻を被せて偽装したものだ、と告白する。

そして、「君に僕の本当の球を見せたいんだ」とクリスは言う。クリスは、自分は本当は凄い人間ではないのに偉そうに振る舞い、皆を騙してきた、と言いながら殻を開け始める。

主人公は、殻を被せたのはクリスの親の意思だし、殻を被せ続けたかったクリスの気持ちも分かるから、殻を開けなくてもいい、と言ってクリスを止めようとするが、クリスは主人公の言葉を遮り、「お願い」と言う。

なぜだか主人公は、そうしてクリスが殻を開けようとしている時、色々な感情を差し置いて、とても強く恍惚とした気持ちになる。と同時に、そんな気持ちになる自分に背徳感を覚えるところで、物語は終わる。

主人公も疑問に思っているが、なぜクリスは自分の本当の球を、主人公に見てもらいたがっているのか。

そもそもクリスの本当の球は、どんなものだろうか。幼い頃はともかく、もし今現在、大きく美しくなっているのであれば、少なくとも主人公に対して、それを見せることに恥じらいはないはずだ。

クリスは主人公に思いを寄せている。クリスは球の外見で人を差別しないが、それはクリスが主人公に思いを寄せる理由にはならない。

クリスは、主人公が自分と肩を並べるようになる前から、主人公のことを気にしていることが窺える。

恐らく、クリスの球は主人公の球と同じように、大きくもなく美しくもない。クリスは本当は主人公と同じような球を持っているから、主人公に惹かれているのではないか。

しかしクリスはそれを、主人公に明かせない。クリスの親が、クリスの球の外見の悪さを恥じ、それを明かすことを禁じているからだ。

だとすれば、クリスが球の外見で人を差別しない理由も見えてくる。クリスにとって球の外見の悪さを蔑むことは、自分を蔑むことに他ならない。また、自分の好きな人を蔑むことに他ならない。

こうしてクリスは、球に施された偽の美しさに相応の、美しい人間性を培う。それが主人公の尊敬を得る要因にもなる。クリスは主人公の目と気を引くためにも、球の外見を偽り続けることになる。

しかしそれは、皮肉にも主人公がクリスに接近することで、綻び始める。主人公は、クリスの高い知能は資産家の生まれによるものではないか、と感じている。別言すれば、資産の恩恵がなかったとしてもクリスは高い知能を持ち得たか、と疑っている。

主人公はクリスに対して、球のことについて言及しているわけではない。だがその疑問は、クリスの球が資産の恩恵によって偽の美しさを手に入れていることと、重なってくる。

あなたの持つ美点は資産の恩恵によって作られた偽物ではないのか、と主人公に問われている、とクリスは感じる。主人公に惹かれているクリスは、その問いに誠実に答えなければならない。だから、クリスは主人公に全てを明かすことを決める。

クリスが球の外見を偽り続ける理由の一つには、資産家の子として恥ずかしくないように、という親の要請がある。そしてもう一つには、主人公の関心の的でありたい、という自身の願望がある。

その二つを同時に満たすのが、球の外見を偽ることだ。

もしクリスに資産の恩恵がなく、球の外見を偽ることがなかったら、どうだっただろう。高い知能はともかく、クリスは主人公に尊敬される人間性を持ち得たか。球の外見が似ている、というだけで、主人公の関心を引くことができたか。

クリスにとって資産の恩恵は、高い知能の養成だけでなく、自分への主人公の関心の醸成にも関わってくる。なら、主人公はクリスにこう問うてもいることになる。

あなたの持つ美点に惹かれていた、わたしの気持ちは、資産の恩恵によって作られた偽物ではないのか。

クリスは、主人公の気持ちが偽物などであって欲しくはない。是非とも本物であって欲しい。では、その気持ちが本物だと確かめるには、どうすればいいか。

主人公の気持ちが、資産の恩恵によって成立しているのであれば、資産の恩恵を取り去ってみればいい。主人公の気持ちが偽物であれば、その途端にそれは不成立になり、本物であれば成立し続けるだろう。

クリスの球に被せられた殻は、資産の恩恵の象徴だ。なのでクリスは、それを主人公の目の前で開けてみせる。

それはクリスの、主人公の気持ちが本物であって欲しい、という願望と、自分の本当の気持ちを主人公に知って欲しい、という願望とを表す行為だ。

殻は親の要請の象徴でもある。ならクリスはここで、親に背いてまで、主人公の気持ちを確かめ、主人公の心を引き留めようとしていることになる。

そんなクリスのことを主人公は、恍惚と背徳の情に満たされながら見守る。主人公の気持ちは殻ではなく、殻の中にこそある。もしこの時、主人公の気持ちが偽物だったなら、主人公に恍惚は訪れていない。

資産の恩恵は、もしかしたら引かれ合うことがなかったかも知れない二人が引かれ合う、その切っ掛けとなった。しかしそれはただの切っ掛けでしかなく、二人を結び付ける性質のものではない。だから今、資産の恩恵は却って二人を引き離そうとしている。

主人公は、資産の恩恵は関係ない、という生き方をしようとしている。なので、自分がクリスの美点と資産の恩恵を結び付けようとした時、すぐさま自分を恥じた。

主人公がそのように生きられるのは、そもそも資産の恩恵などに浴せる生まれではないからだ。

ではクリスはどうか。クリスは主人公と違って、資産の恩恵に浴せる生まれであり、実際に浴してきた。だから、すんなりと主人公のようにはいかない。クリスには、資産の恩恵との関係を変更する決意が必要になる。

そしてクリスは決意した。主人公との関係を維持発展させるために、親に背き、偽装を告白し、本当の球の姿を主人公に見せる。そうまでして主人公と結び付きたい、という意思を示す。

クリスは主人公の目の前で殻を開けることで、主人公の気持ちが偽物ではない、と証明しようとするのと同時にそれが、主人公に対する自分の気持ちの告白にもなる。

二人はここで互いの気持ちを確かめ合った。ただ、それにはクリスだけが多少なりとも、恥と喪失とを味わう必要があった。それが主人公が恍惚と背徳の情を感じた理由だ。

この作品の球とは一体何だったのか。多くの読者は、大きさや美しさといった評価基準や、作者が添えた「不健全です」の言葉もあって、それを、男性器や乳房などといった性的部位の隠喩だ、と一先ず理解したのではないか。

しかし作中では、主人公は球が大きくも美しくもないのに、全国模試二位を取ったことに、周囲から驚かれている。球が性的部位の隠喩であるなら、主人公は、貧乳な(小さい)のに賢い、と驚かれていることになる。

だが、性的部位の発達が、知能の発達と結び付けられることは、あまりない。寧ろ逆に、性的部位が発達した人は知能の面で劣っている、と思われがちではないか。言うなれば、周囲に驚かれるとすれば、巨乳な(大きい)のに賢い、ということだろう。

そもそも球が何なのかは、作中でもはっきりと解明されてはいない。ただ、個人に必ず付いて回るものとしか分かっていない。それが個人の何を表しているのか。もしかしたら、個人の何とも関係ないもの、なのかも知れない。

それでも作中の人々は、球に個人の何かが表れている、と思いたがる。人は、目に見えるものに意味がないことには耐えられない。球の意味や法則性が不明だからこそ、人々は積極的にそこに何らかの意味や法則性を見出だそうとする。

球は少なくとも性的部位の暗喩ではない。それは個人の、目に見える、肉体的あるいは身体的な部分ではなく、目に見えない、精神的あるいは非身体的な部分が可視化されたもの、と思われている。

だから、作中の世界では恐らく、球の外見が良いから体力がある、肉体が丈夫、などとは思われないはずだ。球の外見に人は、その個人の、外見では判らない内面を見ようとしている。

主人公はそれに抗う。人は外見でも、球の外見でも、差別されてはならない。そんなもので内面を判定されては堪らない。そう考える主人公もクリスに対して、生まれを持ち出して、危うくその内面を判定しかける。

球とは生まれのことを象徴しているのだろうか。いや、もしそうであるなら、クリスは球の外見を偽る必要などなかっただろう。クリスの生まれは、間違いなく良いのだから、その球も大きく美しかったはずだ。

クリスの球の外見は、生まれの良さに不相応に悪かったから、それを偽る必要があった。なら、球と生まれは明らかに別だ、と言えよう。

球の外見の良し悪しと、生まれの良し悪しは関係がない。そして、生まれはともかく、球の外見は、その良し悪しがどう決まるのか、不明だ。

球は誕生から一定の期間に成長する、というが、恐らく劇的変化はしないし、その変化を操ることもできない。もしできるなら、クリスの親はそれをクリスの球に施しているはずだ。

球は、その形成を自然に任せるしかないもので、しかし、どう形成されようが、人の存在自体には影響がないものだ。影響があるのは、人の社会的な評価だが、その評価も社会が球から文化的に構築したもので、球自体とは関係がない。

球は自然としての人間存在のこと。別の言い方をすれば、社会的生物である人間から、社会を取り去った後に残るもののことだ。

それは例えば、肌や髪や瞳の色、あるいは指紋のようなものだ。それらは個人に付いて回るが、そこに個人の価値も意味も宿らない。そこに勝手に価値や意味を付けて差別するのは、社会だ。

言うなれば、球と生まれの違いは、自然的生まれと社会的生まれの違いだ。

社会は、自然的生まれを操作することはできない。だから、自然的生まれの良さ(というもの自体、自然とは無関係の社会的な基準だ)が社会にとって価値を持ち得るし、社会的生まれの良い人々は、それを偽装しようとする。

主人公もクリスも、自然的生まれの違いを尊重しようとする。二人とも、自身の自然的生まれと社会的生まれとの間に、軋轢を感じているからだ。そして、二人は互いに引かれ合っている。互いに似た自然的生まれを持つからだ。

主人公はクリスのような良い人になりたいし、クリスは自分と主人公との違いなどない、と言いたい。

主人公は努力を積み重ねてクリスに近付いた。そこで互いを隔てているものとして、二人がはっきりと意識することになったのが、社会的生まれの違いだ。その象徴が、クリスの球に被せられた殻だ。

どんなに自然的生まれによって引かれ合っていても、社会的生まれの違いを乗り越えられなくては、二人は結ばれない。

主人公は努力で社会的生まれの違いを乗り越えようとした。一方、クリスは自然的生まれの違いの尊重を唱えるが、その発言力は社会的生まれの良さに立脚している。

ぼくはここにいる、とクリスは主人公に声を届け続け、クリスの声を目指して主人公は歩き続けてきた。

しかし、ようやく主人公がクリスの側に辿り着いた時、主人公からは埋められない、最後の僅かな距離があることに主人公は気付く。

クリスは社会的生まれの良さに頼って、二人の間の距離を主人公が縮めてくれるのを、待っていただけだ。社会的生まれの違いを乗り越えるには、互いの歩み寄りが必要だ。クリスはそれを、一度もしていない。

と言っても、クリスは社会的生まれに縛られた不自由な立場だ。自由な立場の主人公は、クリスにどう歩み寄ればいいか、分かるけれど、クリスは、自由な立場の主人公にどう歩み寄ればいいか、分からなかったのだろう。主人公のことを、ただ待つしかなかった。

二人が限りなく接近した今、立場の自由も不自由もない。必要なのは、一歩を踏み出す勇気だ。クリスは今こそ、主人公に歩み寄らなくてはならない。

クリスは、社会的生まれの良さを象徴する、自分の球に被せられた殻を開けて、自分の本当の球を主人公に見せる。

それが、二人が互いの社会的生まれの違いを乗り越える、最後の手続きであるのと同時に、二人が互いの自然的生まれ、自然的感情の一致を、初めて直接に確かめ合うことでもある。

まあ、なんとも健全に不健全なことでしょう。

つまるところ、球の大きさや色や模様とは、人の自然的感情の形、二人の「好き」の形だったのだ、と言えよう。

勿論、その形に自然的な意味も社会的も意味も、ありはしない。ただ、二人にとっての特別な意味があるだけなのだ。