初投稿にやりたいことを書いておく初投稿

はじめまして。O助と申します。

とりあえず一週間やってみようということで、今日から毎日文章を綴っていきます。僕はすぐ飽きる人なのですが、書きたいことはたくさんあるからたぶん大丈夫。

当ブログでは「自分が読みたい文を書く」というスタンスでやってくつもりです。それは何か、はっきりとは定義できないのですが、ブログとか流し読みしてると「偶然目に止まっただけだけどなんとなく良いものを読んでしまった」ってことたまにありますよね?あれをやりたいんです。

ちょっと長いけど引用。

だが、世界中で何事でもないような何事かが常に起きていて、そしてそれはすべて私たちの目の前にあり、いつでも触れることができる、ということそのものが、私の心をつかんで離さない。断片的な語りの一つひとつを読むことは苦痛ですらあるが、その「厖大さ」にいつも圧倒される。私はこれらの厖大な語りを、民衆の文学だとか、真の大衆文化だと言って称揚したいのではない。そういう金持ちの遊びは「屋根裏」でやっていればよい。ただ、人々の断片的な人生の、顔文字や絵文字を多用した、断片的な語りがあるだけである。文化的価値観を転倒させてそこに芸術的価値を見出すことはできない。そして、だからこそ、この「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」語りは、美しいのだと思う。徹底的に世俗的で、徹底的に孤独で、徹底的に厖大なこのすばらしい語りたちの美しさは、一つひとつの語りが無意味であることによって可能になっているのである。

岸政彦著、『断片的なものの社会学』、朝日出版社、2015年。太字はO助。

ブログやTwitterに投稿される誰かの「何の意味もない呟きのようなもの」が、なんだか頭を離れなくなってしまったり、何かの拍子に思い出したりすることがありますね。

「怠っていう漢字の真ん中で、首吊ってる」

「疲れちゃったから駐輪場でお茶割飲んじゃう」

「半額って最高だ」

「泣きたいのに笑えてきてワロタ」

「世の中にある言葉じゃ表せない関係ってある。私にはわからないけどあなたたち大人はよく知っているでしょう」

これは僕のブックマークに残っていたあるツイッタラーの呟き(一部文字を変えてます)だけれど、「なぜこの言葉を呟くのか、呟く意味はあるのか」と問われると、そんなの僕にも、本人たちにもわからない。

石ころがそのへんに転がっているように、そもそも呟くことに意味なんてなくて。この圧倒的な無意味の中から断片をひとつ取り出して、僕と石ころの1対1になる瞬間。この瞬間がミソなんだと思います。

僕の人生の一部をここに書き出してみたところで、ほとんどの人が読まないいし、このnoteだって、ここまで読んでくれる人はほんとのほんとに滅多にいません。すごいことなんですよ?こういう瞬間です。

これが、Twitterやブログをやる醍醐味なんだと個人的には思っています。(正直なところ、noteやってまでカネや承認欲求の臭いがする文章を読みたくない、というのもありますが)

僕はただ、僕のように「無意味な文章を読みたい人」にやさしい文章を書いて、ここに置いておくだけです。オチのない話とかたくさん書きたいな。

というわけなので、人生訓とかためになる知識とかを求めている人のお役には立てなさそうです。そういう文章も書いてはみたいですが、優先事項ではないのであしからず。せっかくここまで読んだのにエーッてなった方、すみません。

次の更新は朝か今日みたいに夜遅くになるのかな。おやすみなさい。

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