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人の人生を笑うな 〜JOKER〜

少々遅ればせながら『JOKER』を観た。

最後まで観終わり、映画館の電灯が点いて最初に出た言葉が
「ひどい映画を観た」
だったので、ひどい映画の感想として書きたいと思います。

※ネタバレあり。

マーベルが陽、DCは陰、というようなイメージでざっくりと一般論的に語られることもあるアメコミ(原作映画)ですが、それはあながち間違ってはいないところだと思う。
絶望の中に希望を見付けることがマーベル的な「生」の究極だとすれば、絶望は絶望で希望は希望、みたいな割り切りを感じるのがDC的な「無常」なのかもしれない。なんていうよくわからないことを考えながら、JOKERの本筋のことを考えるのはしんどいなぁと思っている。

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前提として、この映画そのものが、ジョーカーの語る妄想や法螺話の類かもしれないと思って観たいよねっていう。
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公開から2週間ほど経っているので様々な人の書いたレビューが読めるが、邪推と斜に構えた私カッコいいな内容ばかりである。
玄人も素人も考察の前にまずまっすぐ作品をたのしんでみてはどうか?と言いたくなる。
それから、共感性羞恥を持つ人にとっては最悪な映画である。むしろこじらせるかもしれないから、気軽におすすめはしない。
主人公で、後のジョーカーであるアーサーは、やることなすこと裏目に出続けるタイプなので、初っ端からオープニングタイトルが出るまでの悲惨さからして、察しの良い人なら始まって10分そこらでわかってしまうだろう。
つまり、この映画は、客の“嫌な予感”が悉く当たるのだ。むしろ、その嫌な予感を超えてくるのだ。
すべからく悲観的な人が観ても、その想像を超えるのではないか。
すうっと、心が冷えていくのを幾度も感じながらの鑑賞である。

“うわー、これ絶対うまくいかないやつだし最悪なことになるから見てらんないよ……ほらやっぱりこうなった心臓痛いしもう帰りたいつらい。”

全編そんな感じである。
ただし、ここで重要なのは、そうやって観ていてもアーサーには同情しづらい点だ。
彼が辱めに遭うことはつらいし可哀そうなのだが、彼その人に共感はできない。
なぜか。理由は簡単。
「アーサーは俺だ」なんて思う人が多いだなんだという触れ込みが公開当初からあったし、マーケティングなのか仕込みなのか、アメリカでは警察騒ぎすら起きていた。
格差と貧困が生むフラストレーションは、それを生み出す富裕層に向かう。当然だ。
それはアメリカであり、日本でもある。
でも、アーサーは違う。
社会に不満を抱いてはいるが、仕組みに興味がない。確かに、そういう人は少なくない。
選挙に行かないのに、消費税にことで文句言う人なんかが良い例である。でも、彼らは悪ではない。
アーサーは悪だった。実は。しかもそれは、善悪に相対する価値観としての悪ではない。

ちょっと話は変わるが、あの映画における暴動というか無法地帯化を香港やバルセロナや国会前と同質に語る奴らは、明らかな阿呆である。

アーサーは格差を憎まない。社会も憎まない。不幸で不遇で悲惨な人生を憎むが、社会を変えたいとは思わない。幸せや恵まれているというビジョンが彼の中に存在しないので、それも望まない。
自分に優しくなかった人たち、自分を傷付けた人たちに刃を向ける。
至極単純な行動原理である。
だからこそ、共感ができないのだ。

彼にはいわゆる倫理観が欠けているから。
いや、欠けているのではなく、倫理観なしに完成された人格だから。

じゃあ彼の生い立ちの不幸に同情したらどうか?と思う善なる人もいるかもしれない。
ここに、「アーサーは俺だ」の落とし穴がある。
虐待?
病気?
障害?
養子?
介護?
彼の生い立ちそのものには(本当であれば)確かに同情の余地もあろう。
だとして、「だったら仕方ないよねー」となるのか?
例えば、最近よく聞くようになったが、介護疲れから年老いた親を殺す事件。それはある意味で無能な政治が生み出した不幸であり、社会問題である。そこには同情の余地が多分にある。ともすれば自分も?そう思う人は少なくなかろう。かく言う私もそうだ。
だが、アーサーのそれとは違う。
そもそも彼は、一度として人を殺したことを後悔しないのだ。
良心の呵責に苛まれるシーンがないからこそ、この映画はジョーカーを描けていると言える。
動揺はしても、それを当然のように受け入れることのできる精神。
それは、障害や精神病の作用ではない。
むしろそれらの「せい」にしないことが、ジョーカーのヴィランとしての特異性なのだ。
道の前に立ちはだかったものは、排除せねばならない。なぜならそれは俺を傷付けたから。

もし、何かの「せい」にするとすれば、それはバットマン=ブルースだけ。

アーサーはジョークが理解できないのか、笑いのツボが他人とは違うのか、どちらなのだろうか。彼がハイコンテクストなジョークの仕組みを分かっていないようには見えない。
しかし、彼のジョークは異質だ。
コメディアンになりたいという彼の思うコメディアンとは、何だったのだろうか。
同じDC作品『ウォッチメン』には、コメディアンというヒーローが登場する。
コメディアンは、暴力と破壊衝動と欲望が高い知能とCIAのお墨付きを身に着けたような、アメリカの負の側面を人にしたような存在である。
生殺与奪権を与えられた無駄に賢いジャイアンとでも言おうか。
アーサーがこのコメディアンになりたかったなんてことはないだろうが、自ら主観としてのコメディアンを名乗ることは、もしかしたら似たようなものではなかろうか。

ジョーカーの物語に救いがあってはならない。
アーサーは、彼の幸せな記憶のすべてが妄想でなければならないし、ブルースは両親を亡くさねばならない。
そして、私たちが不幸だと感じることが、ジョーカーにとっても不幸だとは限らない。
もし、「アーサーは俺だ」と一度でも思った人は、今一度考えてみてほしい。
自分は地下鉄の3人じゃないのか?アーサーのいけすかない同僚じゃないか?「母と暮らしてる」に笑ったその他大勢じゃないか?と。
それらは、ただのつまらん凡庸な悪である。
どこにでも存在する、身の安全が保証された集団になったときに表出する悪。悪ノリ。
カジュアルにジョーカーに感情移入するお前らは、決してジョーカーではない。
仮面を被って火炎瓶を投げる侠気もない。
迷惑をかけられることに苛立ち、電車が止まらないことを祈るだけ。
誰かのせいで自分は不幸になり、それを憎み恨むから悪になった……そんな受動的な精神ではジョーカーになんぞなれやしない。
小狡く立ち回り、毎度のように殴られたり蹴られたりしてボロボロになり、笑い声で周囲をささくれ立たせ、巧みなレトリックで相手を翻弄し、罪の意識を刺激し、当然のように命を粗末にするジョーカー。決して強くはない。怪我はすぐ治るけど。直接的な戦闘力という部分で言えば、ペンギンやリドラーにすら劣る(ように振る舞う)。
そんなジョーカーは、バットマンの最強の敵である。ジョーカーではないお前らにその意味がわかるだろうか。
アーサーが凡庸な悪であった瞬間は、マレーを殺した時だけ。彼はあのとき、人がわかりあえないことを自分の言葉で悟った。
月並みな言葉で言えば、アーサーはマレーの向こうに父性を見ていたのだろうと思う。超えるべき存在。マッチョイズムの跋扈する世界における、コンプレックスの典型であり、トーマス・ウェインを殺せなかったアーサーはマレーを殺すことで父殺しを完成させ、ジョーカーという悪へと昇華する。平凡な映画評論家ならそんなことを言ってお茶を濁すのではないか。
誰にも優しくされなかったアーサーが、自分に優しくないなら死んでしまえと、自分を笑いものにするなら死んでしまえと銃をぶっ放す。あのとき、彼は笑っていないが、生涯で一番嬉しかったのではないかとも思う。

登場人物たちの口にするジョークは、他人をこき下ろし、辱め、嗤うものばかり。弱者を、女性を平気で傷付け、それをネタにしてまた笑う。笑いの質がとにかく下衆。現代を生きる人として当然の人権感覚を持っていれば笑えないものばかり。しかし、それらは時代だから、ゴッサムシティだからではない。
それは今も確実にそこかしこにあることへのアイロニー。テレビもネットもそればっかりだ。
そして、マレーはその頂点にいた。
マレーもトーマスも、別々の「頂点」にいたから殺された。マレーは貧困の原因たる社会構造から人々の意識を逸らすコメディアン。トーマスは行政さえ支配下に置き街を牛耳る資本家。社会を別々の形で押さえつけていた重石だった彼ら。
彼らが憎んだのは貧困層である。
自分たちの独善と経営と欲望が生み出した貧乏人を憎み、挙げ句にその象徴に殺された。
それに関しては、真のコメディと言えよう。
だとしても、アーサーもジョーカーも別に人権のために戦っているわけではないし、貧困層の解放など考えてもいない。

冒頭でひどい映画を観たと書いたが、それは脚本や演出にも言える。
ご都合主義なのは映画として結構なのだが、
要所要所のツメの甘さを俳優たちの迫力と観客の同情心でごまかそうとしているのが丸わかり。ホアキン・フェニックスとロバート・デ・ニーロが「こまけぇこたぁいいんだよ!な!」と肩を叩いてくる感じ。キャスティングによっては、子供だましと言われたかもしれないよね。

テレビで『インセプション』を放映した際に、ダイブした意識のレイヤー構造のわかりにくさから「第一世界」「第二世界」のように右上にキャプションを出すという視聴者フレンドリーな演出をしたのは記憶に新しいと思う。この『JOKER』も、もしもテレビ放映する際には「妄想」「現実」というキャプションを付けてはくれまいか。
私には結局境目がよくわからなかったので。
全部妄想でもいい。

毎度の如く、着地点が見出せないまま4000字に達しようとしている。

観て後悔する映画には2種類あって、一つはつまらなかったから。もう一つは、落ち込んだからだ。
今回は、後悔はしなかった。落ち込んだ。
このなんともいえないエグいモヤモヤを解消できるのは何だろうか。無心で料理を作るとか、そういうある種の単純作業で忘れるしかない。
口コミで、デートに向いていないなどと言われていたが、『JOKER』は最高のデートムービーだと個人的には思う。オススメはしないが。
この陰鬱で出口のない、どうしようもなく吐き気すら覚える映画を、裸でシーツにくるまって語り合えるなら、きっと長く付き合っていける。価値観の違いを越えて、パートナーたり得るかのリトマス試験紙になりそうなならなそうな。

以上。終わり!

最後のトムとジェリーみたいなあれは何だったの。

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