見出し画像

住吉高校の思い出

たまたま取材先で、同郷(大阪)の人に出会った。聞いてみると、住吉の出身だという。

とっさに、「私、住吉高校の出身なんですよ」と言うと、なんとその人は同窓生だった。(一回り年下だったけど)

東京で大阪出身の人に出会うのも結構少ないので(大阪の人はあまり大阪から出ない)、同じ高校の出身者と会うなんて奇跡に等しかった。織姫と彦星でも年に1回会えるのに、同窓生は20数年間会わなかったレアキャラである。

それでふと思い出したので、母校・住吉高校のことを書いておこうと思う。

「自由闊達」

出身大学には大した思い入れもないのだが、出身高校には強い思い入れがある。

小さなころから「自由」という言葉がとても好きだった。逆に、意味のない決まりごとやルールが大嫌いだった。勉強のできる優等生の陰キャだったが、心は尾崎豊だった。

また、中学時代は演劇に明け暮れており、脚本家や演出家ができるような高校に進学を希望した。

高校受験で学区のトップ校には演劇部がなかったので、選択肢から外した。(先生に何度も考え直すように言われた)

そうして、「自由闊達」(心が広くのびのびとして物事にこだわらないさま)を校訓とし、当時演劇部が活発だった住吉高校に進学することになる。

「自由」は意外と難しい

そして、入学してみて本当に驚いた。本当に決まりが何もなかったからだ。

※今は違っているかもしれない。現在どうなってるかは全く知らないので、ここから先は20年前の話だと断っておく。

まず、制服がない。式典だけは標準服を着る、という学校もあったが、完全にすべて私服だった。

そして、校則がない。生徒手帳には、たしか登校時間くらいしか書いていなくて、「この手帳を持つ意味があるのか?」と思った記憶がある。何も決まりがないので、奇抜なファッションの人もうろうろしていた。

私? くそださジーンズに水色リュックで登校してたけどなにか?

まあ、それも「自由」なわけで。

当然、アルバイトも自由。イケメンの先輩がケンタッキーでバイトしていて、先輩が厨房にいるときを狙って遊びに行った。(店内カメラで私たちを見つけると出てきてくれる。とても迷惑な後輩だったが、イケメンは優しかった)

また、「生徒会」がないかわりに、「自治会」があった。生徒による自治で学校活動が動いている、という形をとっていた。とにかく、生徒が何でもやらないといけない学校だった。

今思えば、先生方もずいぶん自由に授業をされていたように思う。

授業中に、フランス革命が好きすぎて目をらんらんとさせて「ラ・マルセイエーズ」をうたう世界史教師や、女男女男女の順に5人の子供を持ち、男女産み分け法を知っていると話す生物教師、「第三舞台」の熱狂的ファンで熱く鴻上尚史論を語り合った国語教師……。

変わった人たちだな、とは思うものの、変な人が集まれば、変であることはたいして変でもないのだ。

こうした環境で過ごしたため、私は変わり者に対しては非常に耐性がある

演劇は本当に楽しかった。私は前に出るのがあまり得意ではないが、どんな舞台にしたいのかというイメージを実現することが楽しくて、演出をやるのが一番好きだった。

脚本はいくつか書いた。何度か卒業後に「台本を使いたい」と実家に電話がかかってきたような記憶がある。(こっぱずかしくて、その後読み返したことはない)

本当に「自由」であったため、やるべきことは自分でやらねばならなかった。授業の進度はトップ高より遅いし、授業を抜け出しても大して怒られないが、部活を頑張りすぎて赤点が続けば普通に留年してしまう。

自由は、自律がなければ成り立たない。好きなことをやる自由。やらない自由。それも自分で考えることだ。みんながそれで成り立っているような学校だった。

自由に決められることを学ぶ

あの3年間、「自由」を謳歌したことが、よかれあしかれ、他人に縛られたくない、自分で決めて自ら動きたいという、私の働き方、生き方にも大きく影響したと思う。

たとえ14、5歳でも、自分にとって生涯通じて響くキーワードは見えているものなのだなと驚く。

私は母になり、子どもの進路を見守る側になった。親から見ると、子どもの手を離すのは怖いものだなと思う。子どもを目の届くところに置いておきたい気持ちもとてもよくわかる。

でも、できれば「自由」にさせてあげたい。自分で決めて生きられることは、一生の糧になるはずだから。


よろしければサポートをお願いします!モチベーションが上がって、キーボードの打刻速度が上がります!