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焼けただれるような山々

目指せスーパースター。蕎麦宗です。

ここ数年、この伊豆の近くの山々がまるで赤く焼けただれたようになっている。実際に山火事で焼けたわけではなく、萌ゆる緑の中に混じってあちらこちらに枯れた大木と思われる赤くただれた木々が散見されるのだ。いったい枯れた木はなんの木だろう?気になって日通道路を上った時に観察してみたら、コナラであることが判明した。

一瞬なぜ?、と思ったがすぐにピンときた。寿命だ。木にも寿命があって屋久杉のように3000年以上生きているものもあれば、天だねのタラの芽で知られるタラの木のように10年で枯れてしまうものもある。草であれば一年草といって毎年枯れては生えてを繰り返すのモノもいる。植物も生き物、つまり永遠ではなく寿命がある存在だということだ。

このところの異常気温つまり温暖化が原因では?、あるいは虫が大量発生して食い荒らしているのでは?という意見もあるだろう。しかしそれらは、枯死させるに至った最終的かつ直接的な理由かも知れないが、そのためではない。コナラの寿命は約80年と言われ、『これがおそらく』と僕が確信を持った理由。

かつては里山として、人々の暮らしと山は密接に結びついていて、薪や炭の材料あるいは椎茸の原木など、として利用されてきた。そのために皆伐更新といって、15年〜20年の周期で切り倒すことで、その株から《ひこばえ》が芽吹き、新しい命として生まれ変わっていた。だが、戦後の燃料革命、つまり石油やガス・電気への転換によってほとんどの山は放置されてしまう。それから今75年が経った。つまり近所の山に残ったコナラの大木は、ほとんどが『老衰=枯死』を目前に控えた老木なのだ。

これまで以上の高温多湿に耐えきれずに枯死した老木は、その結果どうなるのか?。コナラやクヌギなどの雑木は《陽樹》といって、太陽の光がサンサンと差す明るいところでないと育たない種。つまり大木が作る暗い日陰は若木が育つにあたって害となる。ゆえに自らが枯れることによって地面に生えた幼木に光を当て、また朽ちて堆肥となり養分となって次世代を育てるのだ。

さて、なぞらえて人の世。コロナ禍の中で、天命に近い《命の尊さ》を守るために、若く溢れみなぎる《命の営み(色々な体験や様々な関わり)》が制限されている。どちらを選ぶことが正義なのかは僕は知らない。けれど、若き者達の生きる=《活きている命》を遮るような、暗い日陰を作る存在になってまで、ただ生きながらえる=死なないようにするよりも、肥やしとなって生き切りたいなって日々思う。

出来ることならば、山は青々と緑に溢れていて欲しい。それはきっと人の世も同じ。

ナラ、ガンバラナシませう。

#木の寿命 #枯れゆくコナラの木 #緑に囲まれる暮らし #SDGsへの向き合い方



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