安楽死について雑感(メモ)

※誤字修正しました。すみません。

X(旧Twitter)の病み垢にいると、度々、安楽死について目にする。私は自殺がしたいながらも安楽死で死ぬことを想像していなかった。希死念慮については能動的に死にたい、受動的に死にたいの二種類があると思う。
能動的に死にたいというのは、道具を揃えたり、実際に行動を移そうと考えていること。受動的に死にたいは、実際の行動までは考えてないが、眠ってる間に死んでないかなとか、突然死しないかなとか、誰か殺してくれないかなとか、実際に行動を移すことは考えていないが、死を願うこと。
この二つのパターンは、単純にリスクの話で、能動的に死にたい人のほうが当然命の危険がある。私は能動的に死にたいと思っているので、安楽死が非現実的で、手段として浮かばない。
(受動的に考えてる人も当然危うい。いつストレスが募って能動的になるかわからないからだ)
安楽死を望む投稿をする病み垢の多くの人は、受動的に死にたいと苦しんでいる人たちなのだろうと考えている。

実のところ安楽死については、考えがちゃんとまとまっておらず、本を読み進めている途中なので、後に感想文とし書き記したい。
個人的には、安楽死も手段として日本にもあればいいと思っている。
スイスの安楽死団体「ライフサークル」の条件を引用するが
(1)耐えがたい苦痛がある。
(2)回復の見込みがない。
(3)代替治療がない。
(4)本人の明確な意思表示がある。
※認知症や精神疾患を患っている場合は対象外。
これらの条件であれば、日本でも導入してもいいのではと考えている。
病み垢で安楽死を望む人たちとは異なる考えだと思うが、私としては受動的に死を望む人に自殺へ誘導する選択肢があるのは危ないと思う。

最後に、私のフォロワーさんが興味深い意見を投稿されていた。

ご職業柄、死に向き合うことをされているので、そうでない私とは別の哲学を持たれていると思う。反対意見も重要なので、様々な角度から考えてみたいと思っている。

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