見出し画像

生理的な差別心について

※導入部が長いです。この話で僕の言いたいことはひとつだけ。『Aくん、あのときはゴメン』

僕は発達障害と診断されている。生きるのが苦しいと感じる機会がとても多い。だからだろうか? 僕のTwitterは、己の人生に対する不平不満ばかりモゴモゴ書き連ねてある。客観的に見れば、年がら年中、文句しか言ってないヤベー奴だ。

僕が不平不満を文章に書き起こすのは、思考を整理する意味があるのだけど、こう毎日のように文句ばかり書いていると被害者意識がどんどん増強していって、まるで僕が昔から悲劇の王だったかのように錯覚してしまう。

でも実際はそうではないのだ。
中学生の頃は結構楽しくやっていたし、悩みごとは沢山あったけど、発達障害を意識することはなかった。思い返せば中学時代は僕の人生の黄金期だった。友達は優しくて、勉強に(そこまで)苦労せず、運動もしていて健康で、辛いことなんて何一つなかった……と言うには悩みごとが多すぎたけど、少なくとも今のようにどん詰まりではなかった。今にして思えば……今にしては思えばだが、我が世の春を謳歌していた!

幸せの絶頂! そういうとき、我知らず誰かの足を踏んづけているものだ。人は被害者性と加害者性のどちらも持っているけれど、自分の加害行為には気付きにくい。そして幸せは、加害者になった記憶を都合良く塗り潰し忘れさせてしまう。

あれは中学の入学式の直後。体育館での出来事。同級生たちと縦列に並ばされ、あいうえお順で二番目だったAくんは、クラスメイトがちゃんと揃ったのか人数を確認する役目を与えられた。前から順に数を数えながらひとりずつ肩を叩き、最後に人数を先生に報告する。僕はAくんに肩を触られる寸前でピョンと真横に跳び(!)Aくんの手を避けた。さも「ちょっとしたおふざけですよ」という風に偽装して。それを先生は見逃さなかった。
(というか、僕はあいうえお順で先頭であり、先生の目の前だった。よくもまあ、そんな大それた行動がとれたもんだと今にして呆れるけれど、先頭一番目だから大目に見てもらえる、ふざけても許して貰える、という打算が働いた気がする。)
それまで穏和な感じだった先生が一変。険しい顔つきになり、一喝する。

「なぜ避けた!!!!」

僕を叱責する先生の顔に浮かぶのは、単純な怒りの表情ではなかった。見開かれた目。開きすぎなくらい開かれた目はどっちかというと真剣な追求のもの。

「なぜ避けたァ〜??」と先生

「すみません…」と僕

「なぜ避けた」と先生

「すみません」←この辺で僕、半泣き

「なぜ避けたかと聞いている」

謝るだけで理由を述べない僕に向かって、先生は何度も同じ言葉を繰り返す。しまった、と思った。僕はこの質問に答えられないのである。なぜならそれを口にしてはいけない、という最期の倫理観があったからだ。因みに今の僕の考え方は逆で、むしろちゃんと口にすることが問題の本質を詳らかにする上で重要なんじゃないかと思う。


……僕はなぜAくんの手を避けたのだろう? 酷い言い方をするならAくんが僕にとって『生理的に無理』だったからだ。(Aくんごめん。言われる側がどんな気持ちになるか今は痛いほど分かる)
僕は発達障害だけどAくんも発達障害っぽかった。立ち居振る舞いが独特だった。喋り方が独特で、なんというか、僕にとってアホっぽい印象を受ける声の出し方だった。(でもこういう人こそ、実は繊細な内面をもっていたりすることを今の僕は知っている)
歩き方も特徴的で、同級生に「Aステップ」なんて揶揄されているのを聞いたことがある。
たぶんAくんが発達障害を持っているだけなら何も問題はなかった。昔から僕と気が合う友達はどこかしら発達障害っぽい人たちだった。僕がそもそもASDだから、似たような感性を持った奴が集まると自然とそうなるのかもしれない。ASDは他人の気持ちが分からないとか共感が苦手だとか言うけれど、それはその場限りの共感が苦手なだけで、じっくり他者の気持ちを想像することは出来るのだ。空想の物語だって楽しめる。(そういえば、ミラーニューロンの働きが弱いのとエゴセントリック座標優位ってのは繋がってるのかな? エゴセントリック座標優位……周囲の物事の関係性よりも、自分を中心に据えて考える傾向のことだけど…)だから当然、自分と近い人間といた方が自然体でいられるし、楽しい。と僕は個人的に思う。

まあ、今回、僕はAくんの気持ちが分かってなかったわけだが。

これも僕の発達障害特性なのだろうか? やってはいけないことをやってしまう、という点で。もしそうなのであれば、いじめの加害者と被害者どちらにも発達障害がいるというデータや、被害者が加害者にもなりやすいというデータを裏付けるものになるかもしれない。定型発達を敵視する発達障害者も多いが、実は発達障害者同士の諍いも多いのだろうと思う。ASDの拘りとADHDの感情の爆発はさぞ相性が悪いだろうと想像する。

Aくんが発達障害だけなら何もなかった。ただ、Aくんは知的ボーダーのような雰囲気があった。僕は専門の資格を持つ医者でもないから、勝手に障害名を付けることは褒められたことではないのだけど。僕の中の生理的嫌悪の感情を呼び覚ましたのはAくんの知的に課題のあるような雰囲気だった。といっても、Aくんの知能テストの成績を知っているわけでもないのでこれは完全に思い込み。とにかく僕はAくんを軽んじていた。

相手がしっかり報復してくるタイプの人だったなら、陽気なキャラの野球部だったなら、こんな上から目線でどうこうとジャッジしてなかったと思う。だからこれは僕の差別の心なのだ。

僕含め、ADHDはお風呂に入るのを面倒くさがりがちだ。Aくんの近くに寄ると独特の臭いがするのは気のせいか? Aくんはクチャラーだった。口を閉じずにご飯を噛むから咀嚼音が大きいのだ。僕はAくんの正面の席だったから、咀嚼するたびに見えるAくんの口の中のものが僕を不快にさせた。食品の油か何かがついて唇が妙にテラテラ光ってるし……。何も言わなかったけど、僕は席替えするまでAくんの食べ方に終始イライラしていた。

僕だって、いつも他人から癖をからかわれて、その度に、「他人の行動を、そんな逐一じっくり観察してるなんて、かなり失礼だろ!」と憤慨していたのに。

他人から悪意を向けられることがどれほど深く心を傷つけるか分かっていてなお。

のび太くんの話。人間の本質の話。

ドラえもんにそんな回があった。有名だから知っている人も多いかもしれない。のび太はご存知、弱者を絵に描いたようなキャラクターだ。昼寝とあやとりと射的以外、何をやってもダメな少年だが、それに輪をかけて何をやってもダメな少年が転校してくる。のび太は、普段ジャイアンやスネ夫に虚仮にされていたことを忘れ、その転校生に同じことをしてしまう。今風に言うなら、のび太の行為はまさにマウンティング。

それが人間の弱さなのだろう。のび太はなにもかもが徹底的に「弱い」人間なのだ。藤子F不二雄はそう描いた。自分がされて嫌だったことに想像が及ばない。一度味わってみないと想像できない上に、味わってもなお他人を傷つけてしまう。でもドラえもんの主人公はのび太だ。


「なぜ避けた」

先生が咎めたのは授業中に僕がふざけたことではない。僕がAくんの任務を妨害したことでもない。

そう、先生が見逃さなかったのは僕のおふざけではなく、僕の中にある差別心だったのである。

僕がAくんを何か汚いものかのように扱ったことを見抜いたのである。でもそれは、先生の中に「Aくんは生理的嫌悪の感情を向けられるタイプの生徒だ」という認識があったからこそ見抜けたことだ。

だから「おいお前! Aくんをバイ菌扱いしただろ。謝りなさい!」と先生は言えない。僕がそこで「違いますけど? 先生何を言ってるんですか?」と返せば、今度は先生が己の差別心をカミングアウトしたことになってしまう。

僕がAくんを差別したことは確かなのに、先生はそれを指摘できない。相変わらず僕は「すみません」としか言わない。「Aくんが気持ち悪かったからです」とは言えない。でも「嫌だなあ先生。単にふざけてただけですよ。Aくんと友達になりたかったんです」なんて堂々と嘘をつけないくらいには僕にも良心が残っていた。そして、「ふざけてただけです」で終わらせるのは教育上よくない、という先生の矜持があった。

事態はこうしてデッドロック状態に陥った。

(良心・倫理観‥‥ホモ・サピエンスの倫理モジュールとも言う。あんまり不道徳な奴は反社会的とみなされて周りの人に攻撃されるから適応的ではない。でも世の中にはそういう悪辣な人が一定数含まれるんだよねぇ。生まれつき倫理観を司る部位が弱いのかもしれないね。いや、それとも他人にバレない不道徳は返って適応的なのか。高度な遺伝的プログラムは自分自身すら騙す)

先生の追求は結局、なんか有耶無耶になって終わった。仕方ねぇだろ。デッドロック状態だったんだから。先生も僕もどうしたら良いのか分からなかった。何を言うのが正解だったんだろう、とは思うけど同時に、凄く本質的な差別の問題に接触したんだ、と最近になって思うようになった。人間の生理的な嫌悪の感情はなくそうと思ってなくせるものではない。差別心はホモ・サピエンスが生き残るために獲得した本能だ。(「ために」というか、結果的に生き残った、というのが正しいか)ただ、差別心と差別は違うような気がする。実際に行動に移しさえしなければ。差別心を残したまま差別しないでいることはできる。そのために、自分の中にある差別心と一度じっくり向き合う必要がありそうだ。臭いものにフタをするように、己の差別心を見ないふりしているだけでは、我知らず誰かを傷つけてしまう。

重ね重ね書くけど、内心傷ついていただろうに何も言わなかったAくんに今からでも謝りたい。彼は最終的に特別支援学級に移ったようだけど、当時の僕は全く興味を持たなかった。僕みたいな人間は、友達が少なくて当たり前だぁ! 彼が今、どこかで楽しく暮らしていることを願う。

「先生の厳しい御指導に感謝しています」みたいな言説を心底バカにしている僕がこんなことを言うのは滅多にないことなのだが、この件に関しては怒られてよかったと思う。先生があのとき怒ってくれたことに感謝している。そうでなければ、きっと大事なものを見落としたまま生きることになっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?